288.再会の湖、祈りの先に
エレーネのお見舞いを終えた帰り道。
落ち込むステラを気遣うように、レーヴェが隣を歩いていた。
「……無力な自分が悔しい」
吐き出した声は小さく、風にさらわれていった。
そう言いながら、ステラの足は自然とあの場所へ向かっていた。
辿り着いたのは、かつて皆で素材を採取した森の奥、静かな湖。
──角の折れたジャッカロープ、ルナを探して毎日のように通った場所。
結局あれきり逢えなかったけれど、ここは変わらずステラにとって特別な場所だった。
ルナがいなくても、不思議と心が落ち着くのだ。
悲しいときも、落ち込んだときも、嬉しいときも──
ここに来ては、ルナやこの地に棲む聖霊に語りかけるように心を打ち明けてきた。
その話をクラース団長にしたとき、彼はこんなことを教えてくれた。
「あの大樹があったころは、聖霊様を祀るために、街の誰かが必ず供え物をしたものですがね」
だが、その大樹はイザベルによって無惨に刈り取られてしまった。
それからは誰も訪れなくなり、いつしか人々の記憶からも薄れていった。
忘れ去られた場所。
無惨に刈り取られた大樹の姿は──
かつて何もできず、ただレーヴェに守られるだけだった自分と重なって見える。
だからこそ、ステラにとってこの湖は特別だった。
毎日は難しくても、今でも週に一度は訪れて祈りを捧げ、供え物を置くのが彼女の日課になっていた。
「ここは……相変わらず、不思議な場所だな」
レーヴェがぽつりと呟く。
いつもならひとりで訪れるこの湖に、今日は彼も一緒だ。
人の気配に逃げるはずの蝶たちは逆に舞い寄り、まるで歓迎するかのように二人を囲む。
ステラがそっと手を差し伸べると、一匹の蝶がふわりとその指先に止まった。
蝶の羽がかすかに震えるのを見ながら、ステラはかすれた声を漏らした。
「……わたし、本当に何もできない。エレーネさんの力になりたいのに……」
レーヴェはしばらく黙っていたが、やがて湖面を見つめたまま言った。
「何もできないなんて、勝手に決めつけるな。ネロもお前の言葉に“救われた”と言っていただろう。お前にしかできないこともある」
ステラははっとして彼を見上げた。
その瞳には、淡々とした口調とは裏腹に確かな優しさが宿っていた。
「俺はずっと見てきた。お前がどれだけ変わったか……“弱いまま”だと思うなら、それは間違いだ」
ステラの指に止まっていた蝶が、羽ばたいて宙へ舞い上がる。
彼女の瞳もまた、ほんの少し光を取り戻していた。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
小さく笑うと、ステラはマジックバッグからオリバー特製のくるみパンを取り出し、切り株となった大樹の前にそっと置いた。
そして両手を合わせる。
「……エレーネさんを助けてください。エマちゃんから、お母さんを奪わないでください」
目を強く閉じ、祈りに力を込めたそのとき──
カサッ、と小さな音が長耳を震わせた。
ステラの耳がぴくりと動く。
はっと振り返る。
「……ルナ?」
草の間から、一匹のジャッカロープが静かにステラを見つめていた。
しばらく見つめ合ったあと、ルナはふいに背を向けて駆け出した。
「ま、待って──!」
ステラの足が勝手に動く。
「ステラ、危ない! 待て!」
レーヴェの制止の声も届かない。
草木をかき分け、必死に追いかけた先に、岩の割れ目が現れた。
ルナはその前で立ち止まり、振り返る。
「ルナ……!」
息を切らせて呼ぶステラ。
そこにいたのは、記憶にあるか弱い姿ではなかった。
脚の傷は癒え、かつて折れていた角は見事に生えそろっている。
毛並みは光を受けて柔らかく輝き、かつてよりもずっと強く、美しく見えた。
「……ルナ? 本当に、ルナなんだよね?」
ステラがおずおずと問いかけると、ルナは応えるように鼻先を彼女の胸に寄せた。
「ルナ……! ずっと会いたかった。元気そうで……本当に良かった」
ステラの頬を涙が伝う。
ルナは小さく鳴き、彼女を安心させるように鼻をすり寄せる。
だが次の瞬間、すっと離れて再び岩の割れ目の前に立ち、暗がりを見つめた。
「ルナ……?」
そこへ追いついたレーヴェが、息を荒くして声を張り上げる。
「勝手にひとりで行ったら危ないだろう!」
「ごめんなさい……でも、ルナが……」
ステラは俯きながら弁解する。
レーヴェは目を細め、ルナへと歩み寄った。
「……本当に、あの時のルナなのか? 見た目は少し違うが……」
そっと鼻を近づけて匂いを確かめる。
やがて小さく頷いた。
「……間違いない。同じ匂いだ。あの時のルナだ」
「ほんとに……ルナ……!」
ステラの表情がぱっと明るくなり、溢れる涙を拭って笑みを浮かべる。
ルナはそんな彼女を見やりながら、なおも岩の割れ目を見つめ続けていた。




