320.香りの向こうで
「リュミエール商会へようこそ」
ネロくんの声は穏やかだったが、その奥にわずかな緊張が潜んでいた。
三人組の先頭に立つ女性は、店内を静かに見渡すと、透きとおるような声で口を開いた。
「……こちらの商会が、“香りを扱う店”と伺いました」
澄んだ響きと凛とした品。若いのに落ち着きがあり、言葉の端々から育ちのよさがうかがえる。
その声だけで、場の空気がひときわ静まり返るようだった。
「ええ。ハーブや香油、入浴用の香りなどを取り扱っております」
ネロくんが丁寧に応じると、女性は小さくうなずいた。
深くかぶったフードの下からは表情がうかがえない。
けれど、その所作には妙な優雅さがあった。
──まるで、人に見られることを心得ているかのように。
(……やっぱり、ただの客じゃない)
棚の陰から様子を見ていた私は、胸の奥で小さく息をのむ。
中年の女性が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「お嬢様は、香りに関して少し特別なご相談を──」
「お待ちなさい」
若い女性が静かに制した。
その声音には、侍女をたしなめるに十分な威厳がある。
フードの奥から放たれた声なのに、不思議と強い存在感があった。
やはり──彼女と他の二人の間には、明確な主従関係があった。
女性はネロくんに向き直り、柔らかな微笑を感じさせる声で言う。
「人目につかない場所で、少しお話を伺いたいのですが……」
「かしこまりました。個室をご案内いたします」
ネロくんが軽く会釈し、奥の応接室へと導く。
護衛の青年は警戒を崩さず、半歩後ろで主を守るように歩いた。
その背を見送りながら、胸の奥がざわめく。
あの女性の物腰──あれは高位の貴族か、もしくは……。
なのに、護衛と侍女を一人ずつしか伴わず、ひっそりと来訪した理由とは?
ネロくんが三人を部屋に通したあと、私の方へ戻ってきた。
「ティアナ様……俺が立ち会ってもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。でも、私も行くわ」
笑顔で返すと、ネロくんは真剣な顔でうなずき、低く言った。
「……最初は控えめに。お客様がなにを求めていらっしゃるのか、まずは聞いてみましょう」
「了解」
私が頷くと、彼の表情に再び鋭さが戻る。
心配そうにこちらを見ていたニナちゃんに声をかけた。
「ニナちゃん。念のため、個室にお客様をご案内したと、ミランダお姉様たちに伝えてきてくれる?」
「は、はいっ! 承知いたしました!」
慌てて頭を下げた彼女は、駆けるように店を出ていった。
その背中を見送りながら、私はふっと微笑む。
(真面目で一生懸命……。これからの成長が楽しみね)
気を取り直して、リズに声をかける。
「リズ、お客様にお茶のご用意を。茶葉は最高級のものをお願い」
「承知いたしました」
短い返事とともに、リズは手際よく準備を始める。
磨かれたティーセットの銀縁が、初夏の陽射しを受けてきらりと光った。
ハーブの香りと、わずかな緊張が入り混じる中で、
私たちはそれぞれに最上のおもてなしを整えていった。
◇
ドアの前で、呼吸を整える。
──よし。
規則的に二度、ノックをした。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
静かに扉を開けると、応接室には淡い光が差し込んでいた。
窓辺の花瓶には、店の庭で摘んだラベンダーと白い小花。
その香りが、やさしく室内を満たしている。
テーブルを挟んで向かい合うのは、ネロくんと三人の客。
先頭の女性は、まだ深くフードをかぶったままだった。
それでも──ただそこにいるだけで、目を引く。
姿勢、仕草、言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた美しさを持っている。
その存在感は、まるで光をまとっているかのようだった。
「お持ちいたしました。ローズヒップティーです。
少し酸味が強いですが、はちみつを加えておりますので、飲みやすいかと」
私はトレイを置き、三人分のカップを丁寧に配る。
女性は顔を上げず、小さくうなずいた。
「ありがとうございます。……とても良い香りですね」
その一言で、室内の空気がわずかにやわらぐ。
だが──彼女の下を隠す影の奥から、静かな視線を感じた。
まるで、何かを探るように。
やがて、彼女は一口ローズヒップティーを口に含む。
ほんのわずかに息をつき、低く呟いた。
「……おいしい。心がほぐれるようです」
「ありがとうございます」
ネロくんが穏やかに答えると、女性はそっとカップを置いた。
深くかぶったフードが、わずかに揺れる。
「実は、ある“香り”を探しているのです」
その言葉に、空気がぴんと張りつめた。
ネロくんも私も、自然と背筋を伸ばす。
「香り……でございますか?」
ネロくんが静かに問い返す。
女性は一瞬だけ迷うように沈黙した。
やがて、フードの奥から、静かな声が落ちる。
「──思い出の香りを、もう一度取り戻したいのです」




