286.約束のそばで
「……エレーネさんの様子は、どうなんですか?」
その声に、ふたりの表情が一瞬だけ曇った。
リズは赤ん坊を見つめながら、ゆっくりと首を振る。
「変わりません。まだ眠ったままで……熱もあって、楽観はできません」
短く告げられた言葉に、心の奥が重く沈んだ。
隣のダンさんも、腕を組んで深く息を吐く。
「ロベールの奴は、一晩中つきっきりだった。あの手を離そうとしなくてな」
「……でも明け方になって、ようやく力尽きたように眠ったんです」
リズが静かに続ける。
その声にはわずかな安堵も混じっていたが、それ以上に憂いが勝っていた。
「このままでは……ロベールさんまで倒れてしまいます」
彼女の呟きが、居間の空気を震わせた。
確かに、夜通し続く緊張と不安にさらされれば、どんなに強い人でも持ち堪えられない。
エレーネさんだけでなく、ロベールさんのことも守らなければ──そう思うと、胸が締めつけられる。
ダンさんは拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「くそ……っ! なんで、あいつばっかり辛い目に遭わなきゃいけないんだ」
その声は低く震え、悔しさと無力感に満ちていた。
「もしこれで……エレーネを失うようなことがあれば、今度こそあいつは耐えられない」
重い言葉が落ち、胸の奥を鋭く抉られる。
私も、ステラもレーヴェも、痛みに顔をゆがめた。
そのとき、記憶が甦る。
ロベールさんとエレーネさんが「結婚する」と告げたときのこと。
歳の差もあり、私を含め皆が驚いた。
けれどエレーネさんは言ったのだ。
「私はロベールさんと結婚するだけじゃありません。ネロくんとルトくんのお母さんにもなりたいんです」と。
その言葉は真っ直ぐで温かく、聞いた瞬間から心に深く残っている。
そして結婚した彼らの暮らしは、誰が見ても幸せそのものだった。
ロベールさんとエレーネさん、そしてネロくんとルトくん。
笑顔の数は増え、確かな家族の形がそこにあった。
やがて新たな命を授かったとき、皆が心から喜んだ。
だが同時にエレーネさんは不安を抱いていた。
「ふたりの子どもたちはどう思うだろう」と。
しかしそれは杞憂だった。
ルトくんは小さな体いっぱいに喜びを爆発させ、ネロくんは祝福の言葉を贈りながら、彼女の体を気遣っていた。
──その直後、私とステラはネロくんから本心を聞いた。
私は思春期の彼が複雑な思いを抱えていないか、心配だった。
けれどネロくんが抱えていた思いは、私の予想とは違う心配だった。
少し照れたように笑って言った。
「エレーネさんが体の弱かった母さんと違うことは分かってる。でも……やっぱり、不安になっちゃうんだ」
笑顔に潜む影を見て、私は咄嗟に彼を抱きしめた。
そしてステラがネロくんを真っ直ぐに見つめ「絶対、大丈夫だよ」と言った。
その言葉に私とネロくんも頷き、その約束を胸に刻んだはずだった──。
現実に引き戻される。
目の前で、ネロくんは弟を抱き寄せたまま浅い眠りに落ちている。
その顔には疲労と涙の跡が残り、いつもより幼く見えた。
私は唇をきつく噛む。
彼の不安が現実になってしまったのだ。
祈りも約束も、今はただ揺らいでいる。
「私……ネロくんに無責任なこと言っちゃいました」
いつの間にか横にいたステラが、ネロくんの寝顔を見ながら涙を流した。
「ステラ……」
私は小さく名前を呼ぶ。
彼女は唇を震わせながら首を振った。
「『絶対に大丈夫だよ』なんて……根拠もなく、ただ励まそうとしただけで……。ネロくんに重い期待を背負わせただけかもしれない」
「違うよ」私はやわらかな声で言った。
ステラの肩に手を置き、目を逸らさずに続ける。
「もしステラが言わなかったら、私が同じことを言ってたよ。
少なくともあの時は、ステラのおかげで不安をひとりで抱え込まずにすんだはずだ」
ステラの瞳が揺れる。
「でも……もしエレーネさんに何かあったら……私はどう顔を合わせればいいの……?」
私は深く息を吸い込み、彼女を見つめ返す。
「そんなことにはならない。
必ず大丈夫だよ。エレーネさんは強いし、私たちが絶対に守る。
ネロくんも、ルトくんも、ロベールさんも……誰もひとりにはしない。だから、ステラも力を貸して」
しばし沈黙が落ち、ステラは涙を拭いながら小さく頷いた。
「……ありがとうございます。私が泣いたりしたら、駄目ですね」
「駄目なんかじゃないよ。大事に思うからこそ、涙が出るんだ」
そう言いながら、私は彼女の手を強く握った。
支え合うために流す涙なら、決して弱さではない。
ステラがそうしてくれるように、私もまた彼女を支えたい。
そしてこの家族を、みんなで守っていきたい。
誰かひとりの力では到底足りない。
でも、私たちが一緒にいれば、どんな不安も乗り越えられる──そう信じたい。
私は静かに息を吸い込み、胸の奥でそっと誓う。
──必ず、エレーネさんを、この家族を守る。
それは自分ひとりの約束ではなく、皆で分け合える希望なのだから。
そう心に刻んだとき、張り詰めた空気の奥に、かすかな温もりが生まれた気がした。
まだ形を持たない小さな安らぎ。けれど確かに、この場に寄り添っている──そう思えた。




