209.丘をわたったその先に
──数日後。
私たちは、養鶏場を訪問したときと同じメンバーで、コメ農家……ではなく、イル農家へと向かっていた。
養鶏場で教えてもらった「イリノイ商会」。
その商会を訪ねたところ、イルを育てている農家を紹介してもらえたのだ。
向かう道は、なだらかな丘が続き、ところどころに木陰が揺れている。
馬車に揺られながら、私は農園へと続くその道を見つめていた。
「とても、のどかな道ですね」
窓の外を覗いたリズが、ぽつりとつぶやく。
すれ違う人の姿もなく、広がっているのは畑と、風の音だけ。
町の喧騒とはまるで違う、静かで、しかし力強い土地の息づかいがそこにはあった。
やがて、道の先に素朴な平屋が見えてきた。
その庭先では、背の高い男性が一人、黙々と作業をしている。
馬車がゆっくりと停まった。
「すみません、こちらはイゴル農園ですか?」
リズの問いかけに、男性が顔を上げる。
こちらをじっと観察するような目で見ながら、口を開いた。
「ああ、ここがイゴル農園だ。俺が経営してるイゴルだが……あんたらは?」
「イリノイ商会で、イルを育てている農園を教えていただきました。
イルについて、ぜひお話を伺いたくて……」
私の言葉に、男性はふっと顎を引き、無言でうなずくと、平屋の方を指さした。
「話なら中のやつにしてくれ。俺は畑専門でな、口は達者じゃないんだ」
そう言って、また止めていた作業に戻る。
私はぺこりと頭を下げ、リズとともに平屋の扉へと向かった。
扉には、小さな鐘がついている。
リズがそれをそっと鳴らすと——
カラン、カラン。
やさしい音が響いた次の瞬間、扉が開いた。
「はい、いらっしゃいませ!」
明るい笑顔が印象的な女性が現れる。
私たちの顔を見回すと、小首をかしげて問いかけてきた。
「どなたでしょうか?」
そのとき、後ろから声がした。
「イリノイ商会からの案内で来たらしい」
振り返ると、さっきの男性——イゴルさんが畑の方から声をかけてきたところだった。
けれどすぐにまた黙々と作業に戻り、その背中だけが見えている。
「ああ、そうだったんですね。イリノイ商会さんからは伺っています!」
女性はにこりと笑い、体を横にずらして室内を指し示す。
「どうぞ、お入りください。イルのこと……お聞きになりたいんですよね?」
「はい、ありがとうございます!」
私たちは勧められるままに、平屋の中へと足を踏み入れた。
広々とした土間には、干した作物の匂いがほのかに漂い、奥には木の柱と梁が見える、素朴で温かな空間が広がっていた。
「どうぞ、こちらへ」
女性に案内され、私たちはテーブルを囲むように腰を下ろす。
湯気の立つお茶を出してもらい、ほっと一息ついたところで、私はおそるおそる切り出した。
「あの……イルのことについて、教えていただけますか?」
「ええ、もちろん。……でもその前に、自己紹介がまだでしたね」
女性は笑いながらエプロンの裾を整えると、丁寧に頭を下げた。
「私はイリアと申します。さっき外にいたのが夫のイゴルで、この農園を一緒にやっています。どうぞよろしく」
「よろしくお願いします。こちらこそ、ごあいさつもせず、すみません。私はティアナと申します」
そのまま、他のみんなも順に自己紹介をしていく。
そして最後に、エイミー。
「私はエイミーと言います。イルのことを、もっと知りたくて……」
それにイリアさんは、うんうんと頷いた。
「はい。イリノイ商会さんから、お話は伺っています。
私は普段は農業ばかりで、お貴族様の相手なんてしたことがないんです。ちょっと緊張しちゃって……失礼があったらごめんなさいね」
イリアさんはおどけるように肩をすくめたが、その様子はむしろ堂々としていて、“緊張してる”ようにはとても見えなかった。
そして彼女は手元に置いていた小さな木箱を開け、中からいくつかの種を取り出して見せてくれた。
「これが、イルの種です。見た目は小さな豆みたいでしょう?
育つと穂が出て、収穫すると——そうね、大麦に似た粒のしっかりした作物になります。ほんのり甘みがあって、家畜……牛や鶏のエサにもなります」
「へえ……ほんとだ。豆みたい」
マリーが身を乗り出し、興味深そうにその種を見つめた。
「栽培は、春先に種をまいて、夏の終わりに収穫するのが基本です。
ただ、イルは土の状態にとても敏感で……肥えすぎても、痩せすぎてもだめ。適度な水はけと、風通しのいい畑が理想です」
「なるほど……」
リズが手帳を取り出し、要点をメモしながらうなずく。
「今の季節は、どうされてるんですか?」
「ちょうど今は育成期ですね。穂が出始めたところなんです。
よかったら、あとで畑も見ていきますか?」
「ぜひ、お願いできますか?」
「ええ、もちろん」
イリアさんはにっこりと笑った。
その笑顔は、太陽に照らされたイルの畑のように、あたたかくて力強かった。




