314.ルナの新しい世界
森の木々を抜けると、途端に空が開けた。
淡い雲がゆるやかに流れ、風が草をなでて波のように広がっていく。
陽光がまっすぐ降りそそぎ、地面の緑を金色に染めていた。
ルナは小さく鼻を鳴らし、草の匂いを嗅ぐ。
森の湿った香りとは違う、少し乾いた匂い。
土の熱と、遠くの花の香りが混ざり合った──“別の世界”の匂いだった。
「怖くない?」とステラが尋ねる。
『ちょっとドキドキするけど……たのしい!』
その言葉に、ステラがやわらかく微笑んだ。
私はルナの横にしゃがみ込み、覗き込むように言う。
「もうここは森の外よ。馬車や人が通ることも多いから、驚くかもしれないわね」
『ばしゃ?』
「ふふ、それは行ってからのお楽しみね」
ステラの穏やかな声に、ルナは尻尾をぱたぱたと揺らした。
少し前を歩いていたレーヴェが、耳をぴくりと動かし、こちらを振り返る。
「……ステラ、それにティアナ様も。ルナの言葉が分かるのですか?」
その声にはっとする。
──ああ、そうか。ルナの声は、私たちにしか届いていないんだ。
もう当たり前のように会話していたから、そのことをすっかり忘れていた。
どう答えようか考えた瞬間、ネージュがさらりと口を開いた。
「うん。ティアナたちはルナの言葉が分かってるよ」
拍子抜けするほどあっさりした口調に、思わず肩の力が抜ける。
「ステラはルナと契約したようですから分かりますが……ティアナ様も分かるのですね」
リズが顎に手をやり、興味深そうにルナを見つめた。
「ネージュ様のように、ルナがリズ様やお兄ちゃんと会話することは難しいのですか?」
ステラが首を傾げて尋ねると、ネージュはにんまりと笑う。
「いずれはできるようになるよ。
まだ、ルナもステラも若いから。少し時間はかかると思うけどね」
「えっ!?」
思わず声が出た。
“まだ若い”って……。
ネージュなんて生まれた直後からリズたちと話してたし、
そのときの私の年齢なんて、今のステラとそう変わらないのに。
そう思っていると、ネージュと目が合う。
ふふん、と笑いながら胸を張るネージュ。
「ネージュは特別なの!
卵のときからジルティアーナたちの魔力をもらってたし、
ティアナは普通の人間より魔力が多いもの。
だから最初から、しゃべれたのよ。――ね、すごいでしょ?」
得意げに言い切るネージュの声に、ルナがきょとんと首を傾げた。
風が吹き抜け、あたたかな空気が草原に広がる。
ルナはその風に耳を傾け、ステラの腕から飛び出したかと思うと、ふらりと一歩踏み出した。
陽の光を浴びた毛並みがきらめいて、まるで小さな灯が歩いているようだった。
『ねぇ、この風──森のとはちがうね』
「うん。ここは人の世界だから。風の流れも、空気も、少し違うと思うわ」
『人の世界……』
ルナはその言葉を繰り返すように、ぽつりと呟いた。
少し歩くと、遠くの丘の上に白い建物が見えてくる。
屋根の上に風見鶏が光り、道を行く馬車が小さく見えた。
空気の向こうから、人の声や笑い声がわずかに届く。
「……見えてきたわね。あれが街よ」
「クリスディアはたくさんの人々が集まる、海と観光の街だ。朝から市場も開いている」
レーヴェの説明に、ステラが目を輝かせた。
「ルナ、初めての街だね!」
『うん! あそこに行くの?』
私たちが笑顔で頷くと、ルナは嬉しそうに鳴き、前を駆け出した。
私はその背中を見つめながら、胸の奥にふわりとした温かさを覚える。
──聖霊様。
ルナはちゃんと、外の世界を見て、感じて、歩いていますよ。
「ティアナ様?」
リズの声に顔を上げた。
「……ううん。なんでもない」
「そうですか」
リズが優しく言い、ステラがそっと微笑む。
その横でネージュがくるくると空を回りながら、笑い声を上げた。
「ねぇねぇティアナ。街についたら、甘いお菓子買っていい?」
「もう……また食べることばかり言って……」
「だってルナにも、人間の甘いおやつを見せてあげたいんだもん!」
『おやつ!? たべてみたい!』
ルナが目を輝かせる。
その元気な声に、思わず笑いがこぼれた。
風に乗って、みんなの笑い声が空へと溶けていく。
青空の下、街への道は穏やかに続いていた。
──こうして、ルナの新しい世界が、静かに動き出した。




