4:初音〜序章2〜
「ありがとうございます。はい、では」
携帯を切ったのは黒服の男だった。主人である老人に向かって言う。
「現場の捜査官を今更迭したそうです。これで追及する者は居ませんね」
「ぐふふふ……マスコミを黙らせてしまえばこんなもんよ。上級国民たるこのワシが逮捕されるなどあっていいものか!」
老人は下卑た笑みを浮かべ、そして憤慨した。夜叉塚幸蔵。87歳。勲一等褒賞を受けた名士として知られていた。息子は財務官僚、娘は大会社の社長夫人である、いわゆるエリートとしてのステータスがそこにはあった。車の運転は個人的な趣味であった。新車の購入も検討していた。何しろ新車は斬新過ぎて上手く操縦出来なかったからだ。納車まであと数日という所で事故が起きた。ブレーキとアクセルを踏み間違えたのだが滑るように車は歩行者の列へと突っ込んで何人かはねて止まった。この惨事にマスコミが騒がない訳が無い。夜叉塚の素性は直ぐに調べられた。そして夜叉塚はマスコミ各社に言ったのだ。
「貴様らのせいで逮捕されるような事にでもなれば広告を引き上げるように知り合いの会社に言って回るぞ」
そしてマスコミ各社は擁護の記事を書いた。それに釣られるように捜査の手も単なる事故にシフトしていった。悪いのは運転手ではない、むしろ運転手も被害者なのだと。その論調は世論はともかく警察などの捜査関係者の共通認識となっていった。無論、それを裏打ちするように金もばら撒いた。そして捜査の手を逃れる為に緊急入院をした。マスコミの前では弱々しく惨めな年寄りを演じた。こんな年寄りを責めるのか、と。このまましばらく入院していれば熱しやすく冷めやすい国民は忘れるだろう。それ以上に刺激的な事件はいくらでもある。
「しばらくは仕方ないが忌々しいな。早くやらなければならん事もあるというのに」
なんなら事件を起こさせればいい。そう、無職の中年男性辺りに金を渡してやらせてもいいのだ。
「そうだな、住宅街辺りで無差別殺人とかどうだ? 子どもとかを狙えば確実にそっちに飛びつくだろう?」
自分の命を守る為なら犠牲など何人出してもいい。そんな不遜さが彼にはあった。
「はっ、では、そのように手配します」
黒服の男たちは部屋から出ていった。残ったのは夜叉塚一人。彼はワインを飲み干してニヤリと笑った。
「所詮この世は金とコネだな。簡単にひっくり返る」
ノックの音。
「失礼します」
扉が開いて入ってきたのは看護師だった。それも妙齢の、非常に魅力的な匂いのする。
「検温です」
「そうか」
夜叉塚は下卑た笑みを浮かべながらセクハラを始めた。弾力のある尻の感触は心地よかった。揉んでいるうちにだんだんと眠気が彼を襲った。
気がつくと彼は地下室に居た。手足は拘束されているのか身動きが出来ない。
「こ、ここはどこだ?」
「ようこそ、夜叉塚幸蔵さん」
女性が居た。この匂いには覚えがある。先程の看護師だ。
「ワシをこんな所に連れて来て、どういうつもりだ? 今すぐワシを病室へ戻せ。後悔するぞ」
「大丈夫ですわ。上にはあなたの身代わりに人形を置いてますから。代わりにぐっすり眠ってもらってます」
クスリと笑いながら女性は言った。
「……何が目的だ? 金か?」
「いえ、お金ではありません。私はあなたに死を届けに来ました。それも苦痛に満ちた死を」
「なんだと!」
ズブリ。
なにか細いものが右の太ももに突き刺さった。激痛が走る。
「ぐうっ」
刺さったところから血がダラダラと流れていた。
「血管からの道を確保して血が流れ続けるように改造した針です」
女性はそう言うと二本目、三本目と腕や脚に突き刺していく。その度に激痛が夜叉塚を襲った。
流れる量を増した血液が床に溜まりどす黒く染めていった。だんだんと生命が喪われていくことに気づき、夜叉塚の顔は恐怖に歪んでいた。
「犠牲者は七人。だから七本」
七本目は局部に突き刺さった。激しい痛みが全身を貫いた。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
「いい声で鳴いてくれますね」
「な、なぜ、上級国民たるワシがこんな目に……」
「上級国民? 何か勘違いしてるのかもしれませんが……地獄に行くのに上級も下級もありませんよ?」
ニコリと彼女は妖艶に微笑んだ。夜叉塚の意識はそこで幕を閉じた。
「事故の後遺症で入院していた夜叉塚幸蔵元理事長が今日未明、病院で亡くなりました。事故の後遺症との関係は不明ですが寿命だったと思われます……」
テレビのニュースがそんな報道を伝えていた。それを聞いた旦那さんは静かに墓の前で手を合わせた。そこには既に誰か来ていたらしく、真っ白な花束が置かれていた。