そのはち お兄ちゃんとなじみちゃん
これは、私
音成奈芝美の過去の記憶だ。
物心がついてから以降、初めて伊吹と出会った。
その頃の――
「奈芝美!」
車中の後席でうとうとと微睡んでいた私は
運転手のその言を受けて緩やかに覚醒した。
「ん……」
「そろそろ起きなさい。
もう引越し先の町に入ったから、すぐに着くわよ」
「……うん。 …………ふわぁ~あ……」
欠伸をし、伸びをする。
朝早くに家を出た筈だが、車内のナビの時計では既に正午を指していた。
どれくらいの距離を移動したのだろうか?
出発直後ははしゃぎまくって景色の移り変わりを目一杯楽しんでいたのだが
段々とそれにも飽きた私は与えられたおやつを全て胃の中に放り込むと
すぐに意識を手放していた。
「……おしりがいたい」
正直助かった。
もうやることもないし、おやつも無い。
座りっぱなしの体勢を維持するのも結構辛くなってきたし。
唯一の救いといえば
これから住むことになるであろうこの新しい町の
今までとは違った見たことのない景観を楽しむことくらいだった。
でもそれはこの車中じゃなくてもこれからはいくらでもできる。
早く解放して欲しかった。
暇で暇で仕方がない。
「奈芝美、今度住む家はお隣さんが遠縁の親戚に当たるのよ。
昔はウチも何から何までお世話になって恩義もあるの。
だからお行儀よく、けっして粗相のないようにね」
「わかってるよ、うっさいなあもう~」
「これ! 言ったそばからこれだ。 そんな粗暴な喋り方しないの!」
◇
「ついたー!」
現地に車が到着し
とにかく早く外に出たかった私は
いきおいよく車のドアを開け放つと間髪入れずに車中から飛び出した。
「うおっと!」
「っ!!」
一瞬ガクン! と身体に衝撃が加わった。
と同時に額にもなにかが触れたような、気がした。
その衝撃はそのままバランスを崩し、倒れてしまいそうなほどのものであったのだが
何故かそうはならなかった。
目の前に。
本当に目の前、眼前の僅か数ミリというほどの距離。
私のおでこに吐息が感じられる間近に、
その少年は――そこに、いた。
お日様と、青葉の香り。
じっとまっすぐ見つめられるその双眸に何故だか熱いものがこみ上げて来る。
「大丈夫だったか?」
「……あっ、えっと……」
思わず一瞬だけ目を逸らし、その後おそるおそる上目遣いで再度彼を見つめる。
何が起こったのかすぐにはわからなかった。
しかし声をかけられ一度間を置き少しだけ冷静さを取り戻すと
すぐに状況は飲み込めた。
つまり、私達は正面衝突寸前だったのだ。
その男の子は車の横を走ってすり抜けようとしていた。
そこに私が車から飛び出してきたものだから
彼は一気に急ブレーキをかけ、それだけでは不十分と即座に判断をし
更に私の両肩をひっ掴んで停止したのだ。
あとほんのちょっとで私と彼との顔面同士が
モロにごっつんこするとこだったみたい。
季節は小学校入学前の――春。
ひらひらと、どこからともなく桜の花びらが舞っていた。
まだ色恋がどうこうという年齢でもなかったのだが
今までこれだけ間近に異性の顔を近づけたことがなかった私は
流石に少しばかり動揺した。
「……あ、ご、ごめんなさい!」
「……いや、こっちもちゃんと周りを見れてなかったんだ。
ちゃんと前を見てたなら、君が車から降りようとしてたことくらい
すぐ気がつけたはずだ。 だから、お互い様だなっ!」
屈託の無い笑顔でそう言いながら
私の両肩に乗せた腕を伸ばし、彼は少しだけ遠ざかる。
今まで近すぎて全体像がわからなかったその笑顔が、ハッキリと私の瞳に映り込んだ。
かあ~っと、何故だか一気に頭に血が昇ってきた。
「…………っ!
い、いつまでかたに手をのっけてるんよっ! あ、あせくさいし、キモイんだけどっ!」
べつに嫌な気分になったわけじゃない、むしろ……
なのに、気持ちとは裏腹に突いて出た言葉は辛辣なものであった。
言った後で後悔した。
私は衝突回避のアクションを取るどころか
ぶつかりそうになったことにさえ気づくことができなかった。
飛び出した私にも確実に非があるというのに
全て彼任せで難を逃れることができたくせにこの言い方。
最低だな私。 正直ちょっと自己嫌悪で落ち込んだ。
「ああ、わりいな! すまんが急いでるんで! それじゃあな!」
けれど彼はそんな言葉には微塵も気にした様子を見せず
そう言いながら私の両肩から手を離した。
「あ…………」
本来の意味はともかくとして
文字通りの意味で、肩の荷が下りた筈なのに……
なんだかずっとじんじんとその感覚が両肩に残っていた。
結局何も返す言葉が出せずに呆然と立ち尽くしていると。
「奈芝美!? 大丈夫だった? まったく、急に車から飛び出すから!
いつも気をつけなさいって言ってるでしょ?」
「……ご、ごめんなさい」
流石にちょっと迂闊だったと反省した私は、素直に謝ることにした。
「ああ、おばさん! その子のことははあまり責めんでやってください!
俺も慌ててて悪かったんで! それじゃあ、また後でっ!」
去り際に、くるりと一回転ターンして擁護の言葉を残す彼。
「…………」
彼はそのまま私の引越し先の隣の家に入っていった。
何気に表札を、覗き見る。
…………『音小野』……?
なんて読むんだろう?
でも、この字には見覚えが、あった。
確か、今まで住んでた私の家のお隣も
空家ではあったけれど、確か表札は『音小野』であった。
よくある苗字なんだろうか?
普段はあまりお目にかからないのだけど。
「……へえ、伊吹君。 なかなかしっかりした良い男の子になったわねえ」
「……え?」
車から降車してきた母は、私の傍らに来てそう話す。
「あら、知らなかったの?
まあ彼はともかく奈芝美は小さかったから無理ないわね。
あの子が以前お隣だった男の子、音小野伊吹くんよ」
「…………音小野……伊吹…………彼、が……」
すでに見えなくなった背中があったその玄関先をじっと見つめたまま、私はそう呟いた。
未だ感じ取れる両肩の彼の、残滓。
それと……
そっと右手で前髪をかき上げながら、額に触れる。
「…………」
やはり、あれは……あの、柔らかい感触は……やはり!
「……っ!」
「さてと、さっさと荷物を片付けちゃいますか!
って、……え? ど、どうしたの奈芝美!?
あんた顔が真っ赤っ赤よ! ほんとに大丈夫!?」
「なな、なんでもないぃーっ!!」
これが、彼とのファーストコンタクト。
幼い私的にはある意味ちょっぴりだけ衝撃的な出会いとなった。
◆◇◆◇◆
「…………嘘……でしょ……?」
霊安室のドアに張り付き
聞き耳を立てていた私は愕然とする。
あれが! あの姿が伊吹だって言うの!? し、信じられない!
だけど、会話の内容から察するに、そう結論づける他ない。
でも、実際そんなことがありえるのだろうか?
「なんだ、やっぱりすぐにバレちゃいましたか……」
「!? あなたは……!」
見覚えのある顔。
それはそうだ。
彼は、伊吹のかかりつけ医でもあるが
同時にウチ、音成家のかかりつけ医でもある。
この病院の院長先生であった。
「ふふ……音成 奈芝美さん…………
いや、読みを変えると”おんなり”ですか。
つまり、女に成ってしまった一族。
どうやら、貴女にはまだ真実は知らされてなかったようですね」
「――!? ……い、一体、な、なんの……何の話をしているんですか!?」
にやりと不敵に笑うその男は、口端を釣り上げたまま
まるで全てを見透かしてる口ぶりで、こう言った。
「お教えしましょう、彼と、彼に纏わる話を。
――そして、貴女と、貴女を取り巻く絡み合ったその人間関係をも……ね」
◇
「…………っ!」
「確かに伝えましたよ。 後は、君が自分自身で決めることです」
「…………でも……今のままじゃ伊吹は
誰とも結婚せずに、その生涯を……独身のままで終えてしまう……」
そしてそれは、例え同じ女ではあっても、
傍にいるのは私なんかではなく……伊吹は、妹であるあやめちゃんを、選んで……
「…………ま、個人的見解で言うならば、あまりお勧めはしないですけどね。
ああ、もちろんフォローはちゃんとしますよ。 そこは心配しなくてもいい」
私は口元をきゅっと真一文字に結んだ後
僅かに弛緩させ、搾り出すように声を出す。
「……………………少し……考えて……みます」
「ああ、それがいい。 それじゃあ、また」
「…………はい……」
フラフラと、茫然自失となって病院の玄関から出て行く音成奈芝美。
遠ざかり徐々に小さくなるその背中を見送りながら、
男は隠れていた傍らの女性に問い掛ける。
「…………これで、いいのかな? 奥さん」
「ええ、上出来よ。 無理言って悪かったわね、先生」
「けれど、穏やかじゃないねえ…………
僕は、以前貴女に「奈芝美ちゃんにはその兆候が見られる」と言っただけですよ」
「だったら、可能性は十分あるのでしょう?」
「それでも100%じゃない。 せめて
彼女が成人するまで待ってみた方が良かったのでは?」
「それじゃあ、遅いのよ!
……まさか、こんなイレギュラーが起こりうるなんて、思いもしなかった……
これじゃあ何のために彼と奈芝美とを引き合わせたのか……
このままだとその全てが……水泡に帰してしまう!」
「……どうやら、音小野さん一家はその辺り、
もうあまり拘っていないようにも思えますが?
僕としては研究対象が無くなっていくのは寂しい限りではありますが」
「……そんなことは、させない。
必ず、私達は以前の栄華を……取り戻してみせる!
…………必ず!!」
◆
いろんな想いが浮かんでは沈んでゆき、渦巻いていて……
頭の中はもう、なんだかぐちゃぐちゃになっていた。
「…………」
気がつけば、何時の間にか私は、自宅前に佇んでいて……
ゆっくりと顔を上げ、光の無い瞳で彼の家の玄関先をぼうっと見つめる。
この十年間、毎日何度も見送り続けた彼の背中が、
次々と脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。
「…………やっぱり、諦めることなんて、できないよ。
だって、彼は生きてる。 今も……生きているんだもん!
このままじゃ、悔いが残るよ…………だから……だから! 私は!!」