第12日 俺と私の再会の夜 その2
コンコン――小さく響いたノックの音。
夜の静寂に紛れる程、耳を澄まさなければ聞こえなかっただろうその小さな物音にロイドはまさか、と窓から離れ――叩かれた扉の前に立った。
まさか、まさかと期待と疑いを胸に抱いてゆっくりとドアノブを撚る。
それは――アイビーが寝ているはずの隣室と繋ぐ扉。
ギィと蝶番が軋む音を立てて扉は開く。
「ビー……」
「……ロー」
月明かりに照らされた部屋でアイビーは枕を胸に抱いてそこに立っていた……。
迷子の幼子のように不安に染まった顔でロイドを見上げるアイビー。
月の光を浴びて揺らぐ瞳の中、その中の感情を察してロイドは衝動的に腕を伸ばした。
「わっ」
「ビー……」
ぽとりと枕が床に落ちる。
抱き寄せた身体を強く抱き締めれば仄かに鼻孔を擽る優しい香り。
石鹸と彼女に染み付いた薬草の優しい香りに心に渦巻いていた不安定な感情が一気に落ち着いていくのを感じた……。
成長しても自分よりもまだ頭一個分は小さい身長。
しかし昔とは異なる女性らしい柔らかくしなやかな身体を抱いてロイドは少しだけ泣きそうになった。
トクトクと耳を澄ませば聴こえる鼓動。熱を宿す身体。触れて、聴いて、名を呼べば返る声。五感の全てで感じる彼女が生きている証。
それにさっきまで頭を支配していた馬鹿な想像が塗り替えられていく……ここは現実なのだと改めて実感した。
「あ、あの、ローちょっと苦しい……」
「あ、悪い」
ぎゅうぎゅうと加減せずに抱き締めていた所為で苦しさを訴えるアイビーに少しだけ力を緩める。
でも手放す事はしない。
「ロー、ごめん。寝てたよね?」
「いや、俺もビーと同じだ」
「え?」
申し訳無さそうに表情を曇らせる彼女に少しだけ口端を上げた。
ゆらゆらと揺れる瞳の奥、自分と同じ感情を見つけたロイドは少しの隙間も許さないと言わんばかりにアイビーを再び抱え込んだ。
少しだけ空いた隙間を埋めるようにぴったりと抱き寄せられたアイビーはロイドの胸に耳を当てる。
どくどくと力強く鼓動を打つ心臓。自分よりも低い体温は昔と変わることは無かった。吐息が耳に触れ、擽ったくて肩を竦める。
再会してから幾度となく抱き締められているが、昔からそうだったしアイビーに緊張や羞恥心は無かった。
その代わり心に広がるのは途轍もない安堵感……。
アイビーは強張っていた力が抜けていくのを感じた。
心が、身体が、理解するよりも早く“この場所”は安心できる場所なのだと無意識に反応する。
アイビーが両親に抱き締められた記憶は片手で足りる程に少ない。その代わりロイドは事あるごとに幼いアイビーを抱えて温もりを与えてくれた。
気を張らなくていい、我慢しなくていい。
そう言い聞かせる様に抱き寄せ、抱きかかえてはぴったりと側にいるロイドの腕の中は何よりも、誰よりも安心できる場所だった……。
ぎゅっと、絶対に離さないと雄弁に語る力強い腕。
深く息を吐き寄り掛かってくる大きな身体を受け止め、アイビーは胸を擽るその感情を持て余す。
「ふふっ」
「ん?」
ついつい溢れた笑い声に頭の上からは首を傾げた気配。
それに応えずアイビーはただ思うままに、この世で一番安心する場所で息をした。
――ずっと、長い間息苦しさを感じていた。
夢の為に突き進んで来て十五年。
師匠に連れられて世界中を旅した。
色んな事があった。様々な人々と出会った。
でもこの腕の中より、安心して息が出来る場所も人も居なかった。
例えそれが自分の肉親だろうと変わりはしない。
世界中でただ一人。
愛しいと、恋しいと思うのはロイドただ一人なのだ……。
長い旅路の果て、やっと辿り着いたその居場所にアイビーは甘えるようにその手を伸ばした。
それを見てロイドは心得ていると言わんばかりに、徐にアイビーを抱き上げる。
優しくお姫様抱っこされたままロイドはスタスタと部屋を横切り、向かうのは部屋の半分を占領する――ベッド。
「……ビー」
どさりとベッドの上にアイビーを降ろしロイドもベッドに上がった。
シーツの波に溺れ藻掻くアイビーを囲いこむように上る。
恋い焦がれるようにその名を呼ぶ声はとても、とても甘い熱が篭っていた……。
「ビー」
繰り返し、繰り返し名を呼ぶロイド。
いつしかアイビーの目尻を零れ落ちる雫が重力に従いシーツへと吸い込まれていく。
ここに居る。側にいる。そう告げるように名を呼ばれアイビーは震える唇を開いた。
「ロー……」
応える声。
小さく声を発する唇に親指を滑らせロイドは片手でその頬を包み込む。
声も無く、静かに流れ落ちるそれをロイドの唇が吸い取っていった……。
ちゅ、ちゅ、と軽くリップ音を立ててアイビーの顔中にロイドの唇が落ちていく。
瞼に、頬に、鼻先に、そして額に。
安心させるようにゆっくりと触れていく唇。
優しく落とされる口付けにアイビーは同じように震える唇をロイドの顔に押し付けた。
確かにここに居る。そう互いに呼び掛ける声は静かに部屋に消えて行く……。
*
「落ち着いたか?」
「……うん」
それからどれ位の時間が経っただろうか。
一つのベッドに隣同士向かい合わせで横になりながら泣きやんだアイビーに声を掛ける。
今更羞恥心がわいたのか、少し頬を赤らめて目を逸らす彼女にロイドは上機嫌で笑った。
「なら良かった」
「むぅ」
悔しい、と言わんばかりにロイドの肩口でぐりぐりと頭を擦り付けるアイビーの頭を撫でた。
滑らかな手触りの髪の毛を指先に感じロイドは在りし日を思い出す。
小さな家の小さな部屋で幾度となく過ごした夜。
小さなベッドで寂しいと言葉無く嘆く彼女を慰めては共に寝て過ごした夜を……。
――アイビーの両親は村で唯一の薬師だった。
昼夜を問わず呼ばれる声に彼女の両親は幼いアイビーを一人家に残しては家を飛び出して行く。
アイビーの記憶にある両親はいつも家を出て行く後ろ姿だ。
雨の日も風の日も、雷が轟く嵐の日もどんなに天候が悪い日でも両親は患者の為にその歩みを止める事は無かった。
それを尊敬していたし、いつかは自分もそうなるのだろうと思っていた。
だけど……、寂しさはずっと胸の中にあった。
小さな家に独りぼっちの日々。
昼間は周囲の大人達がアイビーを構ってくれたが夜となればそうはいかない。
両親の愛情を疑った事は無いが、寂しいと、一人は怖いと泣いては「行かないで」と訴えた言葉は「ごめんね」の一言で振り払われた。
伸ばした小さな手を取ってくれた事は一度たりとも無かった。
宵闇の世界で一人布団を被って孤独に震える日々。
そんな日々の果てにいつしか寄り添う温もりが現れたのは一体いつからだっただろうか。
いつものように家を飛び出して行った両親を見送れば、いつしかひょっこりと家を訪れる彼。
両親の代わりに面倒を見てくれた年上の彼は両親が帰ってくるまでずっと側に居てくれた。
ご飯もお風呂も寝る時でさえ、一人ではないのだとずっと側で手を繋いでくれた。
怖くて眠れなかった夜を安心して眠れるようになったのは一体いつからだっただろうか。
「ふふふっ」
「ビー?」
小さな頃の思い出にアイビーは笑い声をたてた。
どうした?と顔を覗き込むロイドに笑いは益々深まる。
「あのね、変わらないなぁって思って」
「何がだ?」
「ローがローなんだなぁって」
「うん?」
どういう事だ?と横になりながらも器用に首を傾げるロイドをしり目にアイビーはぽつりぽつりと脈絡の無い言葉を続ける。
よく見ればその目は今にも瞼が落ちそうになっており、睡魔に襲われている事は一目瞭然だった。
「だから、ね。」
「ビー?」
「わたし」
「おい、ビー?」
うつらうつらと落ちそうな瞼と葛藤する意識があるのは分かるが舌足らずの言葉にロイドは嘘だろ。と頭を抱えたくなった。
腕枕をした状態で彼女の顔を覗き込む。
瞼は力無く落ちてどんどん力が抜けていく彼女の身体。
「わたし………なの」
「……」
すぅと深い吐息とそんな言葉を最後に彼女が眠りに落ちた事を知る。
ロイドはまさかの事態に絶句した。
普通ここで寝落ちとか……しないだろ!?と心の中で叫ぶ。
しかし、腕の中にいるアイビーは安心しきった寝顔で……深い眠りについているのがよく分かった。
「おい、マジかよ……」
いや、別に何かをするつもりは無い……無かったのだが……男として期待して無かったとも言えない。
十五年振りに再会し、彼女だって喜んでいた。
唇以外のキスだって拒否されなかったし、寧ろ嬉しそうにお返しをしてくれた。
恋人同士のような甘い雰囲気と触れ合いにその先を期待しない男はいないだろう。
「……」
すぅすぅと穏やかな寝息をたてながら眠る彼女を見つめてロイドは暫くの間動けなかった。
これから……と言うところで寝落ちした彼女に寧ろ怒りさえ湧いてくる。
別にロイドもアイビーも恋人同士という訳ではないが……互いにそういう関係を意識しなかった。とは言えない。
今まで明確な言葉にした事は無かったが、お互い意識してるしロイドは態度で示しているつもりだった。
それに長年“幼馴染”という関係が強いので、“恋人”よりもその名の方が特別な関係という認識もある。
「はぁ」
心に吹き荒れる感情を宥めながらロイドはアイビーの頭をゆっくりと撫でた。
月明かりに照らされた部屋は薄暗いが、夜目がきくロイドにとってはそれで十分だった。
よくよく見ればアイビーの目の下には薄っすらと隈があり顔も少し疲れている様にも見えた。
それもそうだろう。
他国の治療院で仕事をしてすぐ故郷であるこの国に戻って来てまだ四日程度。
その間もお店を開く為に日々調薬や掃除、片付けをし今日に至っては調理や街へ買い物にだって出ている。
休む暇も無かったのだろう。
本人は感じてない疲労は確かに身体に蓄積されている。身体もそうだが精神的な疲れだってそうだ。
「……」
一瞬、それを気付いてやれなかった自分に後悔が湧いたロイドだが……彼は深い吐息を溢すとするりとアイビーの頬に手を滑らせた。
すると、むずがる様に身動ぐアイビーだったが……
「ロー……」
ぽつりと彼女の口から零れた名前。
ふにゃりと力の無い笑みを浮かべ擦り寄るアイビーにロイドはどこか負けた気持ちになった。
しかし流石にいい歳した男女が同衾というのも問題があるか、と今更ながらの思考に少しだけ身体を離せばくんっと服を引っ張られた感覚。
疑問にそちらの方に目を向ければ服の端がアイビーの両手にぎゅっと握られているではないか。
益々離れようとすれば、それと平衡するように益々握られた力は強くなる。
しまいにはいやいやと俯いて駄々っ子のように僅かに揺れた頭。
「ビー?」
起きてるのか?と問い掛けに呼んだ声には安らかな寝息しか返らなかった。
ロイドは軽く嘆息した。
だが服を握られている以上、それ以上身を離すことは出来ず諦めに力を抜く。
「……頑張ったな」
優しく頭を撫でてやればふにゃふにゃした締りのない表情でパッと服が解放され「お?」と身体を離そうとした――瞬間。がしっと今まで以上に力強く胸元の部分が鷲掴まれ一瞬首が締まった。
しかもそのままアイビーはもぞもぞと身体を縮めて丸くなる有様。
猫の様にロイドの懐で丸くなって眠り続ける彼女にロイドは何回目かの溜め息を吐く。
「まったく」
絶対に離さないと言わんばかりの力に呆れさえ浮かぶ――が、その行動はロイドの心を擽った。
余り人や物に執着しない彼女の無意識の執着。それが例えようもない程にロイドの心に優越感と歓喜を抱かせた。
ニヤニヤと口元がにやけたロイドは仕方ないなぁと誰も見てないのに表情を繕いつつアイビーの身体を優しくその両腕で囲い込み抱き締める。
もぞもぞもぞもぞ、抱き締めたアイビーが居心地悪そうにもぞつくが、やがていいポジションに収まったのが一つ深い息を吐いてはまた安らかな寝息が聞こえ始めた。
ちなみにこの間、ずっとアイビーは目を閉じたまま寝たままである……。
それをじっくりばっちり見ていたロイドは堪えきれぬ笑いに少し喉を震わせていたが、やがてはアイビーの寝顔に眠りを誘われたか欠伸を一つ零した。
ゆっくりと、でも段々と眠りへの入り口が近付くのを感じる。
意識が闇に落ちていく狭間。
もう少し彼女の寝顔を見ていたい気持ちと久々に容赦無く訪れた睡魔とせめぎ合い……ロイドはやがて睡魔に負けた。
夢現になりながらもしっかりとアイビーを抱え直し、ロイドはその温もりに誘われるままに眠りに身を委ねたのだった……。
――その夜、ロイドは十五年振りに夢も見ないほどの深い眠りについた。




