エピローグ
ぽた、ぽた……
静かな空間に水音だけが響く。
真っ白で清潔な空間に、一人の女の子が目を瞑り横になっていた。
目覚める気配は無いものの、呼吸は安定していて、生きていると確認できる。
ガラガラッと突然響いた扉の音で、静謐な空間が乱される。
その後すぐ、花束を持った小柄な少女が入ってきた。
彼女は慣れた様子で、手元に用意した花束を部屋に飾っていく。
そして、眠り続ける女の子の側に座り、そっと語りかけた。
「あの日から、もう一週間になるね。もう身体はすっかり良くなったはずなのに、どうして目を覚まさないの?」
そう言いつつ、眠り続ける女の子の手をぎゅっと握る。
「ううん、理由は分かってる。怖かったんだよね、逃げたかったんだよね。」
だってーー
「あなたが私を裏切ってたって、私に指摘されたんだから。」
そう語り続ける彼女の顔には何の感情も見えない。
「そうでしょ?ーー綾香。」
何も答えない綾香に対し、彼女はひたすら語り続ける。
「私が何も知らないって思ってたんだよね。綾香が私の彼氏とキスしてたってこと。全部知ってたよ。」
だからーー
「私は綾香のこと大好きだよ。でも、あれだけは許せなかった。だから指摘したの。」
ーーねえ、綾香。もしかして、昨日の放課後、先輩とキスしてた?
そう聞いた瞬間、綾香の顔色は真っ青になった。そして、私がそう指摘した日に綾香は階段から転落した。
それを知って、私がどう思ったと思う?何も答えない綾香に滔々と語り続ける。
そこで、ずっと感情を乗せなかった私のーー亜美の表情が初めて変わった。
「やっとーーあなたが手に入ったって思ったわ。」
心から幸せそうに、恍惚の表情でそう呟いた。
***
亜美は、ずっと前から綾香のことを愛していた。だけど、女性同士という立場で、綾香の恋人になることは難しいことも自覚していた。だから亜美は例え恋人になれなくても、綾香の一番の存在でありさえすれば良かった。それで満足していた。
それなのに、あの男が現れた。
「先輩」は綾香の危機を救ったらしい。そして、綾香の手を繋ぎ家まで送ったと。
その話を綾香から聞かされた時、先輩に対する疑いと綾香を奪われるのではないかという焦燥を感じた。
綾香は夢見がちで、流されやすく、善良でありながらモラルが緩い。そんな綾香を私は心から愛している。
だけど、他の奴らはどうなのだろう?綾香はとても靡きやすい。簡単な女だと思われたのでは無いか。
だっておかしい。普通、男に絡まれて怖い思いをした女の子を、見ず知らずの男が手まで繋いで家まで送るか?
綾香が実家住まいだったから何も無かったが、一人暮らしだったらどうなっていたか分からない。
そんな私の疑惑は、綾香が先輩を追いかけ、必然的に私とも関わりが増える毎に増していった。
私は綾香以外に興味がなかったから知らなかったが、先輩は私の学校の有名人のようだった。黒髪黒目の短髪で、クールなのに優しく、勉強もスポーツも万能だと言う。女性人気も非常に高く、彼を狙っている女の子もーーそして、過去に彼と関係を持った女の子も多かったという。
盲目になっている綾香は気づかない。綾香の王子様である先輩が、軽薄な最低野郎であることを。
私はどうにかして彼から綾香を引き離したかった。でも、当の綾香が先輩を追いかけ続けている。
どうしたものか。そう悩んで気づく。ああ、そうか。
ーー私が、先輩の彼女になれば良いんだ。
あの男は、絶対に拒まない。時折彼が私をそういう目で見ていたのを知っていたから。
綾香に、恨まれるかもしれない。そう思えば辛かったし、心が折れそうになった。
だけど、何よりも綾香を守るためだからと言い聞かせ、先輩に告白をして彼女になった。
綾香はショックを受け、絶望した顔を見せた。その顔を見た途端、表情を変えずにいることが難しくなった。
「先輩に会いにいってくるね。」
そう言って、私は綾香の元から逃げた。何故ならーー
「……綾香が、私のことで、あんな表情をしてくれるなんて。」
あの先輩のことで頭をいっぱいにしていた綾香が、私を見てくれている。私の言動で感情を揺らしてくれている。
なんて幸せ。
それからと言うもの、綾香は私に嫉妬や憎しみの混じった視線を向けてくることが度々あった。
本人は隠しているつもりのようだが、綾香をずっと見てきた私にはすぐに分かった。
綾香の感情を揺さぶっているのが自分自身だと感じる度、綾香の心を独占しているのだという事実にゾクゾクした。
もう、あの男の出る幕はない。
そう思っていたのに。綾香は、あの男にキスをした。
許せなかった。私から綾香を奪っていくあの男を。私ではなくあの男を選ぶ綾香を。
そんなこと、認めない。許さない。嫌。耐えられない。
そんな黒々とした気持ちが渦巻き、あの日綾香にぶつけてしまった。
綾香はショックを受けたようで、フラフラとその場を去ってしまった。
綾香が私を見てくれたことに安心し、それでも綾香の様子に少し心配もしていた。
綾香は、なんだかんだ言って善良だから。私を裏切っていた事実に罪悪感を抱いていたかもしれない。
そして、そんな私の予感は的中する。
綾香は、階段から踏み外し意識を失った。
幸い、命に別状はなく、そのうち目を覚ますだろうという話だった。だが、その話と共に一つ思いもよらぬ事実を知った。
綾香は、ある時期から睡眠薬を常用していた、というのだ。
その時期を聞いて、私はすぐに思い至った。私が先輩と付き合いだした時期だ。
そんなにも綾香を追い詰めていた。私が、綾香を病ませていた。
そう気づいて、私はーー
この上なく、幸せな気持ちになった。綾香は、もうずっと前から私のものだったのだ。
***
「綾香。目を覚さないってことは、ずっと私のことを思ってくれているんでしょう?私への罪悪感から逃げて、自分の醜さから逃げて、夢の世界に逃げてしまった。私はそんな貴女がーーー心から愛おしい。」
私は、綾香の頬にそっと手を添えた。
ーーーずっと、側に居るわ。
これは、私が貴女を手に入れるまでの物語。