140.あたたかいパン
ふと目をやると、少し離れた場所で戸惑っている女の子の姿があった。
声をかけて食事を差し出すと、彼女はおそるおそる手を伸ばし、それを受け取った。
「……ほんとに、たべてもいいの?」
「もちろん。あなたも、がんばってくれたんでしょう?」
そう告げると、女の子は驚いたような顔をして──そして、小さく、けれど確かに頷いた。
「……ありがとう」
その一言が思った以上に重く、私はそっと微笑み返した。
「──ありがとうな」
同じ言葉がもう一度聞こえてきて、振り返るとダンさんが立っていた。
彼は優しい目をしていたけれど、どこか寂しそうな表情で、去っていく女の子の背中を見つめていた。
「あの子は──ロベールの同僚だった、兵士の娘なんだ」
兵士の娘が、スラム街にいるはずがない。
ということは──あの子の父親は……。
「ロベールの怪我は、ひどかった。あいつの悔しさや苦しみは計り知れない。
でもな、俺はロベールが生きていてくれたことに感謝してる」
そこまで言うと、ダンさんは女の子から目線を逸らし私を見る。
「特に……ティアナちゃんたちに会ってからはな」
さっきの悲しそうな顔とは打って変わって、白い歯を見せて笑ってくれた。
「私は別に、大したこと……」
「何言ってんだよ。あれを見てみろっ」
そう言われて視線を向けると──
泣きながら、それでもパンを一生懸命に食べている子どもの姿があった。
その背中を、ネロくんが優しく撫でている。
「ほらな。俺が言った通り、ティアナさんのご飯はマジで美味いだろ?」
そう言って、自慢げに笑っていた。
言われた子は涙をこぼしながら、それでも嬉しそうに笑った。
穏やかで、温かな時間が流れていた。けれど──
ふと、視界の端に動く影が見えた気がして、私はそっと顔を上げた。
遠く、木立の向こう。
風が通り抜けるように葉が揺れるその隙間から──何かがこちらを見ている気がした。
(……今の、気のせいかな……?)
不思議な違和感。それは敵意でも、悪意でもなく、ただ、じっとこちらを見つめるような「視線」の気配。
だけど次の瞬間にはもう、何もいなかった。
(気のせい、よね……)
自分にそう言い聞かせて、私は視線を戻す。
子供たちは、変わらず笑っていた。
美味しそうに、夢中になって食べている。
──この場所を、守りたい。
自然と、そんな気持ちが胸に浮かんだ。
まだ何ができるかは分からない。
けれど──私はこの森と、どこか懐かしさを感じる湖、そして子供たちの笑顔を守れるように、できることをしていこう。
そのためにも、まずは……午後の作業もがんばらなくちゃ。
そう思っていた時だった──
「お前、ズルいぞっ!!」
怒鳴り声が響き、私はダンさんと共にその声の方へ向かった。
そこには、困惑するステラと、喧嘩している二人の少年の姿があった。
「どうしたの? 何があったの?」
私が尋ねると、ステラが説明しようと口を開いたが──
それを遮るように、赤い髪の少年が言った。
「こいつ、ズルいんだよっ! 最初にもらったパン、まだ食べてないのにおかわりしようとしたんだ!」
そう言って、隣にいる緑の髪の少年を睨みつける。
睨まれた少年は、気まずそうに俯いた。
ダンさんが彼の肩に手を置き、優しく問いかける。
「まだ食べ終わっていないのに、どうしておかわりをしようとしたんだ?
食べ物はたくさんある。急がなくても、おかわりはちゃんとできるぞ?」
「それは……っ」
「こいつ、最初のパンも、おかわりの分も食べずに持って帰ろうとしたんだ!
こんな美味いパン、俺だって後で食べたいよ……っ!」
そう言って、少年は悔しそうに俯いた。
その言葉に、責められた男の子は「ごめんなさい……っ」と小さく呟き、俯いてしまった。
気がつけば、ネロくんがそっと男の子のそばに寄り添い、肩を抱いて慰めていた。
その腕の中で、男の子は大きな声をあげて泣き出した。
「ティアナさん、ごめんなさい……っ。
こいつ、家に病気のお母さんと小さい妹がいるんだ。だからパンを持って帰ろうとしたんだと思う」
ネロくんが、男の子の代わりに頭を下げながら説明する。
そして、少し声を強めて続けた。
「でも、それは──ここにいる奴ら、みんな同じなんだ。
いつもお腹を空かせてて、親がいなかったり、いても病気で働けなかったり、幼い兄弟がいたり……。
苦しいのは、みんな同じなんだよっ!」
その言葉に、責められた男の子も、責めた少年も、そして周囲の子供たちも──悲しげな表情を浮かべていた。
「参ったな……」
そう呟きながら、ダンさんが困ったように頭をかいた。
私はそっと泣いている少年に近寄り、隣にしゃがみ込んだ。
「最初に渡したパンは、君が食べるためのものだよ。
だから、それはちゃんと君が食べなさい。
そのうえで、まだ足りないと思ったら、おかわりをしてもいい。
でも──そうじゃないなら、君だけを特別扱いすることはできないわ」
それを聞いた男の子は、顔をくしゃっとさせて「はい……」と小さく答えた。
次に、私は怒っていた少年を見上げて言った。
「ありがとう。──言いにくかっただろうに、みんなのために、ちゃんと注意してくれたんだね」
「……っ!」
少年は俯いてしまったけれど、私にはその泣きそうな顔が見えていた。
騒動のせいで、私たちは注目を浴びていた。
周囲の子供たちの中にも、泣きそうになっていたり、すでに涙をこぼしている子がいた。
ふと目が合ったステラも、辛かった過去を思い出したのか、目に涙を浮かべていた。
私は立ち上がり、子供たちに向かって優しく声をかけた。
「スープもパンも、まだたくさんあるわ。
だから、ゆっくり食べてね。
ここで食べるなら、おかわりは何回でもOKです。
いっぱい食べて、午後も元気に頑張ろう!
頑張ってくれた子には、お土産にパンの詰め合わせをプレゼントします!」
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