280.扉の向こうの声
控えの部屋に漂うのは、沈黙よりもさらに重い静けさだった。
時折、奥の部屋から苦しそうな声や足音が漏れてくるたび、皆の肩がびくりと揺れる。
言葉を紡ぐことさえ憚られ、ただ息を潜めて耳を澄ますしかなかった。
ネロくんは椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を組んだまま深くうつむいている。
強く握り締めた指先は血の気を失い、揺れる肩が彼の張り詰めた心を雄弁に物語っていた。
その横で、ルトくんは小さな足をぱたぱたと揺らし、落ち着かない様子で座っていた。
けれど泣き出すこともせず、唇をきゅっと噛み、必死に堪えているのが痛いほど伝わってくる。
私は彼の隣に腰を寄せ、そっと声をかけた。
「ルトくん……大丈夫だよ。お母さんはとても強い人だから」
「……でも」
不安げに揺れる瞳が、私を見上げる。
「すごく、苦しそうだったし……」
胸が締めつけられる。
それでも私は穏やかな笑みを作った。
「だからこそ、周りのみんなが支えるのよ。お父さんも、助産師さんも、私たちも。──それに、赤ちゃんもきっと元気に頑張ってる」
ルトくんはしばし黙り込み、小さな拳を強く握りしめた。
やがてぽつりと呟く。
「……お母さんと赤ちゃんに会いたい」
私はその肩をやさしく抱き寄せた。
「うん。きっと、もうすぐ会えるわ」
部屋の隅では、リズが両手を組み、祈りの言葉を唇に乗せていた。
その細い指がわずかに震えている。
普段は冷静な彼女が、こうして信じるものにすがっている姿に、私の胸もきゅっと痛む。
ネロくんは顔を上げぬまま、低く呟いた。
「……俺は、何もできない」
その声には、悔しさと不甲斐なさが滲んでいた。
「ただ待つことしかできないなんて……情けない」
リズが顔を上げ、静かに首を横に振る。
「そばにいることが力になるのよ。エレーネはきっと感じてる。あなたの声も、ルトくんの想いも」
その言葉に、ネロくんは小さく息を吐き、目を閉じた。
「……そうだといいな」
私はふと、テーブルの端に置かれた包みに目をやった。
先日リュミエール商会で仕立てた小さな贈り物。
それと、食事を取る暇もないだろうと持ってきたおにぎりの包み。
視線をそこに落とした瞬間、エレーネさんの笑顔が鮮やかによみがえる。
「全種類制覇しました!」と胸を張っていた声。
そして──「出産が終わったら、これを塗ります」と未来を語った、あのきらめく瞳。
「エレーネさん……」
小さく、その名前を呼ぶように呟き、私は強く両手を握りしめた。
どうか。
どうか無事に──。
◆
控えの部屋に入ってから、どれほどの時が過ぎただろう。
朝の光で満ちていた窓辺は、いつしか夕暮れを越え、今は夜の帳に覆われている。
蝋燭の炎が静かに揺れ、壁に映る影が長く伸びていた。
その間、私たちは幾度となく息を呑み、幾度となく小さな音に振り返った。
水を運ぶ桶の音、誰かの足音、助産師の声。
その一つひとつが胸を締めつけ、期待と不安を募らせていく。
ネロくんは動かぬまま険しい表情で祈り続け、ルトくんは眠気に耐えながら「お母さん……」と小さな声を繰り返した。
リズもまた目を閉じたまま動かず、一瞬たりともその姿勢を崩さなかった。
──そして。
奥の部屋から、今までにないほど大きな声が響いた。
押し殺した呻きではない。張り裂けんばかりの、全身の力を振り絞る声。
「……っ、ああああっ!」
「エレーネ! 大丈夫だ、俺がいる!」
ロベールの必死な声がそれに重なる。
震えを押し殺し、ただ励まそうとする声だった。
「そのまま! もう一度──!」
助産師の鋭い指示が飛び、室内の空気が一層張り詰める。
私は思わず両手を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みすら忘れるほどに。
「頑張って……エレーネさんっ!」
声は心の中のつもりだったのに、喉を震わせていた。
ルトくんが「お母さん……!」と半ば泣き声で呼び、私の袖をさらに強く握る。
リズは目を固く閉じ、組んだ指を強く絡めていた。
やがて一瞬、声が途切れた。
その沈黙は刃のように鋭く、耳をつんざくほど痛い。
──次の瞬間。
再び、張り詰めた叫びが奥から響き渡る。
胸の奥まで突き刺さるようで、息が詰まった。
鼓動は悲鳴のように荒れ狂い、呼吸さえままならない。
蝋燭の炎が大きく揺れ、影が壁を踊る。
その不規則な揺らぎが、さらに心を追い詰めていった。
今、この扉の向こうで命が懸けられている。
私は涙がにじむのを必死でこらえ、ただ願った。
──どうか無事に。
──母と子の笑顔が見られるその時まで。




