240.留まるもの、未来を見るもの
そう言って、アイリスさんは小さな木箱を静かにテーブルの上へと置いた。
蓋を開けると──中には、小さなガラス瓶が整然と並んでいた。
ギルベルトさんが身を乗り出し、驚きの声を漏らす。
「こ、これは……! 色が……今までのとはまるで違う……!」
瓶には、深みのあるメタリックカラーや、繊細なラメを含んだパステル、ほのかに偏光するグレイッシュピンクなど、十数種の美しい彩りが並び、ひときわ輝きを放っていた。
「これらは、現在開発中の“新色”です。まだ販売前の試作品ですが、今後は季節ごとに展開していく予定です」
そう説明すると、ギルベルトさんは無言のまま、瓶をひとつひとつ丁寧に見つめた。
「それだけじゃないわ」
今度はミランダお姉様が、新たな包みをそっとテーブルに置いた。
包みを開くと、中から現れたのは、マニキュアより一回り大きく、丸みを帯びた小瓶だった。
「これは……? マニキュアでは……ない?」
ギルベルトさんが眉をひそめると、アイリスさんは静かに微笑んだ。
「こちらは“ジェルネイル”です。硬化には特殊な光が必要ですが、マニキュアよりも長持ちし、光沢も強い。プロ向けの新商品として、今後展開していく予定です」
「じ、ジェルネイル……?」
呆然とその名を繰り返すギルベルトさんに、私は穏やかに言葉を添えた。
「つまり、“ロゼ・カラー”は過去のもの。これから私たちが手がけるのは、“未来の彩り”なんです」
ギルベルトさんは手にした新色の瓶とジェルネイルをじっと見つめ、しばし沈黙した。
「……やっぱり、すごいな。あなた方は……先を見てる」
そのぽつりとした呟きに、私は静かに頷いた。
「ええ。私たちの進む道に、“ロゼット”の名前が付けられることは、もう二度とありません」
その一言に、部屋の空気がぴんと引き締まる。
“ロゼット”という影に隠れていた“盗まれた成果”に、ここではっきりと線が引かれたのだ。
「──ギルベルト」
「はい」
ミランダお姉様に名を呼ばれ、ギルベルトさんは姿勢を正し、真っ直ぐにお姉様を見返した。
「これからも“マニキュア”の新色は、フェラール商会で販売を続けます。でも、“ジェルネイル”は別。
ジェルネイルは、私たち姉妹がこのクリスディアに新しく立ち上げる商会で扱います」
ギルベルトさんの目が見開かれ、その瞳がわずかに揺れる。そして静かに瞼を閉じ、しばし目を伏せた。
再び開かれたその目からは、迷いの色が消えていた。
「……そうですか。それは、フェラール商会にとっては、とんでもない競争相手になりそうですね」
「私たちが立ち上げる新しい商会──その名は“リュミエール商会”。
ティアナとアイリス、そして私たちの仲間たちと共に、このリュミエール商会を必ず王国一の商会に育て上げてみせます」
お姉様の瞳は、もはや過去ではなく未来を見据えていた。
ギルベルトさんは黙ったまま、ミランダお姉様、そしてアイリスさんを順に見つめる。
やがて、どこか寂しげに息を吐いた。
「……あなた方とフェラール商会の未来を語り、新商品の相談や経営について語り合った日々は、忙しくも本当に有意義で、楽しいものでした。
ずっと、あなたたちと同じ船に乗っていけるものだと思っていたんですけどね……」
「同じ船じゃなくなるからといって、敵になるわけではありません」
私が静かにそう返すと、ギルベルトさんはふっと目を細め、わずかに笑みを浮かべた。
「そうですね……お互い、同じ海でどこまで進めるか試してみましょう」
その言葉に、お姉様も嬉しそうに頷く。
「ええ。けれど、油断は禁物よ。私たちは本気で“王国一”を目指しているのだから」
場の空気に、一瞬だけ柔らかな笑いが混じった。
だがすぐに、ギルベルトさんの表情は真剣なものへと戻る。そして重々しく言葉を落とした。
「新しい商会を立ち上げるには、それ相応の覚悟が必要です。……ですが、あなた方にはその覚悟がある。もう疑う余地はありません。
むしろ、心配なのはリュミエール商会ではなく──フェラール商会のほうですね」
少し間を置いて、続ける。
「今でさえ、ミランダ様たちが去ったことで、これまで当たり前にこなせていた業務が滞り始め、内部からも不満の声が上がっています」
そう言って頭を抱えるギルベルトさんは、さらに言葉を重ねた。
「今はフェラール商会に残ってくれているシエルさんも……いずれはリュミエール商会に移る予定ですよね?」
「ええ、そのつもりよ」
ミランダお姉様が穏やかに頷いて答えた。
──お姉様が離婚を決意し、フェラール家を出る際、アイリスさんだけでなくシエルさんも「ミランダ様について行きます」と申し出てくれたのだという。
けれど、お姉様とアイリスさんが同時に抜けるだけでも商会には大きな影響が出る。
そこにさらにシエルさんまでいなくなれば、フェラール商会は本当に立ち行かなくなる──。
それを恐れたお姉様は、「必ず呼び寄せるから」と約束し、シエルさんには一時的に残ってもらうことにしたのだ。
ギルベルトさんは、今後のフェラール商会の行く末を思い、大きくため息をついた。
──そのとき。
「それらはそちらで対処してください」
アイリスさんが、きっぱりと断じた。その視線はまっすぐにギルベルトさんを射抜いていた。




