213.揺れる穂の向こうに
イゴルさんが器を傾け、最後のひと口をすすると、味噌の香りがふわりと漂った。
「……美味かった」
ぽつりとこぼされたそのひと言に顔を上げると、イゴルさんと目が合った。
感情を込めたわけでもなく、ただ淡々と呟かれたような言葉。
でも──無表情だったはずのその顔に、わずかに口角が上がっているのが見えて、私の心はそっとあたたかくなった。
◆
「……これが、“米”か」
食事を終え、テーブルを囲んだまま、私はイゴルさんとイリアさんに改めて米のことを説明した。
先ほどイリアさんに見せた籾種や白米を、今度はイゴルさんの前に並べる。
「……はぁ。この殻を取るだけじゃなくて、さらに“ぬか”まで取り除くとはな……」
白米をじっと見つめながら、イゴルさんが感嘆まじりにため息をついた。
私は軽く手を挙げながら補足する。
「あ、殻は取ったほうがいいですけど、“ぬか”は残しておくのもアリですよ。
玄米と白米、それぞれにメリットがありますから」
そう言うと、イゴルさんは白米と籾種を交互に見比べながら、眉をひそめた。
「メリット……って、たとえば?」
「玄米のほうが栄養価が高いんです。ぬかの部分にビタミンやミネラル、食物繊維がたっぷりあって、身体にいいって言われています」
「ふうん。でも、わざわざ白米にするってことは、白米のほうが優れてるんじゃないのか?」
「いえ、白米は消化がよくてお腹にやさしいですし、味もまろやかです。
それに、水を吸いやすいのでふっくら炊きやすいです」
「なるほど……。たしかに、さっきのおにぎりも、ふっくらしていて食べやすかったな」
イゴルさんが小さくうなずいた。
「玄米は少し固いので、慣れていないと食べにくく感じるかもしれません。
子どもやお年寄りには、白米のほうが向いていると思います。
このように、体調や好みに合わせて選べるのが、お米のいいところなんですよ」
「へぇ……」
イゴルさんは、まるで新しい武具でも品定めするように、白米の粒を指先ですくい、じっと見つめた。
「それにしても、よくここまで細かく手間をかけるもんだな。
俺たちも“イル”が人間に食べられないか試したことはあったが……干して叩いて焼くだけで精一杯だった」
「手間をかけるほど、美味しくもなるんですよ。……そして、誰かに食べてもらえたときの反応が、嬉しくて」
「……ふん。なるほどな」
イゴルさんは椅子の背にもたれた。
けれど、その顔はどこか穏やかだった。
「“手間をかけるほど、美味しくもなる”か……。
料理人だからこそ出る意見かもしれない。だが……農業にも通じる話だな」
その言葉に、イリアさんがやさしい笑みでうなずいた。
「ええ。手をかけたぶん、土も応えてくれます」
イリアさんの穏やかな声に、イゴルさんが目を細める。
「土が……“応えてくれる”か。
土も、お米も、そういうものなんですね」
隣にいたエイミーが真剣な顔で呟いた。
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、どこか遠くを見ているようでもあった。
イリアさんがそっとエイミーに目を向ける。
「すぐに結果が出るとは限りませんけど……それでも、諦めずに向き合っていけば、必ず何かが返ってきますよ」
エイミーは小さくうなずき、しっかりと顔を上げた。
「……がんばってみます。私にも、できることがあるはずだから」
イリアさんはやさしく微笑み、そっとエイミーの手に触れた。
「ええ。根気強く向き合っていけば、きっと……土も、お米も、応えてくれます」
イゴルさんは黙ってふたりを見ていたが、その目は、少しだけやわらかかった。
*
「貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
そう言って頭を下げると、イリアさんが微笑んでくれた。
「いえ、こちらこそ。美味しいごはんをごちそうさまでした。お米作り、がんばってくださいね」
「はい。今日教えていただいたことを参考に、やってみます。
土が応えてくれるように……私も、手をかけ続けます」
ちらりと見ると、エイミーの瞳からは、不安の色がすっかり消えていた。
……それが、何よりもうれしかった。
そのとき、後ろにいたイゴルさんがぽつりと呟く。
「また来るといい。……イルの成長も、うちの田んぼの米も、気になるだろう?」
その言葉に、私たちは顔を見合わせて、思わず笑った。
「ありがとうございます! はい、ぜひ。またよろしくお願いします」
エイミーが元気よく応え、私も続く。
「今度は、玄米のおにぎりも用意しておきます」
「それは、楽しみだな」
私たちは軽く頭を下げて、戸口へ向かった。
扉が閉まり、玄関を出ると、胸の奥にじんわりとした手応えが残っていた。
今日得た知識、聞けた話、そして、手のひらに残るような確かな感触。
(よし。きっと、やれる……やってみよう)
隣を歩くエイミーの顔にも、不安の影はもうなかった。
前だけを見据えて、足取りもしっかりしている。
みんなの顔も、ここへ来る前より、ずっと明るくなっていた。
風がそっと頬をなでた。
目の前に広がるイルの穂が、まるで私たちを応援するように、やさしく風に揺れていた。




