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「すげえよ真結良ちゃん! ……あの市ノ瀬に勝ったんだぜ?」
「ま……だ――ハァ、ハァ…………勝っ…………ハァ、――ない」
興奮冷めやらない誠は、まるで自分の事のように歓喜に満ちた表情で真結良に言った。
勝ったは勝ったが、全身に痛みが残っている。
技術で言えば、良い勝負。
体力で押し勝ったと言った方が正しい。
後先考えずパワーにものを言わせて迫ったのだ。著しい疲弊が全身を襲っていた。
ズキズキと脈打つ体に、神経が嘆き――体中の筋肉が悲鳴を上げていた。
肺は酸素を取り込もうと躍起になり、灼熱の血液を循環させようと、心臓が狂ったように胸の内側を叩く。額に玉のような汗を流し、燃えるような熱気が体内から溢れていた。
余裕なんかない……それは向こうも同じのはずだ。
「ハァ、はぁ……さすがは首席、だな……強い。ハァハァ、ハ……」
「しゃべるな。とにかく呼吸を戻せ、な?」
「うッ、ハァ、ハぁ……約束通り、……取ったぞ」
「ああ、わかってる、アンタすげえよ」
戦いにおいて、市ノ瀬絵里は一年生の中で一番ではないが、決して弱い生徒ではない。出鼻を挫かれたハンデを考えれば、十分な結果であると言えよう。
渡された水を飲み干し、ようやく真結良は気持ちが落ち着いてくる。
「これで、ラウンドの勝ち数は同点……泣いても笑っても次で決まるぜ」
「ハア、ハァ…………やるからには勝つ。そ、それだけだ。…………始まった、ら、余裕がなくなるだ――だろうが、…………あ、荒屋が言って、いた例の、作戦、…………つ、使えるときが来たら、はぁ、ハァ。――試してみよう、と……思う」
――予想以上にこじれるにこじれ、
「チッ、あの馬鹿力女ッ! はぁ、はぁ。なん――なのよ!」
敗北の泥を塗られた絵里は怨嗟じみた感情を抱えつつ椅子に座った。シャツの至る所は破けていて、その数は十以上あるように見える。つまり紙一重で身を躱し、シャツの薄皮だけを切り裂く一撃が何度もあったということ。身なりだけで戦いの緊迫と壮絶さを物語っていた。
那夏がそっと差し出すタオルも気づかず、受け取る余裕すらなかった。
真結良ほど息は切れていなかったが、呼吸が乱れている。
落ち着いているように見えるが、見た目以上にかなりの体力を失っていた。
第二ラウンドの始めに受けた、空中からの叩き下ろし。これが決定的になった。
――肩の痛みはまだ残っていた。筋肉に鉛を詰め込まれているかのように、重く感じる。
口を挟む余裕すらない那夏は、久方ぶりに感情的になっている彼女に目を丸くしていた。
常に冷静沈着。異界にいたときすら、
ここまで取り乱している姿はあまり見たことがなかった。
「………………………………ふぅぅぅ。…………」
とにかく落ち着くことが先決。スイッチの切り替えが早い絵里は長い深呼吸のあと、乱された感情をいとも簡単に擦り潰した。
「………………まさかの同点。……残るは最終ラウンド、か」
親指の爪を噛む。一度すり潰そうとも新たに生まれる激情。
恨みがましく対面に座っている真結良を見つめる。
思っている以上にやる女だった。
同点になってしまった以上、なりふり構っていられない。
痛みを与えてジワジワ攻める小細工など、もはや自分の弊害において他ならない。
「攻撃は全部潰す。あのパワーはカウンターで凌ぐ。防御は崩す。隙あらば差し込む……絶対、ぜったいに、ねじ伏せてやるわ…………泣いたって、許さない」
それぞれが強い思いを胸中に。両者は時間が来るのを待つ。
本格的な戦いの中、予想だにしていなかった拮抗状態。
どっちが勝ってもおかしくはない――観客側からしたら〝面白い試合〟になっている展開。
ギャラリーにもどこか熱を帯び始めている者がいて、
息を飲む試合に無言状態であったが、ラウンドが終わる休憩に入ると、緊張の糸が切れたようにどよめきと話し声、熱気が沸き上がった。
「なんか凄い試合になてきたのぉ……ここはもう応援しかないじゃろッ!」
席を立ち上がり、エリィはトトトと、席から離れて手すりから身を乗り出した。
「エリィイイイイイ! ややこしいが我の事じゃないぞ!? エリ! そうじゃお前じゃッ! こっち見ぃッ!」
がやがやしている空間を押しのけての大声。
自分の事を呼ばれた絵里は疲労に包まれつつ、声の元である観戦席を振り向く。
「がんばるのじゃよッ! いつもの口汚い毒吐き腐れスカし女のお前はどこいった! 余裕なさ過ぎじゃ! マユランには悪いが、がんばれよぉぉぉ」
「あいつ……恥ずかしげもなく、なにやってんだよ」
「――私も、いってくる!」
「お、おい。蔵風まで……まったく」
一人残された十河は腕を組み、そのまま部外者を装い続けた。
「真結良ちゃぁああん! ここまできたら勝たなきゃだよ! 班の為にがんばるんでしょッ!」
彼女の声が届いたのか、真結良は席側を見上げ、小さく腕を上げた。
「きこえっか、真結良ちゃん。委員長も応援してっぞ」
「ああ。きこえる……ハハハ、凄い声だ。耳済ませるとよく聞こえるものだな」
いよいよ最終ラウンド。泣いても笑ってもなんて考えない。
――笑うことだけを考える。
最後に残っているのは私だと。自分に言い聞かせる。
遊びでやってるんじゃない。私は本気で考え選択したのだ。
彼女に――市ノ瀬絵里に、残りを全部ぶつけてやる。
甲高い声と、目立つ銀髪がこちらに向かって飛び跳ねている。
――さながら、小さい頃にサーカスで見た道化師を思い出す。
「まったくエリィのヤツ。応援してるのかけなしてるのか……はっきりしなさいっての」
鼻で笑う絵里。憑きものが取れたような顔をしていた。
「ねえ。那夏……」
黙っていた心根を伏せて、次の試合には臨みたくなかった。
もうすこしで、休憩が終わる。だから端的に……自分の思いを言葉にする。
「うん」
「アタシ、やるから……勝つから。アイツは面倒事をもってくる疫病神よ。ここでストッパーとしてアタシが勝たなきゃ。…………誰も信用なんか出来ない。班の連中も、あそこで座ってる谷原も。これからもっと余計な面倒を持ってくる。アンタにも――面倒がかかるから。そんなことはさせない」
「それって…………」
ようやく彼女が真結良に反抗した理由がわかった。
これはわたしの為にやっていることなのだ、と。
何も知らなかった自分……いたたまれなくなって胸の前で両手を合わせた。
「アタシが守ってあげる。そのために周りを敵に回したって構わない。……だから、見てて」
「うん……絵里ちゃん。わたし最後までみてるよ」
エリィと遙佳の熱気に後押しされるように、
数十人いた生徒達の何人かも、
席に座ったまま、彼女たちに声をかける。
そのなかには、先ほど野次を飛ばしていた生徒達も含まれていた。
「おいおい、なんかマジの試合みたいになってるじゃん!」
「つまらねえもん見せんなぁぁ! 気張ってやれよー!」
「谷原さーん! がんばってーッ!」
「やれぇ!」
「いけー」
「ラストだぞ。全力出してけ!」
「ふたりともー、ファイトーッ」
「おーい市ノ瀬ぇ! お前の強さってこんなもんじゃないだろーッ!」
「がんばれええええ!」
練習試合だというのに、まるで代表戦さながらの熱気に場内の空気が一つになったところで、
市ノ瀬絵里と谷原真結良の両者はそれぞれの譲れない思いを胸に抱きながら、
――――最終ラウンドへ望む。




