173.守りたい場所
「ううん。そんなこと、最初から覚悟してたの。
採用されることが難しいのも、いざ働いたら大変だろうことも、全部覚悟のうえ。
それでも、もう一度オリバーに“専属料理人としての舞台”に立ってもらいたいって、心から思ったの」
マリーの声には、ほんの少し震えがあった。けれど、その瞳はまっすぐで、決して揺らいではいなかった。
「……オリバーもきっと──ううん、オリバーこそ、そんな気持ちだったと思う。
だから、どんな苦労があっても、もう一度挑戦したかった。
もう一度、心から“料理が好き”って思える場所で、全力を尽くしたかったの」
ミランダさんが、静かにワイングラスを置いた。
「……覚悟の上、ね。そんな強い覚悟を持ってやってきたというのに──
まさか、新しい同僚たちが“専属経験もない食堂の【料理人】”だったなんてね」
すると、ミランダさんは「もう耐えられない……っ」と呟いたあと、肩を震わせて笑い出した。
「ええ、本当にびっくりしたわ。元下級貴族の専属なんて……上級貴族に仕えるには経験不足だって言われるかと心配してたのよ。
なのに、本当に“まさか”だったわね」
そう言って、マリーも笑った。
けれど、しばらくしてからふと表情を曇らせ、私に問いかけてきた。
「でも……大丈夫なの?」
「なにが?」
「だって、貴族の専属料理人って、血筋や経歴がすごく重視されるって、ティアナは知らなかったんでしょ?
アイリスさんが説明してくれたように、下級貴族の専属だった人が、上級貴族の専属になるなんて、まずありえないことなの。
それに……」
そこまで言うと、マリーの瞳が不安げに揺れ、声も小さくなった。
「ティアナたちが許可してくれても、あなたの主であるジルティアーナ様が許してくださるかしら……」
──うん、大丈夫よ。だって私が、そのジルティアーナ様だもん。
……とは、さすがに言えるわけもなく。
どう説明したものかと考えていると、ミランダさんがワインをあおりながら言った。
「大丈夫よ。ティアナは知らなかったかもしれないけど、エリザベスは分かったうえで誘ったんでしょうし。
なにより、ティアナが許可したんだから、問題ないわ」
そう言って、今度は私を見て目を細める。
「ティアナは、ジルティアーナからとても信頼されているの。
ティアナの意見は、ジルティアーナの意見に等しいわ。
ねぇ──ティアナさん?」
「そうですねー。あはははー」
自分でも、棒読みになってしまったのがわかった。
ミランダさん……全部わかってて言ってるでしょ!?
思わずジト目で見るが、ミランダさんは素知らぬ顔だ。そんな私たちに気づかないマリーには「すごい……っ! ジルティアーナ様に本当に信頼されてるのね」とキラキラした目で見られてしまった。
うん。本人ですからねー。
──そう心の中で突っ込みながら、私は曖昧な笑みでごまかした。
するとミランダさんが、いつの間にか赤から白に変えたワインをひと口含み、わざとらしくため息をついた。
「ふふ……でも、正直ちょっと残念ね」
「え?」
私とマリーが同時に顔を向けると、ミランダさんは悪戯っぽく笑った。
「私だって、実力重視よ。経歴なんかどうでもいいわ、そんなものよりも美味しいものが食べたいもの」
そう言って、シーフードのピザを手に取り、ひと口食べる。
そして、ふわりと笑って言った。
「白ワインに、この海鮮が乗ったピザは最高に合うわね。
少なくてもミーナは合格。ぜひ、わが家でもこのピザを食べたいから、ミーナを私に譲ってくれない?」
「ダメです! ミーナもアンナもオリバーさんも、うちの大切な専属料理人ですっ!」
私は勢いよく立ち上がって叫んだ。
周囲の視線が一斉に私に向く。
少し離れたところにいた、名前を呼ばれた【料理人】たち3人も、「なにごと!?」という顔でこちらを見ていた。
そんな様子を見ながら、ミランダさんは「残念ね」と呟き、3人に向かってにっこりと笑った。
「あなたたち専属料理人同士が、性格が合わなくて仲違いでもしてくれたら──そのときは、どちらかを引き取って私の専属にしようかしら、なんて思ってたの。
でもティアナに断られちゃったわ」
そう言って、また私に視線を戻す。
「才能のある【料理人】が揃っているんですもの。そりゃ、欲も出るわよ?
でもまあ、残念ながら仲良くなっちゃって……どうやら私の出番はなさそうね」
「冗談でも、そういうこと言わないでください……!」
私は口を半開きにした。
ミランダさんの軽口に呆れつつも、どこか憎めないその笑顔に、ふっと肩の力が抜ける。
「……ありがとうございます、ミランダさん。オリバーさんたちのこと、心配してくれてたんですね」
「ふふ、ただの欲張りなだけよ。
美味しい料理と、それを作る才能のある人たちを手に入れられるなら、チャンスだと思っただけ」
「それは私だって同じです。だから、誰もあげません」
まっすぐミランダさんを見つめてはっきりと言うと、彼女は満足そうに目を細めた。
それ以上は何も言わず、ワインをひと口──今度は赤だった。




