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――どうしよう。わたし、どうなっちゃうんだろう。
関節を石膏で固められてしまったかのように、足取りが重い。
恐怖が心を穿孔して、全身に染み渡る。
歩きながらも胸の前でがっちり固めた両手が、緊張で冷たくなっていた。
同じ校舎の踊り場に那夏を連れてくると、
階段を塞ぐようにして彼女たちは立ちふさがった。
「なあ。早速本題なんだけど。アンタの班の新しい新人……どうなってんのよ」
「……た、谷原さん――ですか?」
「それ以外に誰が居るってんだよ」
那夏の頭の真横。踊り場の窓に自分の手を付いて祥子は威嚇する。
「――――ひ」
「別に祥子は殴ったわけじゃないんだから、そんくらいでビビんなっての。問題児のくせにさ」
「谷原だよ。タ・ニ・ハ・ラ。……ウチにちょっかいだしてきてる馬鹿なヤツ。アンタのところのメンバーだろ?」
「あたしらに喧嘩ふっかけるって、なに考えてんの」
「わたし……うぅ。なにも、し、ししらなく、て」
「知らぬ存ぜぬで、話が通るわけないじゃん。アンタもっと頭使えよ」
「もっと、てめーのとこの新人なんだから、コントロールくらいしっかり班の中でやれよな」
「あたしらすっげー迷惑してんだよ。わかる?」
「は…………ぁい」
彼女たちは交互に罵声を浴びせ、
祥子は睨みをきかせて威嚇しつつも、本題を切り出した。
「ようは……あたし達が言いたいのはさ、今度の代表戦を棄権しろってことなんだよね……」
今頃、谷原に我妻を仕向けている頃だ。本当にできるかどうかなんてわからねーけど。
――真結良と絵里が行った試合の一部始終を、甲村寛人を除いた全員が観戦していた。
観戦後、彼らを取り巻いていたのは、強い不安……。
甲村寛人は試合に『細工』をすると言ったものの、どんな形で勝利をたぐり寄せられるのか。
目で見た相手の実力。いかにしてこちらを有利にできるのか。
そこで男子の一人、山田和夫が提案した。
どちらか一人でも、プレーヤーを潰せれば、良いのではないかと。
――那夏は恐怖はしていたが、涙の一つも出ていない。
祥子には、恐れている言動そのものが演技のように見えて、不愉快だった。
「棄権してくんないかな。別にあんたたちにも悪い話じゃないっしょ?」
「で、も……わたしじゃ、なにも……せっとく、できな、いよ」
青ざめる顔色は、どうやっても演技でどうにかなるものではない。さすがの祥子も言っている事が本心であると思った。
腰が抜けそうになるのを必死で両足で支える光景に、佐織は指さし。
「ねえ祥子。……この子さぁ、吾妻みたいな反応だよね? 問題児っていってるけど、この子もそうとうクズくね?」
「おおかた市ノ瀬の金魚のフンやってるから、自分は大丈夫だろうとか余裕ぶっこいってんっしょ?」
言葉にすることが出来ず、那夏はふるふると小さく首を振った。
「じゃあ市ノ瀬はどうよ……?」
「そうだね。谷原が無理でも、市ノ瀬だったらできるんじゃないの?」
佐織は合いの手を挟んで、嫌な笑みを作った。
「…………絵里、ちゃん?」
「そーそー。アイツだったらアンタのお願いくらいは聞いてくれるんじゃないの? 市ノ瀬は代表戦出るんでしょ?」
那夏は首を振った。
その身振りが『ノー』だと理解するのに、祥子と佐織はすこし時間が掛かった。
「…………え、なに。市ノ瀬出ないの?」
あまりにもあっけない幕切れに、佐織は毒気が抜かれて、思わず素の声で言う。
縦に頭を動かす那夏。今度は汲み取るのに時間は必要なかった。
「……な、なにそれ。こっち楽勝だし。祥子、あたしらもう目標達成じゃん」
「…………………………………………」
話の区切りに煮え切らなさを感じた祥子は口を吊り上げて、那夏に詰め寄る。
「さっきも言ったけど、あたしらは散々迷惑したんだ。なんか言うことあるだろ?」
「いう…………こと?」
トロトロした反応にいい加減うんざりしていた祥子は思わず声が大きくなった。
「ごめんなさいだよ! んなこともわっかんねーのかよ!」
「ご、ご、めんな――さ、さい!」
これ以上縮こまれないのではないかと言うほど、身体を畳んで硬直させる那夏に、笑いがこみ上げてきた。
「キャハハハ、素直すぎ。ほんとマジ犬みてー」
ガラスを引っ掻くような佐織の笑声。
ぎゅっと目を閉じて固まる。なおも震え続け無抵抗でいる姿を見て、
吾妻以外の、新しい『玩具』を発見したと思った祥子は更なる追い打ちを掛ける。
「ねえねえ稲弓ぃ。聞いた事あるんだけどさ。あんた入学式かなんかで、どっかの教室吹っ飛ばしたんだって?」
「可愛い顔して、やることえげつないよねアンタ」
佐織が反対側に立って、肩に手を置いた。
「どうせ、その人畜無害そうな性格も、キャラつくってんでしょ」
「……………………」
何も言い返せない。言葉の一つ一つが、心に刺さる。
体の震えが止まらない。とても怖い。
「他の連中もどっこいだけど、とりわけアンタみたいなのが居たら、班も迷惑だよね?」
「………ぅ」
「わかるわかる。やわっちいし、散々足引っ張って、仲間殺すタイプだよこいつ」
「後ろから間違えましたー、ごめんなさーいなんて言って背中を誤射しちゃったりな」
「佐織は射撃担当で、あたしは狙撃やってるけど、もし前出て戦うならアンタみたいなグズに背中あずけたくないわぁ。そういう弱気なキャラだったらミスっても、文句いわれねーだろうし。お得だよねぇ」
「――――アハハハハ。祥子の言う通りだわ。つか……もう、殺してたりしてんじゃねぇ?」
「プっ、うける」
「――!!」
どんな言葉も罵倒も、心痛くとも怖くとも耐えることが出来たが、
その一言は、あまりにも残酷。
――――脳裏に蘇る、当時の記憶。
恐怖で呼吸が上手くできず。酸欠で痺れる頭。目を逸らすことは許されず。
片手で作った輪っか程度の大きさのスコープで覗き込んだ先。
冷たくなった手は、恐れの臨界点を超えて硬直。涙すらも出てこない。
レンズを通した遠距離の向こう側では、恐怖の根源が波を打って蠢いていた。
幾束にも連なったおぞましい人外の生物と、
――その中で、まだ生きている人間。
スコープで確かに捉えていた。
強く握って、必死になって掲げたその手に持たれている物が見えた。
叫び――発狂するより手前。壮絶な痛みに晒され、狂ったように蹄泣し、
自分の名前と悲鳴を……、
助けて、助けて、助けてと、
何度も何度も、何度も何度も何度も何度も――、
『ナナツ』と。あらん限りの声で自分の名を呼び――、
自分とその人と、あらかじめ取り決めていた約束を――願いを叫んでいた。
フラッシュバックした一瞬の記憶に、感情が大きく揺さぶられる。
まるで、たった今、自分の耳元で慟哭が叫ばれているような錯覚さえ起こしていた。
「う、うぅ。ひっく……うう……ぁー。あー、ひっぐ、ぅわああー。あああぁぁぁー。ああああああああああ、あああああああぁぁッ」
両手で顔を被って、嗚咽を抑えきれず。地面に崩れた那夏は大粒の涙を流す。
突然泣き出されたことに、祥子は戸惑いの様子で一歩、後ろに下がった。
「な、なによ。別になんもしてないじゃん。なによこの子」
「うっそマジ泣き? しんじらんねー。普通に話してるだけじゃんか」
動揺は佐織も同じで、座り込み丸くなる彼女に、慌てて言い訳を取り付ける。
静かな廊下に、那夏のすすり泣く声が響く。
「――アンタ達……なにやってんの」
それはまるで地獄の底から呼ぶ声のように重く。
驚きのあまり、体が固まった女たちの見る先。
下の階から見上げる市ノ瀬絵里は、恐ろしい剣幕で睨み付けていた。
「げ、市ノ瀬」
思わず顔を歪めた佐織を無視し、早足で近づく絵里。
何も言わず殴られるのではないかと警戒する彼女たちは身構えるも、
「邪魔……どきなさいよ」
あまりの威圧感に後ずさる。二人を無視して、那夏の前にしゃがみ、ゆっくり立たせる。
「どうしたの那夏。なにかされたの?」
「ごめんなさい……うぅ。ヒック、ご、ごめんなさいぃぃ――。わたしが、わたしが……ぁ、ごめん――なさぃ。……ごめんなさ、い」
頭を振り、ガタガタ震えて泣き止まない彼女を優しく抱きしめる。
絵里の制服をぎゅっと掴んで、那夏は声を押し殺す。
「この子に……何を、言った」
絵里の声が震えていた。
それは怒りであり、蓋をした感情が抑えきれず漏れ出ていたものだった。
「別に、なにも言ってないし! ちょっと佐織と話してたらピーピー鳴き出しただけよッ」
怒りの矛先が自分に向けられ、まるで心に刃を突き立てられているような気分になった祥子は声を荒げつつ釈明する。
「てか、稲弓ってどんだけメンタル弱いんだよ」
悪びれず開き直る佐織。
「アンタ達に那夏を非難する資格なんて無いわよ。この子の……何を知ってるっていうの」
「チッ、いつもいつもその上から目線、むかつくんだっての!」
「……………………」
ようやく落ち着いてきた那夏は、まだ抱きしめた腕の中で体を震わせていた。
「大丈夫よ。アタシがついてる」
那夏はなにも答えない。
頬を伝う涙が雫となり、床に落ちて弾けた。
「…………あのさ、いっつも稲弓の側にいるけど、まさか市ノ瀬ってソッチ系ってヤツ?」
「うっそやば、それ笑えないしぃ」
そう言いつつ、祥子は勢いを取り戻し、皮肉交じりにせせら笑う。
「――――ゲスどもが」
「ア?」
「はぁ?」
「アンタら……甲村の班の連中よね? 谷原と下らない約束したっていう」
「だからなんだし」
「――――その顔、覚えたから」
背筋に寒気を促すほど、二人を交互に一瞥する目はあまりにも冷たく、
「…………いくわよ那夏」
佐織と祥子に捨て台詞を残し、その場を立ち去る二人。
残された彼女たちは、徐々に戻ってくる温度に感情を取り戻し、
憤怒した声を踊り場に響かせた。




