表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スキルをよみ解く転生者〜文字化けスキルは日本語でした〜  作者: よつ葉あき
観光の街、クリスディア

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

281/338

280.扉の向こうの声


控えの部屋に漂うのは、沈黙よりもさらに重い静けさだった。

時折、奥の部屋から苦しそうな声や足音が漏れてくるたび、皆の肩がびくりと揺れる。

言葉を紡ぐことさえ憚られ、ただ息を潜めて耳を澄ますしかなかった。


ネロくんは椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を組んだまま深くうつむいている。

強く握り締めた指先は血の気を失い、揺れる肩が彼の張り詰めた心を雄弁に物語っていた。


その横で、ルトくんは小さな足をぱたぱたと揺らし、落ち着かない様子で座っていた。

けれど泣き出すこともせず、唇をきゅっと噛み、必死に堪えているのが痛いほど伝わってくる。


私は彼の隣に腰を寄せ、そっと声をかけた。

「ルトくん……大丈夫だよ。お母さんはとても強い人だから」


「……でも」

不安げに揺れる瞳が、私を見上げる。

「すごく、苦しそうだったし……」


胸が締めつけられる。

それでも私は穏やかな笑みを作った。

「だからこそ、周りのみんなが支えるのよ。お父さんも、助産師さんも、私たちも。──それに、赤ちゃんもきっと元気に頑張ってる」


ルトくんはしばし黙り込み、小さな拳を強く握りしめた。

やがてぽつりと呟く。

「……お母さんと赤ちゃんに会いたい」


私はその肩をやさしく抱き寄せた。

「うん。きっと、もうすぐ会えるわ」



部屋の隅では、リズが両手を組み、祈りの言葉を唇に乗せていた。

その細い指がわずかに震えている。

普段は冷静な彼女が、こうして信じるものにすがっている姿に、私の胸もきゅっと痛む。


ネロくんは顔を上げぬまま、低く呟いた。

「……俺は、何もできない」


その声には、悔しさと不甲斐なさが滲んでいた。

「ただ待つことしかできないなんて……情けない」


リズが顔を上げ、静かに首を横に振る。

「そばにいることが力になるのよ。エレーネはきっと感じてる。あなたの声も、ルトくんの想いも」


その言葉に、ネロくんは小さく息を吐き、目を閉じた。

「……そうだといいな」


私はふと、テーブルの端に置かれた包みに目をやった。

先日リュミエール商会で仕立てた小さな贈り物。

それと、食事を取る暇もないだろうと持ってきたおにぎりの包み。


視線をそこに落とした瞬間、エレーネさんの笑顔が鮮やかによみがえる。

「全種類制覇しました!」と胸を張っていた声。

そして──「出産が終わったら、これを塗ります」と未来を語った、あのきらめく瞳。


「エレーネさん……」

小さく、その名前を呼ぶように呟き、私は強く両手を握りしめた。


どうか。

どうか無事に──。



 ◆


控えの部屋に入ってから、どれほどの時が過ぎただろう。

朝の光で満ちていた窓辺は、いつしか夕暮れを越え、今は夜の帳に覆われている。

蝋燭の炎が静かに揺れ、壁に映る影が長く伸びていた。


その間、私たちは幾度となく息を呑み、幾度となく小さな音に振り返った。

水を運ぶ桶の音、誰かの足音、助産師の声。

その一つひとつが胸を締めつけ、期待と不安を募らせていく。


ネロくんは動かぬまま険しい表情で祈り続け、ルトくんは眠気に耐えながら「お母さん……」と小さな声を繰り返した。

リズもまた目を閉じたまま動かず、一瞬たりともその姿勢を崩さなかった。


──そして。


奥の部屋から、今までにないほど大きな声が響いた。

押し殺した呻きではない。張り裂けんばかりの、全身の力を振り絞る声。


「……っ、ああああっ!」


「エレーネ! 大丈夫だ、俺がいる!」

ロベールの必死な声がそれに重なる。

震えを押し殺し、ただ励まそうとする声だった。


「そのまま! もう一度──!」

助産師の鋭い指示が飛び、室内の空気が一層張り詰める。


私は思わず両手を握りしめた。

爪が掌に食い込む痛みすら忘れるほどに。

「頑張って……エレーネさんっ!」


声は心の中のつもりだったのに、喉を震わせていた。

ルトくんが「お母さん……!」と半ば泣き声で呼び、私の袖をさらに強く握る。

リズは目を固く閉じ、組んだ指を強く絡めていた。


やがて一瞬、声が途切れた。

その沈黙は刃のように鋭く、耳をつんざくほど痛い。


──次の瞬間。


再び、張り詰めた叫びが奥から響き渡る。

胸の奥まで突き刺さるようで、息が詰まった。

鼓動は悲鳴のように荒れ狂い、呼吸さえままならない。


蝋燭の炎が大きく揺れ、影が壁を踊る。

その不規則な揺らぎが、さらに心を追い詰めていった。


今、この扉の向こうで命が懸けられている。


私は涙がにじむのを必死でこらえ、ただ願った。


──どうか無事に。

──母と子の笑顔が見られるその時まで。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ