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<10>-3

 試合の勝者は――まだ足取りおぼつかない状態で、廊下を歩く。

 決して訓練を(おこた)っているつもりではなかったつもりだが、実技授業も七分ほどで済ませていた日常は、いつの間にか体に染みこんでいたらしい。

 まさかこんなところで祟ってくるとは、想像もしていなかった。

 久方ぶりの全身全霊。全身がギシギシ(きし)みを上げていた。



 市ノ瀬絵里は、試合の結果に対して、充実感も満足感もなかった。

 ――あるのは(けん)(たい)(かん)と、危うけれど実力を信じて疑わず、己が実力を持ってたぐり寄せた当然の結果である事への無感動。

 とにかく心身共に()(へい)した。今すぐに寮へ帰って寝たい。


「絵里ちゃん……まだ痛むんじゃないの? ね、寝てなくてだいじょうぶ?」


 恐る恐る背の高い彼女を見上げる那夏に、絵里は小さく頷いて大丈夫だからと短く返答した。

 最後に打ち抜かれた腹が、まだ違和感として残っている。

 トレーニングスーツあってこその状態。

 もし実際に打たれていたら(もん)(ぜつ)し、丸一日は寝たままだっただろう。保健室でもう少し寝ていたかったが、隣のベッドで谷原と遙佳が居た時点で、長居する気も失せた。


「…………ちょっと気分わるいから。お手洗い行ってくるわ」


「い、いっしょに、ついてく?」


「大丈夫よ。外で待ってて…………」


 フラフラしつつ女子トイレに入ってゆく。

 一人残された那夏は、廊下の隅に寄りかかり、絵里の帰りを待つ。



 あの試合の中で、

 (うわ)(ごと)のように彼女が口にした言葉を――彼女自身は憶えているのだろうか。

 自分の……こんな自分の為に、彼女はあそこまでして戦ってくれたのだ。

 あんな気持ちを聞いてしまった後になっては、本人には言えないのだが、やはり谷原真結良が自分にとって害ある人間だとは思えなかった。彼女が立ち回ることで自分に都合が悪くなってしまうと……思考の中で直結できない。



 那夏は思う――なぜ、市ノ瀬絵里は自分の身を(てい)してまで自分を助けるのか、と。

 心当たりがない。異界で一緒にいたときも、彼女の命を助けたことはなかった、はず。

 むしろ――市ノ瀬絵里がいなかったら死んでいたのは自分だ。感謝しても仕切れない恩があるのは自分の方だ。


「なにか、しなくちゃいけないのは――わたしのほうなのに」


 何一つ、感謝を形にして還元していない自分に、後ろめたさを独白する那夏。

 誰も聞いていない廊下で、一人申し訳なさそうに廊下の――タイルの剥がれた部分を見つめていると。



「よー。稲弓ぃ」


 まるで一人になるのを待っていたかのように通路の角から二人の女生徒が現れた。

 知らない声で、自分の名前を呼ばれ、心臓が潰れるほど驚く。

 こちらに向かってむかってくる彼女たちに、


「え……あ…………は、――ぃ」


 肩をぎゅっと縮めた那夏は両手を胸の前で握りしめ、消え入りそうな返事をした。

 ――この人たち、だれだろう。

 生徒の顔はどれも同じように見えるし、ましてや名前など思い浮かばない。

 交互に二人の顔を盗み見て、指を揉み始めた姿に片方の女子が耐えかねて口を開く。


「あたしのこと覚えてねーの? コバヤシだよ。小林佐織ぃ。同じタメ(同級生)なんだけど」


 細いラインを書いた眉毛の下には、得物を捉えた狩人のような瞳が鈍く光っていた。


「……こ、ばやしさん。…………えっと、……その」


 普段、他の生徒と親密な友人関係にある者はおらず。

 なぜ二人が、接点のない自分に話しかけてきたのか、

 疑問を通り越し、恐怖を感じずにはいられない。


「まあまあ、ちょっとこっち来てよ。話あっからさ」


 彼女を挟むような形で、小林佐織と安達原祥子が付きそう。

 トイレにいる絵里を呼びたかったが、声が出ない。

 稲弓那夏は言われるがまま、二人に連れて行かれたのだった。




 ――時同じくして、

 試合の一部始終を観戦していた吾妻式弥は、行く当てなく歩いていた。

 影ながら応援していたが、結果は――式弥の思いも虚しく。

 結果はどうあれ、必死になって戦う谷原真結良の姿に、

 心動かされるものがあったのもまた事実。

 労うつもりで彼女の様子を見に行ったのだが、真結良は寝ていた。

 隣では付き添っていた遙佳が一緒になって寝ていたので、班の一員じゃない自分は気まずさもあって一言も話さないまま逃げるようにして、現在に至る。


「これから、どうしたら……いいんだろうな」


 ――自分の代表戦のこと。

 ――そして甲村班との決別。

 解決しなくてはいけないことは少ないものの、

 一つ一つが巨大な難関となって自分の行く手を(さえぎ)っている。

 とにもかくにも、強くならなくてはいけない。

 こんな自分に親身になって話してくれた人たちのためにも。



 …………気がつけば、ボクは確かな結果が欲しくなっていた。



 少し前の自分では考えもしなかった選択。

 (しょう)(ぜん)を隠すことは出来ずとも、以前のように諦めてしまう選択は浮かばない。

 歩いている内に数人の生徒とすれ違う。

 先ほど執り行われた練習試合についての噂話が耳に入ってくる。


「あの二人って同じ班なんだよな?」


「谷原が問題児の班に行ったってのは本当らしいけど、二人の顔みたかよ。完全に本気でやってたように見えたけど……たかが練習試合でよくあそこまでマジになれるなって思ったよ」


「容赦ないっていうか、市ノ瀬の方なんか殺しにかかってるって感じだったよな」


「顔とスタイルは良いけど、性格がすっげーキツイって話。教官ぶん殴ったって噂もあるぞ」


「そんな問題児(ノービス)を相手によくやってたな。最初のほうなんて、ありゃもうダメだと思ったが、谷原の巻き返しも大したもんだった……」



 式弥を含め、会場にはそれなりのギャラリーがいた。

 両者とも一歩も譲らない試合だったこともあって、未だ熱は収まっていないようだった。

 自分もあんな風に戦えたら、きっと甲村達なんて返り討ちにできるだろう。

 ――そうだ。ボクはまだ何も進んでない。

 今の吾妻式弥は決して『変わった』とは思わない。少しだけネガティブな自分が削れただけにしか過ぎない。根本的にある弱さは今も自分の心にへばりついて離れていなかった。

 また正面から二人の女生徒が歩いてくる。

 なるべく目を合わさないように、前髪をいじる仕草をして過ぎ去ろうとして――。



「……ねえ。いまトイレ前にいた背の小さい子。たしか試合で市ノ瀬さんの付き添いやってた問題児(ノービス)の子じゃない?」


「どこの班かは知らないけど、二人組に連れてかれるような感じだったよね。なにやったんだろ。顔が青ざめてたし」


「ウチらととは帰る方向の逆を行く時点で、なんかワケありだよね。あれ……」



 ――なにやら不穏な話に、式弥の第六感が(うず)く。

 立ち止まって思考を断ち切り、集中して考えを巡らす。


「………………」


 問題児(ノービス)の背の小さい。谷原さんと蔵風さんは保健室のはず。

 市ノ瀬さんの付き添い……名前は知らないが教室で会った銀髪の方じゃない、もう片方の子。

 経験則からして、その子に良からぬ事が降りかかろうとしている。

 頭の中で警鐘が鳴っていた。

 歩いていたスピードが、徐々に駆け足になって来た道を引き返す。



 自分だったらどこへ連れて行かれるか、人気の無い場所。皆が帰る方向とは逆。

 空き部屋の教室か、別のトイレか。袋小路の屋上の階段か。あるいは屋外とも考えられる。

 めまぐるしく自分に置き換えると出てくる居場所の予想。

 保健室を抜けて、女子トイレにさしかかった所で、

 ちょうどトイレから出てきた女子にぶつかりそうになった。


「うぁ!」

「キャ!」


 すんでの所で(かわ)そうと身を(ひね)ったものの間に合わず、肩同士がぶつかる。

 式弥は派手に転倒し、肩に触れた女子もその場で尻餅をつく。


「いったー。……ちょっとアンタ! どこみて――いや、それよりも全速力で廊下走ってるんじゃないわよ! このバカ!」


 尻をさすりながら、まだ痛む体を気遣いながら立ち上がったのは、


「あ、……」

「ハァ? 何を人の顔ジロジロ見て……ッ――あ、アンタ、ウチの班に来た男子!」


 ぶつかった相手が知っている人間だとわかるや否や、

 (どう)(もう)な凄みを放ちつつ、眉間に(しわ)を寄せ迫ってくる市ノ瀬絵里。

 殺されると思ったが、それよりも式弥の口の方が速く。


「あの、大変なんです! 問題児(ノービス)の人の――」


「アンタ殴られたいの!? 本人目の前にして、なにいけしゃあしゃあと問題児(ノービス)だのいっちゃってるわけ!? それともアンタ本物のバカなの!? ひっぱたかれたいの!?」


「ししし、市ノ瀬さんの仲間が、どこかへ連れられちゃってるかもしれないんです! もしかしたらアイツらが……」


 相手の怒りを意に返さず、一歩も退かず必死になって説明をする式弥に、ただならぬものを感じ取った絵里はスイッチが切り替わったかのように黙り、


「…………………………――那夏ッ」


 立ちすくむ彼を置いたまま、一目散に走り出していた。



 一人残された式弥はようやく緊張が解けたことに安堵し、

 彼女と同じく、連れて行かれた問題児(ノービス)の子を探そうとしたところで。

 ――廊下の向こう。よりにもよって会いたくない人間に遭遇してしまった。

 山田和夫と永井雅明だ。

 幸い、甲村寛人はいないようだが、

 一人増えようが減ろうが、最悪なことには変わりない。


「予定通り、市ノ瀬は消えたようだな。……おい吾妻。ちょっと話した事があるんだけどよ」


 和夫の目がぎらりと光るのを見逃さなかった。

 なによりも、彼の右手には――なぜか野球バットが握られていた。

 ――話したいこと? 『殴りたいこと』の間違いじゃないのか。今度は――ボクか。

 これじゃあ、先日受けた暴力の寸分違わぬ再現である。

 凶器を目の当たりにして、黙って居られるわけもいかず。



「………………じ、冗談じゃない」


 もう彼らの好きなようにさせてたまるものか。

 式弥の反応は速く。背を向けて脱兎の如く逃げ出していた。

 静止する罵声が廊下に響き、追ってくる足音が二つ。

 式弥の足は止まることなく、絵里が向かった方とは逆の方向へ駆けてゆく。


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