290.絆の証
「……聖霊さま……?」
無意識にこぼれた声に反応するように、目の前に光が集まっていく。
やがてそれは人のような輪郭を帯び、淡く揺らめいた。──けれど、それが“人”なのかは分からない。年齢も性別もなく、ただ光の塊が形を成しているだけだった。
顔も見えないのに、不思議と“笑っている”と感じられる。
耳で聞くのではなく、頭の奥に直接響いてくるやわらかな調べ。声とも呼べぬその響きは、ただ存在そのものを伝えていた。
『──こんにちは』
「こ、こんにちは……」
反射的に挨拶を返すステラ。
『ようこそ、ステラ』
「えっ……どうして……?」
なぜ自分の名前を知っているのか──問いかけるより早く、“光”は応えた。
『知っていますよ。私はこの森のことなら感じられます。少し前に、その子を助けてくれたでしょう? あの時から、あなたを見ていました』
「その子……ルナのこと?」
少し前、と言われステラは瞬きをした。あれはもう五年前のことだ。
だが聖霊にとっては“ほんの少し前”に過ぎないのかもしれない。そう思った途端、光が穏やかに続けた。
『そうです。あなたたちと私の“時”の流れは違うのです』
やわらかな響きが頭の奥に広がる。
心を覗かれているようで──けれど、不思議と怖くはなかった。
「……やっぱり、聖霊さまなんですね?」
問いかけると、光はふわりと揺れ、泉の水面に無数の波紋を描いた。
『聖霊……そう呼ぶのなら、それでもよいでしょう。私はただ、この森と共に在るもの。水や風、光や土……この森で生きるすべてを愛し、見守る存在です』
「森と……共に……?」
『はい。そして、ステラ。あなたはその響きに触れることができる。だからこそ、この場所へ招かれたのです』
「わたしが……?」
胸に手をあてる。けれど、自分に特別なものがあるなんて思えない。
「わたしに、そんな力なんて……」
『力ではありません。心です。あなたは“感じようとする心”を持っている。それはとても尊いことです』
光の言葉に、ステラの瞳が揺れた。否定しようとしても、胸の奥で確かに脈打つものがある。
足元のルナがステラを見上げ、そっと寄り添った。
小さなぬくもりが、固く緊張していた心をやさしく解きほぐしていく。
「……ルナ」
抱き上げると、ルナは安心したように体を預けてきた。
『その子を──ルナを助けてくださり、ありがとうございました』
「いえ、そんな……。ポーションを用意してくれたのはティアナ様ですし、私は何も……」
『いいえ、違います』
きっぱりとした否定に、ステラは目を見開く。光は続けた。
『あなたが“ルナ”という名を与え、忘れずに思い続けてくれたからこそ、ルナの角は癒えたのです』
「えっ……?」
驚いてルナの頭に目をやる。そこには、かつて無惨に折れていたはずの角が──立派に生えそろっていた。
小さな角は左右そろい、淡く輝いている。
ルナは胸の中で小さく鳴き、まるで「大丈夫だよ」とでも言うように頭をすり寄せてきた。
「わたしの……想いが……?」
呟いた声に、聖霊は静かに応えた。
『そうです。想いは時に形を変え、力となるのです。癒しも、絆も──そして未来さえも』
「未来……?」
『ステラ。あなたがルナを忘れずに願い続けた、その積み重ねが道をつなげたのです。だから、この子は再び“角”を得ることができました』
ステラは胸に手を当て、涙をこらえながら笑った。
「……ルナ……よかったね。本当によかった……」
ルナは嬉しそうに鳴き声をあげ、光の粒がその体をやさしく包む。
そして──
「えっ!?」
思わず声が漏れた。
なぜなら角が一本、根元からポロリと抜け落ちたからだ。
「な、なんで……? せっかく綺麗に……」
動揺に涙がにじむステラを見守るように、聖霊は静かに告げた。
『心配はいりません。折れたのではなく──ルナ自身の意思で手放したのです』
「ルナの……意思……?」
『ええ。ルナは、その角をあなたに託したいと願っているのです。あなたと、あなたの大切な者のために』
「大切な、者……?」
そう言われ、最初に思い浮かんだのは今も洞窟の外で自分を案じている兄──レーヴェの姿。
そして、ティアナに……
「エレーネさん?」
ステラにとって大切な者。その中で今、最も苦しんでいる存在──エレーネの姿が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。
聖霊はそれを感じ取ったように、深く響く声で告げた。
『ルナの角を煎じ、あなたの祈りと共に飲ませなさい。きっと、その者は癒やされるでしょう』
ステラは抱いたルナを見つめた。
ルナは不思議そうに小首をかしげ、次の瞬間、まるで「いいんだよ」と言わんばかりに尻尾を揺らした。
「ルナ……あなた、本当に……」
胸の奥が熱くなり、言葉がつまる。
聖霊の声が優しく重なる。
『それは贈り物ではなく、絆の証。角は失われても、再び芽吹くでしょう。だから恐れずに受け取りなさい』
ステラはそっと落ちた角を拾い上げた。
小さな欠片は淡く光を宿し、指先に触れるとほんのりと温かい。
「……絆の、証……」
胸に抱き寄せると、鼓動が角を通して確かに響き合った気がした。
不思議と心が安らぎ、同時に大きな使命を託されたような重みが広がる。
ルナが小さく鳴いた。
その声に背を押されるように、ステラは強く角を抱きしめた。
柔らかな光が揺れ、やがて静かに消えていく。
残された温もりを胸に抱きながら、ステラは深く息を吸った。
「……ありがとうございます、聖霊さま」
彼女の小さな声は、泉に波紋を残しながら静かに溶けていった。




