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<12>

 ――エリィ・オルタは吾妻式弥の気持ちを理解できない。

 自分を変えたいだとか、理想を強く望む心……。

 危険を顧みず、真結良の為に自身を(なげう)った姿。

 どうして、あそこまで感情的になれるのか。



 誰もがやるであろう、未来に指針を立てる行為。

 先行く透明な自分を想像し、歩ませた道に逸れぬよう実現に向けて(つと)め進む。

 エリィは人生について……自分の展望について考えたことがなかった。

 ――そもそも最初から未来など望んでいないこの身に、理想など生まれ

 エリィには思い描き、夢想するだけの『こうだったら良いな』という感情がない。

 思いの欠如が、彼女の未来視野を大きく阻害していたのだ。

 だからこそ――意志はいつでも現在に集約されていた。

 ただ時間が流れるままに居るだけの自分。ただ時間が流れるままに居るだけの自分。

 ()(げん)の中に浮かべた、泡のような理想のイメージが、時の流れに乗り、(こいねが)う未来へ向かって帆を広げて進むのであると、どうしても思えなかった。

 …………いま居る自分が全て。この瞬間の意識が全て。期待などない。

 自分の周りだけが勝手に変化し。この身には何も通り過ぎない。

 ゼロだ……プラスでも、マイナスでもない。…………(ゼロ)だ。

 そんな彼女の心が、自らとは対極的な位置に居る吾妻式弥の心を、どうして理解できようか……。



 ――というのが、少し昔の……エリィ・オルタが持っていた考え方である。



 今では吾妻式弥の思いを少しだけ理解できた。何かを変えたいと望み、よりよい未来を手に入れようとする姿は、悪くないものだと思っている。

 随分と変わったものだと、エリィは小さな手を見つめつつ、考えにふける。

 もしも自分を導く運命の〝神〟が居るのだとすれば、それはそれで複雑怪奇。

 今の自分が置かれている立場はなんとも皮肉な運命である。

 いつも、自分が切り開いてきた道。

 思うように、好き勝手に進んできた人生。



 なんら疑問に思ってこなかった自らの人生に、狂いが生じたのは一人の少年。

 ――間宮十河。異界で出会った一人の少年には、心退かれるものがあった。

 必死に生きようと運命に(あらが)い、彼を捻じ潰そうとする絶望を噛み砕きながら明日を迎える姿をいつも隣で見てきたエリィは、彼の人生に惹かれた。



 ――トウガは、生きることを諦めていた自分(われ)を救い上げてくれた。

 アレはいつの日であったか。彼は自分が全く考えていなかった未来について語った事がある。

 ――〝もしも〟なんてものは、それそのものが不確かな理想。



 誰もが異界で語る夢は、現実と伴っておらず。

 どれも適わぬ言葉だけの、甘美なる現実逃避。

 ……淡く触れる事すら叶わぬ遠い理想だった。

 鮮やかな砂糖菓子のように脆くも満たされぬ。

 そんなものを心の拠り所に人々は生きていた。

 この世界にはいない生物『異形の者たち』と、

 この世界で生きてきた人類とが相生きる異界。

 瓦礫が並ぶ。傾いたビルに切り取られる夕日。

 光と闇の狭間。陽に輝く少年と闇に陰る自分。

 不意に振り返る彼の姿。陽よりも眩しかった。



『なあ。アンタ……夢とかある?』



 その一言に――自分は殺された。

 ずっと一人きりだったから、そんなものは考えもつかなかった。

 こんな世界で、夢見るものなど――あるはずがない。

 ただ、あるがままを……今を受け入れて生きていた。

 死ねなかったから生きている。

 自分はその程度の価値しかなく。

 彼の言葉を前に、今更ながらにして、思い知らされた。

 この世界で自分は何も持っていないのだと。

 悲しくはなかった…………ただ、心にぷつりと開いた穴。……それが悲しさだといわれれば受け入れた。虚しさだと指摘されれば納得した。

 きっと、この隙間を埋めてくれるのは、この少年しか居ないと心がざわついた。



 ――――だから、(われ)は欲した。



 彼が指し示してくれる未来なら、夢物語でも構わない。

 お前が与えてくれる、未来が欲しいと……自分は建物に陰る寒さを感じながら言った。

 夕と夜の境界の中。少年の問いかけに、全てを変えられた気がした。



『なら一緒に生きよう。オレが……守ってやるから』



 オレンジの陽を背に、恥ずかしそうな笑顔と合わせて差し伸べられた手。

 ――いとも簡単に今までの自分を捨てることが出来た。

 この身にはない多くを、彼は持っている気がして。

 ――〝もしかしたら〟

 仮説なぞに興味はなかった。一人きりだったら、下らないと吐き捨てていた。

 二人きりでいれるなら、どこでも構わなかった。たとえこの世で無くともいい。

 明日も知れぬ世界で語る――彼のずっと先の未来(ユメ)に、

 自分は初めて一人の少年の思いに興味を持ってしまった。



 恐怖を前にしても必死で乗り越え。

 狂気を浴びようとも自分の意志を信じ。

 生きる力を(しっ)した仲間を懸命に奮い立たせ。

 彼は自分が思っているよりも多くの人を助け、

 ……そして絶望の中で、沢山の希望を与え続けた。



 これはある種の(せん)(ぼう)だ。物理的な力などではなく、心を動かす――自分の持っていない力。

 人間とは……己が持っていないものを強く欲し求めるとはよく言ったものだ。

 今となっては彼の隣に居続けたいと思っている。

 分不相応な気持ちなのかもしれないが、

 それでも、彼を好いていることに嘘偽りを混ぜたくはない。



 トウガが(そば)にいてくれればそれだけでよかった。

 今まで考えもしていなかった未来について考えるようになり、

 …………やがて、ある日を境に。

 彼の口から夢や理想が語られることは無くなった。



 世界はかくも残酷に……彼の生きる意味を根こそぎ奪った。

 意味を奪っておきながら……罪深い運命は彼を生かした。

 なんて皮肉……数奇な人の生だろうか。



 ――――まるでずっと、

 ずっと昔の出来事のような過去を、記憶を頼りにエリィは思い返す。

 記憶は過去から現在へと、意識は訓練所へと舞い戻る。

 彼女の前には鏡張りの個室があり、十河が中で体を動かしていた。

 腕からは球のような汗を浮かばせ――息を切らせている。

 誰も居ないトレーニングルーム。その近くでエリィは体を鍛える機械に座り、やることもなく持て余した時間を、足を振り子のようにぶらぶら動かして、じいっと見守っていた。

 ………………(たい)()は嫌いだ。怠惰とは即ち停滞を意味する。

 彼は平穏を望んでいると言うが、彼の言う平穏とは、なにもせずにそのままで居ること。

 停滞させた現状維持。言い方は綺麗ではあろうが、つまりは怠惰である。

 帰還してから、彼は夢を語らなくなった。ぜんぜん笑わなくなった。加えて未来について考えているのかもわからなくなった。まるで彼に変えられる前の自分を見ているようだった。



 生きづらい世界の中で生きていた彼は輝いていた。あの日のような彼を取り戻せたら、自分はとても満たされるだろう。そして……またそれ以上を欲するだろう。

 ただ少しずつ変化してきているとエリィは思う。

 ……彼は何かを思い出し、かつての自分を取り戻しつつある。

 そのきっかけは、谷原真結良にあると、エリィは確信していた。

 客観的に見ても、彼女の出現が周りを変化させつつある。

 よきに転ぶか、悪きに傾くか――それこそ神のみぞ知る未来だ。

 目に見えぬ何かに背中を押された十河は、過去を(くっ)(さく)するために鍛錬を始めたのか、

 あるいは忘却させるために、いたずらに体を動かし続けているだけなのか。

 どちらにしても、微かな――ほんの微細な変化が彼の中で起こっていると、ささやかな期待を持たずにはいられない。



 人間が(ぜい)(じゃく)(いっ)()だとするならば……人が送る人生は『(つな)』に似ている。独りで生きていると容易く途切れてしまうが、多くの人間との関わりによって複雑に絡まり、()り合わされば、簡単には切れぬ(えん)となる。人は繋がらずには居られない生き物だ。

 多くの繋がりで作られる綱は過去を(けん)(いん)し、未来をたぐり寄せる(ごう)のようなものだ。

 そして、トウガは自ら孤独を望み、そして自身の繋がりを脆弱に()としていた。

 誰も寄せ付けない。たとえ好意に思っている存在が(かたわ)らに居ようとも、彼はその手を繋ぎ、自分の人生の糸とすることもしない。

 今や内壁の向こう側『第三区』へ置いてきた過去に囚われている彼は、訪れる未来を望んでいない。

 自警団(コロニー)で生きていた過去が重荷……あるいは大切な思い出として彼の多くを占めている。

 その〝大切〟な中に(われ)は居るのだろうか?

 もしも――彼がまた異界に戻ることがあれば、

 彼は大切なものを取り戻し、手放す事ができるのだろうか……。



「……………………はぁー」


 呼吸を止めていた自分に気がついて、吐き出すと並行し溜息となってもれた。


「うーっす。ミニ子……なんだよ似合わねえ溜息ついちゃって。……おぉ? 十河が練習とか珍しいじゃん」


「どういう風の吹きさらしか、あの雑魚キャラを鍛えてやるんじゃとさ。やるとなったらキッチリやりたいらしいから、ああやって準備運動の最中じゃ」


「ぇえ!? マジで!? 十河が他人に手を貸すって、天変地異でも起きるんじゃねえの?」


「だよなー。でも本当のトウガは優しい男子なのじゃよ」


「……なあ、ミニ子」


「しつこいな。誰がミニ子じゃ。ばかもん。……なんじゃよ」


「さっきの、『風の吹きさらし』じゃなくて『風の吹き回し』な? ヘタなところで言うとバカ見るぞ。もう見てっけど」


「うー。ぅわかっとるわい! お前を試しただけだもん! 良かったな! 大正解じゃぞ!」


「へいへい。そーっすか。顔を真っ赤にしちゃって、まーコレ」


「ふ、フン! 人のことばっかりいっておるが…………お前はこんな所に何しに来たのじゃよ?」


「筋トレだよ。筋トレ」


「脳みそばっかり筋肉まみれで、思考が圧迫されんようになぁ。クハハ」


「ム…………お前こそ少しは鍛えて、背が伸びたらいいな! ちびっ子」


「ちびっ子ちびっ子って、貴様はほんっとデリカシーの欠片もないヤツじゃなまったくもう! (われ)はデカくなったら凄いんじゃぞ。こう……ボンっキュっボンとなぁ!」


「はいはい。良くわかってるぜ。ちんまいのは夢見がちってことがな。ナァハッハハハ。でっかい夢見て、でっかくなると良いな! ま、絶対ならねえけどなっ! ダハハハハ。まずは牛乳から始めてみたらどうよ? 後は沢山寝ることだ!」


「だぁ。こなくそ! ……うゃあァ、頭をこねくり回すなぁ! (われ)の繊細なキューティクルが汚れるわ!」


 口をとがらせ、ぐしゃぐしゃになった銀髪を直しながら、迫力の無い薄紅藤色の瞳で睨む。


「それで、アイツってなにやってんの? ダンス……じゃあないわな」


 こちらの視線に気がつくこと無く、十河は自分の訓練に没頭している。それだけの集中力で取り組んでいたのだった。

 徒手空拳……激しい動きで拳法ような流れ。


「――ん。剣。……あれ? 槍、か?」


「ほう。(われ)はお前のこと、おもいっきりバカと思っているが、観察眼だけは違うようじゃの」


 暴言を無視し、誠は更に観察を続けた。


「剣道みたいな動きかと思いきや、二刀流。あ……また槍? 腕でガード、格闘? おい本当にあれ練習か? 型にしても一貫性がなさ過ぎなんだが。めちゃくちゃすぎだぜ」


「トウガはあれでいいんじゃよ。あれで」


「前から練習してたっけ?」


「うんにゃ。最近やけに熱心になってるぞ。たぶん異形と戦った日を(さかい)に――かの」


「あいつも思うところがあるんだな」


「なんだかんだ言って、結構気にしているようじゃったよ。『もっと上手く戦えたはず』……じゃとな」


「何もしないのが好きかと思いきや、けっこう完璧主義なんだな」


「それはそうだ。なんせトウガだからな! あいつの能力はあんなもんじゃないわい。もっともーっと、動けるんだぞ!」


「なあなあ。俺だってあの時の戦いで、すげえ動けてたろぉ?」


 誠が言いたいのは、以前の異形事件の件である。


「……魔力切れ」


「――ぅ」


 ニヤリと見事弱い部分を握ったエリィのしたり顔。


「クッハハハ。動けてたぞぉ。魔力切れ……背中見せて逃げてる姿。様になっておったぞぉ。無様になぁ。……ミスター魔力切れ」


 両手を口に当て、わざとらしく肩を揺らして笑うエリィに、さすがの誠も(しょ)()込む。


「……………………ああ。うん。計算違い、だったよ。…………ごめんな」


「え。なんじゃ。ウソじゃろぉ!? 急にシリアスモード?」


「俺……俺だってもっと出来たはずなんだ。考え無しって言われても仕様がねえよ。ココは異界じゃ無いってこと頭に無かったし…………一瞬だけ、死ぬかと思った」


 他人の傷を(えぐ)ったと理解したエリィは、何とも言えない顔になる。


「すげえ怖かったよ。十河がいなきゃ今頃、俺は死んでたかも――うぅ」


 感情がこみ上げてきたのか、両目を被った誠は()(えつ)を漏らしながら言葉を詰まらせた。


「お、おちつけ。こんなとこで泣くなよぉ。(われ)も泣きそうになっちゃうじゃろ! (われ)はなんもしていなかったし、お前よりもなんもしていなかったのだぞ」


 あまりにも意外な展開。

 普段からは想像もつかない荒屋誠の弱さに、

 どう接して良いかわからなくなったエリィはできるだけ優しい言葉を選ぶ。


「く、くくくくく。…………………………だははははははは! 騙されやがったなバカめ! あの程度で、心が折れるわけねぇだろうがよぉぉぉ!」


 目と口に硬貨が入るのでは無いかと言うほどに、

 丸く開いたエリィの顔は、見る見るうちに険しくなり。

 トレーニングマシーンの上に立ち上がり、誠に向かって怒りに震えながら指さした。


「き――ききききききき貴様ぁああああ! (たばか)れる頭も無いくせに、この(われ)を謀りおったなぁああ!? (われ)が心配した気持ちを返せ! 利子つけて返せ!」


「へへへへっへ。『我もぉ、泣きそうにぃーなっちゃうぁあうじゃよおぅぉお!』……おいおい、あんま上で動くなよ。パンツ見えっぞ」


「ムカー。そんな変な言い方しとらんもん。し、しとらんもん! あー、バカバカ馬鹿マコト! あー、もう嫌じゃ。お前はもう嫌じゃ。イヤイヤじゃよ。お前のイヂワルは、いつか倍の倍の倍返しじゃ。おぼえとけボケナスケベ」


「んな怒るなってぇ。ちょっとからかっただけじゃん……いっでっぇ! お前不意打ちでグーパンかよ! 顔面パンチは反則だぞおい! はん、痛くねぇけどな! って、だから痛っぇコラ! 腕振り回すんじゃねぇ! テッメエッ!」


「だまれい。愚か者には鉄拳フルコンボじゃ! その不細工をまともに見れるよう、殴って綺麗に修正してやるぞ! しゅしゅしゅ! ほぉら大人しく、その薄汚いサンドバック顔をさし出せぃ! このツンツン頭の鳥アタマ!」


 もつれもつれて取っ組み合い、

 エリィは両頬をつねり上げられ、

 誠は両目に親指を差し込まれる一歩手前。



「――、………………お前ら、なにやってんだ」


 ようやく個室から出てきた十河は、目の前の惨状を冷ややかな目で見つめる。


「ホイツが、ホイツがわるひのひゃ!」


「俺は無実だ!」


 頭を振って、誠の(つね)りから逃れたエリィ。


「悪いったら悪い! なあトウガよ!」


「……なんだよ」


「愛してるぞ!?」


「……………………そのタイミングでかよ。ところ構わずだな」


 タオルで汗を拭いながら、どうしようもないやりとりに、十河は無表情で答えた。


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