200.マッチョと塩の結晶
──数ヶ月後。
季節は初夏。潮風がやわらかく頬を撫で、空にはうっすら白い雲が浮かんでいた。
そんな午後の広場に、ひときわ明るい声が響く。
「できた……っ! 見てくれっ!」
声の主はベルさん。両手に素焼きの皿を抱えて、息せき切って走ってくる。
その皿の上には、白くさらさらとした結晶──塩が載っていた。
「えっ、まさか……」
「海水を煮詰めて、何度も濾して……やっと塩になったんだ!」
目を丸くする私たちに、ベルさんは満面の笑みで応える。
皿を囲んで覗き込むと、小さな結晶が太陽の光を受けてきらりと輝いていた。
私はひとつまみ、指先でつまんで口に運ぶ。
塩の粒は舌の上ですっと溶け、じんわりとまろやかな塩気が広がった。
「……しょっぱい。でも、まろやか。……ちゃんと、塩だわ……!」
「……よかった……本当によかった……!」
ベルさんは肩の力を抜き、安堵の笑みをこぼす。
その横顔を見て、胸の奥がじんと熱くなった。
思えば、この数ヶ月は失敗の連続だった。
【錬金術】の力に頼らず、誰でも作れる塩を──それが私たちの目標だった。
薪を集めて火を焚き、海水を大鍋で煮詰め、不純物を取り除き……
何度も試し、何度も失敗した。焦がした鍋、湿気で固まった塩、煮詰まりすぎた液体。
一歩進んでは二歩下がる日々。それでも諦めなかった。
「途中、鍋が焦げたり、逆に火が弱すぎたり……ほんと、苦労しましたね」
エレーネさんが思い出して笑う。
みんなが頷くなか、ネロくんが口元をゆがめて言った。
「でもさ、まさかベルおじさんが立候補するとは思わなかったけどね」
その言葉に、ベルさんはちょっと照れたように笑い、頭をガシガシとかく。
その姿はどこかダンさんに似ていて、ついクスッと笑ってしまった。
──そう。
塩作りの中心になってくれたのは、かつて“兵士マッチョ”と呼んでいたベルさんだった。
オリバーさんたちがクリスディアに来たあと、私はすぐに塩作りの人手を募った。
まさか応募してきたのが、あのベルさんだったなんて思いもしなかった。
面接のとき、驚きの事実が明かされる。
「……えっ、ダンさんと兄弟だったの!? 確かに似てるけど……」
「ああ、よく言われる。兄貴は昔から器用だったしな。料理もうまいし、有名だろ?
うちの親父も【料理人】だったんだ。だから、俺も昔は……憧れてたんだよ」
ベルさんの口調は穏やかだったが、その奥にはかすかな悔しさがにじんでいた。
「でも、俺には【調理】のスキルが宿らなかった。代わりに授かったのは戦闘系ばかりでさ。あのとき、もう……夢は諦めたんだ」
「……でも、なんで塩作りに?」
そう尋ねると、ベルさんは少し目を細めて言った。
「火を使うって聞いてな。しかも、塩って、どんな料理にも必要だろ?
……ほんの少しでも、料理に関われる気がしたんだよ」
夢は手放したはずなのに、それでもどこかで、心の奥には火種が残っていたのだろう。
「それに……町のみんなの役にも立てるかもしれねぇって思った。料理はできなくても、これなら、俺にも……」
ベルさんは、誰よりも真剣だった。
火の加減を記録し、鍋の状態を何度も確認し、失敗してもくじけなかった。
手を抜かず、黙々と作業を続けるその背中に、夢への未練と、今の自分なりの誇りが滲んでいた。
「……ベルさん、やっぱり【料理人】の血、ちゃんと流れてますよ」
私がそう言うと、彼は照れくさそうに笑った。
「だったらいいけどな。……まあ、“塩職人マッチョ”ってのも、悪くねぇか?」
その言葉に、私は思わずぎくりとする。
“兵士マッチョ”と“料理人マッチョ”。心の中で勝手に呼んでいたあだ名だ。
以前うっかり「マッチョコンビ」と口にしてしまったときの、あの空気。
ぽかんとする二人。
ミーナは腹を抱えて笑い、アンナも背中を向けて肩を震わせていたっけ……。
──それはさておき。
夢を一度諦めた人が、新しい形で再びその夢に触れる。
自分にできることで、誰かの役に立とうとする姿。
ベルさんの背中は、そんな“やさしい再出発”を教えてくれた。
そして今──
塩は、ついに完成した。
それは、一人の男が再び夢に手を伸ばした、静かで力強い第一歩だった。




