(62)止まってしまった胃の活動
それからというもの、私の胃は一向に活動をしてくれなくなってしまった。
玉子料理がいけなかったのかと、エミリが料理担当に掛け合ってくれたりしたらしいが、それ以外の物も全く受け付けなくなってしまったのだ。
私は、それでも出される固形の料理の、今日は人参のバターソテーをひと口齧ってみる。お腹は空いている筈なのだ。だから、無理矢理にでも嚥下してみたら、胃も受け付けてくれるのではないかという淡い期待を抱く。
口の中にバターの味が広がった瞬間、胃がキュッと締まった感覚がきた。
「くそまず……」
公爵令嬢らしからぬ呟きを発した私だったが、それでもエミリは慈愛に満ちた眼差しで私を見守ってくれている。
「ナタ様、こちらを」
エミリが次に給仕してくれたのは、小さなカップに入れられたポタージュスープだった。
そんな風にして食欲は悲しい程低下してしまったが、スープだけは辛うじて飲めた。なので、固形を食べられなくなって早数日、エミリはとりあえず私にスープだけでも身体に入れるようにしてくれている。
食べないと死ぬ。それだけは分かっていた。
前世は食べ過ぎで死に、今世でもしこのまま食べなさ過ぎて死ぬなら、つくづく私の魂は食べ物と深い因縁があるといえよう。
ホルガーと父は、きっと助けてくれる。それを信じている筈なのに、私の身体がいうことを聞いてくれない。心ばかりが焦って、身体を置き去りにしてしまったかの様だ。
あれからも、アルフレッドは毎日私の元を訪れる。来るのは、大体夜だ。日中の執務が終わり、晩飯もしっかり食べ、後はアンジェリカの元に戻る前に私のところに寄っているらしかった。とんでもない浮気男だが、王族の男性には、世継ぎを作らなければならないという使命が必ずついて回る。自分の后が子を成さない場合、妾に子供を生ませることは往々にしてあるから、そういう意味では王族の貞操観念というのは庶民に比べて緩いのかもしれなかった。
今日もまた、アルフレッドがこの後やって来るのだろう。毎日、いつになったら了承するのだと詰め寄られ、私の精神はそろそろ限界に近くなっていた。せめて食事が取れていたらもう少しメンタルも健康だったに違いないが、どうしても食べられない。
食べようとすると、レオンとホルガーと三人でテーブルを囲んで食べた、初日のキッシュのことを思い出した。色んなものを混ぜて、二人とも美味しい美味しいとおかわりをしてくれたあの日が夢の様で、そこで私の思考が停止してしまうのだ。
あの日に戻りたい。そして涙が溢れる。この繰り返しだ。
再び涙を流し始めた私を見て、エミリが私の手を優しく取ってベッドへと連れて行った。
「私が外に出ましたら、本日はナタ様は体調不良で臥せっておられますと見張りの兵に伝えます。アルフレッド様が来られなければ、少しはお気が休まりましょう?」
「エミリ……ありがとう……」
数日ですっかり王太子生誕祭の時の体重に戻ってしまった私は、急激に痩せてしまった所為もあり、体力が著しく低下している。なので、正直横になっている方が遥かに楽だった。
私が横になると、エミリがふんわりと布団を掛けてくれる。エミリの黒髪を見るとついレオンを思い出してしまう癖が抜けないが、レオンの青い瞳とは違ってエミリの瞳は黄銅色で、とても印象的だ。そばかすだって化粧をしっかりすれば隠せる程度だし、私と同じくガリガリだけど、もう少しふくよかになったら十分美人で通る顔をしている。
「エミリ」
「はい、なんでしょうナタ様」
聖母の様な微笑みで、エミリが頬についた私の髪を指で避けてくれた。
「もし無事に外に出ることが出来たら、その時には貴方にマヨネーズをたっぷり作ってあげるから」
「あの合言葉のものですね?」
途端におどけた表情になるのが、いかにもエミリらしい。私はくすりと笑うと、頷いてみせた。
「そうよ。私が昔に食べた、幻の調味料なの。とても美味しいから、エミリには真っ先に食べてもらいたいの」
「……そうですよ、ナタ様! その意気で、めげずに頑張りましょう!」
今度は、エミリが目に涙を浮かべてしまっている。ああ、何とかこの身体にいうことを聞かせたい。この子の為にも。
心から願った。
扉の前に立つ見張りの兵が、時間だというノックをしてきた。エミリはそれを聞くと、目をグシグシと拳で勇ましく拭き、私に頷いてみせる。
「ナタ様、とにかく今日はお休み下さいませ!」
「うん、ありがとうエミリ」
エミリが、名残惜しそうに振り返りながら部屋を出て行った。扉の向こうから、エミリが兵に向かって何かを力強く言っている声が聞こえるので、きっと私の体調不良のことを言っているのだろう。見ためによらず、エミリはかなり強いから、頼りがいがあった。
父とホルガーの助けが先か、ここで朽ちるのが先か。もう時間は大して残されてはいなかった。
そして、私の選択肢の中に、アルフレッドに屈するというものは存在しない。そこだけは、決して譲れない私の最後の矜持だった。
エミリの声が聞こえなくなり少し経った頃、扉の奥がまたザワザワとし始めた。
――まさか。
私は嫌な予感がした。兵が必死で何かを言っている雰囲気だけは伝わるが、扉が分厚すぎてその内容までは聞こえてこない。
扉が、ガチャリと音を立てて開いた。
どうして私は扉の方を向いて寝ていたのだろう。これでは、入ってきた瞬間目が合ってしまうじゃないか。だけど、身体が重くて素早い動きが出来ない。ちょっと待て、まだ入ってくるな! 心の中で叫んだが、遅かった。
今日もキラキラしたアルフレッドが、部屋に入ってきた。見張りの兵が、扉を閉めるのを躊躇している様だったが、アルフレッドが目線だけで指示をしたのか、兵は平頭すると、私からは目を逸らす様にして扉を閉めてしまった。
次話は、明日朝投稿予定です。




