210.イルの畑と、芽吹かぬ種
イリアさんはお茶を片づけると立ち上がり、私たちに笑いかけた。
「それじゃあ、ご案内しますね。足元、少しぬかるんでいるかもしれませんから、お気をつけて」
私たちはイリアさんのあとに続いて平屋を出た。
外の光はやわらかく、さきほどよりも風がやや強くなっている。
畑の奥へと続く細い道を進むと、その先には──見事なイルの畑が広がっていた。
「……わあ」
思わず、声が漏れる。
畑一面に広がるイルの穂は、黄金色にはまだ遠く、やわらかな緑を帯びている。
風にそよぐたびに一斉に波打つその光景は、まるでひとつの大きな生き物のようだった。
「いまがちょうど、穂が出始めた頃なんです。雨が続いて心配だったけど、なんとか順調に育ってくれて……ほっとしてるところなんですよ」
イリアさんはやさしく穂に手を伸ばし、指先で軽く撫でた。
私はその様子を見つめながら、ふとイルの穂をじっと見つめる。
(農業に詳しいわけじゃないけど……イルの穂って、“米”よりも“麦”に近い気がする)
「イルって、見た目はおとなしい作物に見えるけど、根がしっかり張るんです」
イリアさんの言葉に、はっとする。
イルから彼女へと視線を移すと、静かに言葉は続いた。
「土に慣れるまでは時間がかかるけど、一度育ち始めたら、ぐんぐん力を出してくる。……人間も、見習わなきゃって思うこと、よくあります」
「なんだか……素敵な言葉ですね」
私が笑顔で返すと、イリアさんは少し照れたように微笑んだ。
「でも、ちゃんと手をかけてあげないと応えてくれません。草取りも水の管理も気を抜けないし……去年は病気で、半分だめになってしまって」
それでも──と続けたイリアさんの横顔には、先ほどまでとは違う、芯の強さがにじんでいた。
「イゴルさんと二人で、この広さを?」
リズの問いに、イリアさんはうなずく。
「ええ。最初はもっと狭かったんです。でも、少しずつ畑を広げて、今ではここ以外にもう一区画あります。そちらでは、また別の品種を試していて……」
「品種改良までされてるんですね……すごいです」
エイミーが感心したように言うと、イリアさんは少し得意げに笑った。
「いえいえ、まだまだ実験段階ですよ。でも、動物たちにとって、もっとおいしくて元気が出るイルにしたくて」
風がまた、イルの穂をやさしく揺らした。
ざわ……ざわ……と、耳に心地よい音が響く。
「イルの収穫、見てみたいな」
エイミーがぽつりとつぶやく。
「ふふ、じゃあそのときは、またぜひいらしてください。収穫のときは、みんなに手伝ってもらえると助かりますしね?」
「はい、もちろんです!」
自然と、私たちの顔に笑みが浮かんだ。
イリアさんの姿は、作物に真摯に向き合う人の言葉以上に雄弁で、
イルという作物が、ただの「エサ」や「商品」ではないことを、私たちに教えてくれていた。
◆
見学を終えて、私たちは再び平屋の室内へ戻ってきた。
外を歩いたせいか、お茶の湯気がさっきよりも香ばしく感じられる。
テーブルにつき直すと、イリアさんがそっと声を落とした。
「……それで、本当のところ、イルについて“どんなこと”を知りたかったのか、聞いてもいいですか?」
私たちは顔を見合わせ、うなずき合った。
私はそっと息を吸い込む。
ここまで話すべきか迷っていた。
けれど──この人になら、話してもいい。
「……じつは、私たち、自分たちで育てようとしていた作物があるんです。イルに少し似た作物……『コメ』っていいます」
「コメ?」
イリアさんが目を瞬かせる。エイミーやマリーも、不意を突かれたようにこちらを見た。
「コメは……遠い国で親しまれていた作物で……。性質が似ていると思ったんですが、どれだけ試しても、芽すら出なくて」
「芽が……出ない?」
それまで黙っていたエイミーが顔を上げ、私の言葉を引き継いだ。
「はい。温度も土の湿り気も、日当たりも、色々試したんです。でも、いまだに一本も芽が出たことがなくて……」
彼女の声は、いつになく静かで落ち着いていた。
きっと、焦りや悔しさを押し込めているのだろう。
イリアさんは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに真剣な面持ちでうなずいた。
「なるほど……そういうことだったんですね。でも、芽が出ないというのは、種に問題があるか、それとも……その土地が“コメ”を拒んでいるのかもしれません」
「拒んで……?」
「ええ。作物って、本当にわがままなんです。たとえばイルも、土地を変えるとうまく育たないことがあるんですよ。見た目が似ていても、根が欲しがるものは全然違うんです」
イリアさんはふと、窓の外の畑に視線を向けた。
「イルは、この土地と、私たちとの時間の中で、ようやく育てられるようになった作物です。だから、コメにも、きっと合う“場所”と“育て方”があると思います」
「……場所と、育て方」
私はその言葉を、噛みしめるように繰り返した。
焦っていたのかもしれない。
もとの世界で当たり前だったものが、ここでも当然通じる──そんな思い込みが、私の中にあった。
でも、この世界にはこの世界の“理”がある。
それを受け入れ、根を張れたとき──“コメ”もきっと、芽を出してくれる。
「もしよければ……“コメ”の種を、少し見ていただけますか? 畑の土も、私たちが持っているものとは違うかもしれませんし」
イリアさんはやさしく微笑んだ。
「あ……もちろんです!」
エイミーが立ち上がり、持参していた小さな布袋を取り出した。
中には、何度も失敗を繰り返しながらも、諦めずに守り続けてきた──ほんの少しの、“コメ”の種が入っていた。
これが、新たな命を芽吹かせるのか。
あるいは、この土地と向き合うことで、新たな道が拓けるのか。
私の領地改革は、またひとつ、小さな転機を迎えようとしていた。




