(19)化学変化『乳化』
石鹸の上にある、水と油。それが今、白い牛乳の様になって広がっていた。
「こりゃ、どういう現象だ?」
レオンがボウルを覗きながら首を傾げる。ここで、私は考え込んだ。
本来、水と油は混ざらない。が、今回は石鹸を媒介することで、混ざることのない物質同士が白濁して混ざり合っている。これはどういうことか。
私はハッとした。
「そうよ……! そうだったんだわ! 大事なことを忘れていた!」
「え? 何かいいことでも思いついたのか?」
私はホルガーを見上げると、ホルガーは私と目が合ってにこにこと笑う。この全力の肯定感。本当に出来た従兄弟だ。
「思い出したのよ! マヨネーズを食べ過ぎるとどうなるのかを!」
「あ?」
お前はチンピラか? という位にレオンが思い切り顔を歪ませて、言った。所作は育ちの良さが滲み出ている癖に、どうもこいつは言葉遣いが乱雑だ。まあ地を出していると思えばいいのかもしれないが、普通の令嬢なら泣いて怖がるレベルだ。つまり、こいつも何だかんだいって異端なのだろう。だからわざわざ他所の国をふらついているのかもしれなかった。そう考えると、ちょっと憐れでもある。
私が少し同情顔でレオンを見ると、レオンが更に悪そうな人相になった。私の表情が気に食わなかったのか。
「ナタ、マヨネーズを食べ過ぎるとどうなるんだ?」
レオンに聞き出し役は任せておけないと思ったのか、ホルガーが穏やかに尋ねた。ビビリな令嬢でもふらふらっと絆されるレベルの柔和さ。こいつもいい加減結婚適齢期だというのに、こうやって私に付き合ってばかりいるから、浮いた話のひとつもない。マヨネーズ開発が無事終了した暁には、いい加減私の愚痴聞き役というお守り役から開放してあげないとな、とふと思った。
いつまでも、ホルガーの優しさに甘えている訳にはいかないのだ。
ホルガーの為にも、マヨネーズ開発を推し進めなければ。私は再び固く決意すると、重々しくホルガーの質問に答えた。
「マヨネーズは、食べ過ぎると太るのよ……!」
私は、マヨネーズの最大といっても過言ではない特徴をすっかり忘れていた。味にこだわり過ぎて、特性を忘れていた。マヨラーとしては大失態だ。
「ふ、太る?」
ホルガーはキョトンとしたが、レオンは呆れた様な顔になっている。これは信じていないな。私は二人に説明することにした。
「マヨネーズは、太る。自明過ぎて、すっかり頭から抜け落ちていたわ」
私はツカツカと台所を行ったり来たりしながら、先生然として話を続ける。
「何故太るのか? それは、油分が含まれているからよ」
「油分? つまり、油が入っているってことか?」
「レオンくん、大正解!」
私がピシッと指差しすると、レオンの顔がまた歪んだ。
「今、本来は混じることのない水と油が混じったわね?」
「混じったね。これは、もしかして石鹸が間に入ったからかな?」
「その可能性が高いわ。というか、多分そうでしょうね」
ホルガーが、紙にメモを取りながらふむふむと頷く。
「ということは、卵と油を混ぜればいい! あの白っぽい色は、きっと今起きた現象と同じ原理よ」
「ああ成程、そういうことか」
ようやく、レオンが納得がいった様なスッキリとした表情になると、急に知識をひけらかしてきた。
「生クリームをかき混ぜると固まるあれな、名前は乳化というらしいぞ」
「乳化……さっきのと同じ原理なのかしら?」
「そう思うぞ」
レオンが鼻高々に言った。どうもこいつは、人より一段上に立ちたがる傾向にある様に見える。こちらが公爵家の人間だと分かっていてもこれだ。公爵家よりも上の立場は王家しかないが、ウルカーンは大国だから、小国の公爵令嬢も公爵令息も自分より下に見ているのかもしれない。
まあ、レオンの立場などどうでもいい。今一番重要なのは、如何にこいつの撹拌能力を有効に使うか、だ。
「にしても、何でレオンがそんなことを知ってるんだ?」
ホルガーが不思議そうに尋ねると、レオンの表情が少しだけ曇った。
「……あー、知り合いが、ケーキを作るのが趣味だったから、生クリームが分離するとか乳化がどうとかいう話を、たまに聞いていた。それだけだ」
その口ぶりで分かった。ケーキを作るのが趣味なら、まあ多分その相手は女だ。趣味だった、ということは、今は親しい存在ではなくなっている。そこから推測されるのは、先程ホルガーに聞かれて喋った、人に譲った、という対象。
女の子、恐らくどこかの令嬢だろうが、レオンは彼女と恋仲にあったが、別の奴に奪われたんじゃないか? そして、その令嬢がそれまで話してくれていたことをふと思い出し、ぽろっとこの場で口にした。だけど、その知識が誰からのものだったのかを思い出し、それで歯切れが悪くなった。
私のこの推察力。天才じゃなかろうか。
心優しい私は、それ以上レオンに根掘り葉掘り聞くのは控えることにした。
「了解! じゃあこの現象のことは、今後は『乳化』と呼びます!」
「お、おう」
私は腰に手を当てると、二人を見上げてにやりと笑った。
「では、午後から油と卵の撹拌実験開始よ! その前にまずは腹ごしらえ! 大事な食材だもの、ちゃんと食べてあげないとね!」
私はそう言うと、石鹸が混じっていない部分の油をスプーンですくい取り、オーブン皿にハケで塗り始めたのだった。
今日は一話投稿かもです。




