298.涙のあとの、おにぎり
涙と笑顔に包まれたひとときも、やがて静けさを取り戻していった。
胸の奥に残る余韻は消えないけれど、重たいものは少しずつ解け、場の空気はやわらかさを取り戻していく。
そんな中で、ぽつりと──。
「なんか、お腹空いちゃった……おにぎり食べたい」
エレーネさんがらしい一言をこぼす。
声に気負いも遠慮もなく、ただ素直に出た言葉。それだけで張り詰めていた空気が崩れ、皆は顔を見合わせて笑った。
「……せっかくだし、みんなでご飯にしましょう。私が作るわ」
そう言って立ち上がると、エレーネさんが「おにぎりですか!?」と目を輝かせた。
子どものように無邪気な反応に場が和み、ダンさんも「俺も手伝おう」と腕まくりをする。
その力強い仕草に子どもたちの顔もぱっと明るくなり、食卓の準備が始まった。
◆
やがて長机の上に並んだのは、ダンさんが用意してくれた湯気立つ具だくさんの味噌汁と、炊きたてのご飯、そして小鉢に分けられた具材たち。
梅干し、鮭のほぐし身、甘辛く煮た昆布。どれも素朴だが、ご飯をいっそう美味しくする定番の味。
そして──ひとつだけ、特別な具材を忍ばせておいた。
この世界の一般家庭にはキッチンはなく、凝った料理は望めない。けれどマジックバッグにしまっていた副菜を添えると、思いのほか食卓は賑やかになった。
「うわぁ! おいしそう!」
ルトくんが目を輝かせ、ネロくんもごくりと喉を鳴らす。
その様子にロベールさんはやさしい笑みを浮かべ──すぐに真剣な面持ちで頭を下げた。
「エレーネと俺の脚まで治してくださり感謝しかないのに、料理まで……本当にありがとうございます。
ダンも昨日はろくに寝ていないだろうに、すまない」
思わずダンさんと目を合わせる。
「気にするな。これはエレーネと──そしてお前の快気祝いだ」
彼はそう言って、心から嬉しそうに笑った。
その笑みに込められた想いは、きっとロベールさんにも伝わっているはずだ。
「……ダン」
目尻に涙がにじむロベールさんに、ダンさんはまっすぐ告げる。
「お礼なら、お前がまた元気にこの街を守ってくれればいい。
──ただし、自分の体を大事にな。命を粗末にするな。お前には、守るべき大切な家族がいる」
「ああ……肝に銘じるよ」
その答えを聞きながら、私は炊きたてのご飯を手に取り、おにぎりを握った。
湯気の熱に指先を火照らせつつ、塩をひとつまみ。心を込めて形を整える。
「はい、できたわよ」
最初に差し出したのは、ふっくらと湯気を立てるおにぎり。
表面には軽く塩がきらめき、見た目はただの塩むすびに見える。
「ありがとうございます、待ってました! いただきまーす!」
エレーネさんが嬉しそうに声を上げ、ぱくりと一口。
咀嚼した瞬間、驚きに目を見開く。
「こ、これ……っ!」
ご飯の粒の間から覗いたのは、宝石のように輝く朱色の粒。いくらだった。
「……ティアナさま……っ」
潤んだ瞳で見上げてくる彼女に、私はやわらかく微笑んだ。
「本当にお疲れ様、エレーネさん。
妊娠中、ずっと我慢していたでしょう? 大好きな筋子のおにぎり。
授乳中も多少は気をつけるものがあるけれど、妊娠中よりはずっと少ないの。だから、美味しいものを食べて、しっかり栄養をつけてね」
その言葉に、エレーネさんの表情が一変した。
妊娠中のつらさ、食べたいのに我慢していた日々が一気に蘇り、こらえていた涙があふれ出す。
「はい……っ、ありがとうございます……っ!」
手が震えながらも、おにぎりをまた一口。
涙と一緒に頬張り、震える声で叫んだ。
「……うう、最高に美味しい!」
その姿に、皆の顔も自然とほころんだ。
そのとき──。
ネロくんが小さなハンカチを取り出し、無言で父親に差し出した。
ロベールさんはそれを受け取り、エレーネさんの涙をやさしく拭ってやる。
……さすがネロくん。いい男に育っている。
父に花を持たせるその心遣いに感心しながら、私は次のおにぎりを握った。
場の空気は一層やわらぎ、笑い声がこだまする。
ルトくんは梅のおにぎりを頬張り「すっぱ! でもおいしい!」と顔をしかめては笑い、
ネロくんは鮭のおにぎりに夢中になっている。頬をふくらませ、ご飯粒を口の端につけたままの姿が微笑ましい。
「やっぱり、こういうのは腹に沁みるな」
ダンさんはそう言いながら、お椀に味噌汁をよそい、次々とみんなに手渡していく。
味噌と出汁の香りが立ちのぼり、湯気が室内を満たす。
ロベールさんはその光景を見渡し、小さく息をついた。
「……こうして皆で食卓を囲めることが、どれほどありがたいか……」
その呟きは誰に聞かせるでもなく、けれど場の全員の胸に響いた。
温かな湯気に包まれ、食欲と笑い声が重なり合う。
涙のあとに訪れた笑顔は、どんなご馳走よりも尊い。
私は炊きたてのご飯をまた手に取りながら、胸いっぱいの幸福感を噛みしめていた。




