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<10>-5

 絵里は積極的に手を引くが、握り返す手は弱々しい。

 人を避けて当てもなく廊下を歩き続け、ようやく人の居ない空き教室に辿り着いた。

 椅子と机が積み重ねられていて、一時的な倉庫として扱われているのだろう。

 換気がなされていない空間は、埃臭さが留まっていた。


「ほら、涙を拭きなさいよ」


 無言でハンカチを受け取り、ぐしゃぐしゃになった顔を拭う。

 彼女がココまで取り乱した理由は、おおかた昔の事に触れられたのだろう。それ以外に思い当たる節がない。




 ――同じ区の出身であった二人は、最初から共に居たのではなく、お互い違う道を歩んでいた。

 あの頃の二人は共に独りで、体は疲れきって、神経がすり減らされていた。

 那夏に至っては着の身着のまま必要な食料も持たず、狙撃銃を抱えていただけ。

 瞳に光は無く。廃人同然の姿で歩いていたところ。荒廃した建物の一角で、絵里と出会った。

 那夏は絵里の過去を知らないように、

 絵里もまた自らと出会う前の、那夏の過去を知らない。

 お互いがお互いに干渉することはなく、

 ごく自然と生きるために助け合い、

 つかず離れずの距離感が逆に双方にとって、

 ちょうど良い信頼関係として築かれていったのだ。



「落ち着いた?」


「グス……うん。……ごめん、ね。絵里ちゃん」


 彼女と出会って何日か経過し、初めて食事を共にした夜。

 (むせ)び泣きながら食べ物を口に運んでいた。

 ――あの時と、同じような顔をしていた。

 聞いているこっちがうんざりするほど『ごめんなさい』をくり返した(しょく)(ざい)の言葉。

 その言葉一つ一つ、どれも同じ単語でも、全く違う罪を感じさせた。

 ……結局、帰還する最後の最後まで彼女の口から自らの過ちを語ることはなかった。

 話したいなら聞いてもいい。話したくないならこちらから聞こうとは思わない。

 アタシだって、自分のことは絶対に話したくないのだから。



 訓練所に来てから彼女は変わった。性格的に気弱な部分は相変わらずであるものの、アタシや班の人間と良くしゃべるようになった。心を開いた……と考えて良いのだと思う。

 ただ、どんなにアタシが言おうとも変わらないところがあった。

 異界にいたときと変わらない。那夏の暗部……きっと彼女を彼女として安定させている根本的な要素として根付き、心の中でそれは息を殺しながら(いん)(せい)しているのだろう。

 それは帰還してもなお生きていた。



 稲弓那夏は自分の最後を――死に様(・・・)を決めている。



 自分がもし致命的な状況に至ることがあれば、

 彼女は畏れず迷わず。自らを手討ちとするだろう。

 彼女の中に棲んでいる黒いそれは誰にも軌道修正はできない。過去の記憶と共に奥底に沈殿するタールのような黒い願望。どんなにすくい上げても、粘つく感情が他人の思いを阻み。中核に触れることは叶わない。

 ――だからアタシは、彼女と距離を置く。

 つかず離れずの距離を置きながら……彼女が迷ってしまわぬよう道を示す。

 彼女が決めている彼女の死を、アタシが選択させないため隣に居る。

 異界で絶望していたとき那夏と出会い、

 彼女を触媒として生きようとする思いを再燃させたように、

 今度はアタシがこの子を守るのだと、決めたのだ。

 ――それは、とても歪んだ〝生〟への執着。

 いつか……アタシにできるかどうかはわからないが、アタシは〝もしも〟彼女の中に居る暗いそれを取り除くことが出来たらと――そう願い止まないのだ。



 アタシが……もう居ない〝誰か〟にそうしてくれたように。



「……いつも、迷惑をかけて、ほんとに――ごめんね」


 また泣き出しそうな那夏に、絵里は薄く笑って全くその通りだと言い返す。


「ほんっと手が掛かるったらありゃしないわよ。どいつもこいつも……男子三人は何考えてるかわからないし、遙佳の勝手で谷原が入ってくるし。谷原のせいでまたひっかき回され始めてるし。面倒すぎるわよ」


 毒突いた愚痴であったが、言葉の中には怒りは無く。

 呆れや諦めにも似たニュアンスが含まれていた。


「……あの、今度の試合だけど」


「うん?」


「わたし……さ、参加しようと。おもって――る」


「――へぇ。そう」


「あの、べつに、絵里ちゃんのことがまちがってるとか、そういうのじゃなくって……あの、うんと……谷原さんも、……まちがって、ないって。おも――――」


 絵里はしどろもどろになる那夏の額に向かって、


「ぶにゃっ!?」


 渾身のデコピンを撃ち放った。

 体をくの字にして(もん)(ぜつ)する那夏。絵里は腰に手を当て、不満とも笑みとも取れない、複雑な表情を見せる。


「なに言ってんの。もう人数は埋まっちゃってるから、アンタの出番はないわよ」


「…………ふぇ?」


 涙目になった那夏はどういうことかと絵里を見上げる。


「アンタを小馬鹿にしたあの女二人……アタシ絶対に仕返ししてやるってもう決めたから…………それに、あの男子(吾妻式弥)にも借りができちゃったし」


「じ、じゃあ」


「――――言っとくけど、コレは谷原の為なんかじゃないんだからね。那夏の為なんかでもない。アタシが個人的にむかついたからよ。そこは那夏、勘違いしないでちょうだい」


 早口でまくし立てる絵里。

 日差し差し込み、粉雪のように埃舞う教室。

 決断した絵里は、次に自分が何をすれば良いのか、はやくも頭の中で考え始めていた。


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