<11>
扉に向かい合い――ノックを二回、間を置いて一回。
どこかで聞いた話だが、ノックの回数にはマナーというものが存在するらしい。
詳しくは憶えていないが、二回はトイレの時だったような……。
二回ノックをした時点で、なんとなく畑野喜美子はもう一回付け足していた。
「…………安藤君、いる?」
本来であれば、男子寮に女子が入ることは許されていない。
だが、先の異形事件の被害者ということもあって、ふさぎ込んでいる安藤太一に面会をしたいと申し出たところ、特例として同じ班にして、あの現場で共に居合わせていた喜美子に許可が下りた。
かれこれ、何度目の訪問だろうか。
携帯端末に送ったメールはそれ以上。
――それでも、彼の顔を見たのは一度としてない。
安藤の情報を得ようと部屋のルームメイトと話す内に顔見知りの仲となっていて、つい先日も彼はどうしているかと尋ねると、顔を合わせる事はほとんど無いという。
現在、同居人は外出中。部屋には人の気配がある。それが安藤であることはすぐにわかった。こちらの呼びかけにも無言。そんな反応がなおのこと喜美子は気がかりであった。
「毎日メールしてるけど、迷惑じゃないかな?」
やはり返事はない。相手がいるはずなのに――まるで壁と話しているようだった。
大きな壁。何者をも拒絶している……心の壁。
「今日も直接、色々話したくて来たんだけど……」
そう言うも、扉をノックするぎりぎりまで、どんな話をしようか悩んでいた。
つい、この前までは一緒に過ごしていた時間があったというのに。友達を失い、それが原因で自分と彼との間がここまで遠くなってしまうなどと、夢にも思わなかった。
とにかく、こうやって来たのだから黙ったままで時間を無駄にはしたくない。
喜美子は思いつく限りのとりとめも無い話をする。
独りだけになってしまった寂しさを、胸の内に隠して。
――学校や授業のこと、友達と話した内容、面白かったこと。楽しかったこと。吾妻式弥のことや……谷原真結良のこと。
「あ、そういえば代表戦があるよね? いくつかの班から申請を受けてるから一緒に考えてもらえたらな、って思ってる」
次々に喋っていると、その中には安藤の姿がいないことに喜美子は悲しさを感じずにはいられなかった。
しばらく話していると、扉の向こう側で動く気配。
足音。背の高い彼の……体重のある音だ。
突然、ドスンと扉が微震した。
「すまんな。いつも…………来てくれて」
久方ぶりに聞く肉声。喜美子は心が熱くなるのを感じた。
声の主は随分と低いところから聞こえてきた。恐らく扉にもたれ掛かったのだ。扉から音が聞こえたのはそのためか。
喜美子は膝をつき、扉に触れて少しでも彼の温度を感じることが出来たらと、手のひらでそっと触れてみるも、伝わってくるのは無機質な冷たさだった。
「安藤、君……元気?」
「――元気…………といったら嘘になるな」
「みんな心配してるんだよ」
「ああ。迷惑をかけて、悪いとはおもってる」
感情がこぼれ落ちてしまったような淡々とした言い方に、やはり不安は拭えない。
「――喜美子……俺、もうよく解らなくなってるんだ」
掠れる声で、扉の向こうの彼は自らの心の一端を投げかけた。
「俺は、今でも自分が許せない……あのとき、どうして…………もっと早く駆けつけることが出来たら。下らない話にうつつをぬかしてないで、違う行動を取っていれば、もしかしたら彼女を救えたんじゃないか……って」
後悔してもしきれない、結果が出てしまった過去の話。
過去にしてしまうには、あまりにも辛い――京子の死。
「私だって……もしかしたらって、いつも考えてるよ」
喜美子も扉にもたれ掛かって座った。触れても感じられなかったのに、扉を挟んで背中合わせになっていると思うと、心なしか伝わってくるはずのない温かさが感じられる気がした。
「俺は……なにも出来なかった。自分の事でさえ――どうにもできなかった」
彼が背負っている罪悪感は自分の想像を遥かに超えるものなのだろう。
きっと、誰よりも京子ちゃんの死を悼んでいるのは、安藤君だ。
悔しさと後悔。悲愴に撃ち貫かれた彼を救う手段があるのならば、私はなんだってする。
「安藤君、一緒に乗り越えていこう。京子ちゃんだってきっとそう思っているはず。……真結良ちゃんも心配してたよ」
「谷原……か」
不意に安藤から初めて笑い声が漏れた。楽しさから来るものではなく、感情が欠落した冷たい笑い方だった。
「これは聞いた話なんだけどな……谷原は、異形が来ることを知っていたんじゃないかって噂を耳にした」
「え、いったい。誰がそんな話を……」
そんなのは初耳だ。噂話にしては質が悪い。
もちろん、谷原真結良が事件の引き金になっているとは到底思えない。
「だって、あの女を迎え入れた直後に、俺たちの班に――たかが一年生にあんな任務を与えるなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。俺たちなんかよりも、もっと優秀な一年は他にもいるってのに」
何故自分たちなのかは知る由も無いことであり、考え出したら際限の無い違和感は確かにある。
事件に関わった当事者ではあるものの、詳しい話は一切聞かせてもらえなかった。
――異界から持ち出された異形。
――本部である組織『ブラックボックス』の対応。
――時を同じくして転校してきた谷原真結良。
――事件をひた隠しにする訓練所。
「なんど考えても腑に落ちないんだ。アイツが来たときから、タイミングを見計らったように……異形が現れた。そして任務を与えられていない現場に、どうして谷原がいたんだ? しかも……自分で武器を調達? そんな都合の良いこと士官学校を出ているからという理由で片付けられる話じゃないだろう? たった一人であんな異形を倒すなんて芸当、到底できやしない。俺らが一番アレの怖さを…………身をもって体感したはずだ」
「……………………」
言葉のでない喜美子は、無意識に自分の頬に触れていた。扉の向こうでも、彼はほぼ完治している腕を触っているのだろうか。
「そして、アイツは逃げるようにして問題児の班に移った。まるで俺たちを腫れ物に触るような態度でだ」
「それは……誤解だよ安藤君。真結良ちゃんはそんなんじゃ……」
「アイツが――アイツさえいなければ! きっと京子は!」
わだかまっていた感情を爆発させたような叫びに、喜美子驚き震える。
「すまん……お前に言ってもしょうがないよな――代表戦はなんとか都合付けてくれないか。俺にはまだやらなければいけないことがあるんだ」
前触れもなく――安藤は一人語り始めた。
その内容に喜美子は目を剥いて驚愕する。
彼女は何も言えず、ただ黙って彼の話す一言一句に耳を傾けていた。
彼が話し終えると、溜息に似た空気を吐き出す音が聞こえた。
「俺はたぶん、お前の班にいられなくなる…………できれば、いま聞いた話は黙っててくれると助かる」
喜美子にとっては突き刺さる言葉。
彼がいるから、頑張ってこられたのに。
あまりにも急な話に、思考が付いていかない。
いまの彼には、どんな慰めも説得も無意味であると喜美子はくみ取り、
「私は……待ってるから。ずっと……待つから。…………だから、わすれないで。私が安藤君を大切に思ってること。それは――それだけは嘘じゃないから」
精一杯の勇気を振り絞って、思いの丈を言葉にした喜美子であったが、
ついに扉の向こうから、返事が返ってくることはなかった。




