<2>-2
光沢のある廊下には、二人を除いて誰もいなかった。
耳を澄ませば、授業中の声が聞こえてくるだけ。
訓練所内の校舎は、学業を本分とする高等学校の雰囲気を崩すことなく、
そして、兵士を育てるための養成所としての特殊性も損なわない、不思議な空間を作り上げていた。
「真結良ちゃんは、外界の士官学校から来たって聞いたんだけど……」
粛然たる場の流れなど気にしない様子で、前置きも無く京子は切り出した。
「……あ、……ああ」
親しく話しかけられることに、それほど慣れていない真結良は、
自身の内にある困惑の溝がどんどん深くなってゆくのを感じていた。
「すごいねー。やっぱ向こうの学校生活は大変だった?」
「大変と言うよりも――濃密な時間だったかな。戦術座学。実戦訓練……いつでも戦場に立てるように、学んできたつもりだ……小岩さんは、異形と戦った経験があるのか?」
「まっさか! ないない! 一年生でやらされることだって雑用ばっかりだし……あたしはそんなに実力がある方じゃないよ。きっと真結良ちゃんに追い抜かれちゃうかもだねぇ」
「しかし、帯刀を許されているということは、同じ一年生でも『サイファー』に近い人間なんだろう?」
一年生の殆どは訓練生として扱われ、
武器を常備所持できる人間は階級を二つあげなければならない。
時期的に一年生は入学して、まだ数ヶ月と言うところか。
どう逆算しても、ただの一年生が帯刀を許される事などは――まず無い。
「ああ、コレね。……んーっとまあ、入学時の適性試験ってやつで、良い点数だったらしく一年生の中で何人かが、こうやって持ってるみたいだよ……いわゆる模範生徒みたいなやつ?」
「では、やはり優秀なんだな。すごいと思うよ」
真結良の言葉に、微かに眉を顰め、恥ずかしそうにはにかむ京子は、
足をとめて、人さし指を上に向けた。
指し示す先には『第六講義場』と書かれているネームプレート。
ゆっくりと扉を開けると、薄暗い空間が二人を迎える。
内部は半すり鉢状の広いホール。
照明に照らされ、教壇に立つ初老の教師は授業をしている真っ最中。
席には、一年生達が真剣な眼差しで講義を聴いていた。
大型のスクリーンには、パンドラクライシスから現在に至るまでが簡易に明記された年表が映し出されていた。
「現在我々は、旧首都……東京と呼ばれていた土地にいるわけですが、…………異形が出現し続けている土地がどこだか、覚えていますか?」
不意に目の前に座っていた生徒に問いかける。
「爆心地……グラウンド・ゼロです」
「そう。グラウンド・ゼロ。かつては『新宿区』と言われていた場所ですね。私はそちらの方が慣れ親しんでいたので、呼びやすい名前なのですけどね。えー……グラウンド・ゼロとは、即ち……パンドラクライシスが起こった場所を指し、我々人類が『扉』と呼ぶ大穴が存在しているといわれています」
教師は最後部で立っている二人を一瞥。
頷いてみせると、京子は軽く会釈し、真結良に着席を促した。
「……『扉』は、空間の歪みによって生まれ、『扉』はこの世界ではない別の空間とが直結していると分析されています」
「――ちょっと遅くなっちゃったけど、間に合ってよかったね」
耳元に近づきつつ、京子は悪戯っぽく言った。
返事を無視したわけではないが、授業ということもあって真結良は微笑み返すことで示した。
「……では、なぜ穴の向こう側へ誰も入ったこともないのに、別の世界と繋がっているということが言えるのか……答えは、コレです」
教卓にあるスイッチを一押すと、スクリーンの絵が切り替わり、
一枚の写真が映し出された途端、生徒達がどよめく。
「……コレが、扉の向こう側から現れた生き物。……『異形の者たち』です。見てわかるとおり。おおよそ地球上の生物でないのは一目瞭然。奇形的な容貌。その性質は非常に残忍で狡猾。人間を襲い。多くは知性が無く野生の動物と変わりありませんが、希に知性をもって人語を喋る個体までいます。……種類は非常に多く、年月が経過した今となっても全てを把握出来ていません。個体名はそれぞれありますが、『扉』から現れた者たちはすべて『異形の者たち』と一括りにしています」
写真は、じつに生々しい瞬間を切り取ったものだった。
事件当初に現場にいた目撃者が撮ったものであろう……。
異形は破壊された街中で闊歩するような躍動感のある怪物を映したものだった。
鱗状……黒色の外皮。目や耳は無く、
鮮血を滴らせ、むき出しにした赤黒い歯肉と黒い胴体が、
不気味なコントラストを作り上げていた。
あまりの奇怪な形状に、正視できず目を逸らす女生徒。
様々な想像を働かせているのか、顔を歪め青ざめる男子生徒。
口々に、不満や恐怖や拒絶の言葉が混ざり合い、ちょっとした喧噪と化す。
――しかし、真結良はじっと写真を見つめていた。
異形……戦うべき敵。駆逐せねばならぬその容姿を、脳裏に刻み込むかのように。
パンドラクライシス当初の映像は無数にあるが、異形を間近で収めた静止画は少ない。
きっと、我々が想像しているよりも遥かに多くの写真が収められていたはずだ。
なのに現物が少ないのは――写真を撮った持ち主が生きて帰れなかった事において他ならない。
「……はい。話を続けます。確かに貴方たちにとっては恐怖の存在でしかないでしょう。何せ人類がかつて遭遇したこともない怪物が、この訓練所から複数の壁を隔てた数キロ先で潜伏しているのですから……何故このような事を授業で教えるのか。そしてどうして君たちが戦わねばならないのか。…………それは我々のような大人には備わっておらず、それを持っている君たちは異形を倒せる術を持っている、という決定的な差があるからです……さて、その術を憶えていますか?」
様々な感情が入り交じった表情を浮かべる生徒達。
異形の姿で頭がいっぱいになり、大半の人間が思考を停止しているようだった。
答えを思案している生徒はごく僅か。
「じゃあ。ちょっと指名してみましょう――――小岩京子さん」
「え、あたし? ……は、はい!」
思いも寄らぬ奇襲に、京子は声が裏返った。
生徒達は振り向き、後方に座っていた京子に集中する。
――と同時に、何人かが隣に腰掛ける真結良を盗み見た。
「ねえ、隣の。外界から来るっていう転校生?」
「なあなあ。あの子、可愛いな」
「士官ってことは、エリートなんだよね?」
「すごいの来ると思ってたけど、意外に普通……」
なにやら、密めく声が聞こえる。自分に対しての内容であることは明らか。
……………………良い気分じゃない。
教師はざわめきと断ち切るように咳払い。京子に視線を向けた。
「子供である君たちが、どうして異形と対等に戦えるのか。……わかりますか?」
横で真結良が一目。京子は小さく頷き一呼吸。ゆっくりと立ち上がり口を開いた。
「……パンドラクライシス以降、我々の世代には、特殊な力が備わっています。……それは人間の世界で言うところの魔術に近いもので、あらゆる事象を変化させ、固有の神秘を体現する能力。一般的に『固有刻印』と名称されています……この能力は一定の年齢の世代にしか備わっておらず、能力は異形の者たちに対して大きな武器となっているからです」
満足そうに教師は目尻の皺を更に深めて、首肯する。
「その通りです……お聞きのとおり、君たちには『固有刻印』と呼ばれるものがあります。……刻印とは即ち、魔術の塊。あるいは現象を生み出す生成機。……そして、刻印は自らの体や周囲を変貌させてしまうほど強力な異形の業でもあります。だが……現段階では『固有刻印』こそが異形と戦う唯一の方法。君たちが訓練生から『サイファー』になるころには多くの事を学ぶでしょう」
一息つくと着席。親指を立ててみせる京子に、真結良は静かに頷いた。
並行して集まっていた注目は引き潮になってゆく。
「……いままで体力作りを中心に心身を鍛えていたでしょうが、近々『固有刻印』の使い方を学んでゆくことになるでしょう……それでは、今日の授業はココまでとします」
緊張感から解放された反動で、どっと話し声がホールを満たした。
「ふひー。終わりの終わりで当ててくるなんて、あんまりだよぉ……」
京子はのめり込むようにして机へと頭を沈ませた。
「授業の大半をさぼってたくせに、何疲れた顔してんだ」
――思いがけないタイミングで、声をかけてくる男。
「…………あ、キタキタ。安藤ぉー。喜美子ぉー。おつかれー」
弱々しく手を振る先、真結良が振り返ると二人の生徒が立っていた。
安藤と呼ばれた短髪の男子生徒は、あきれ顔で腕を組んでいる。
対して、喜美子は笑みを含ませながら真結良に会釈をした。
二人とも京子と同じく優良生徒の証である刀を下げていた。
「京子ちゃん、ばっちり答えられたね」
「俺はテンパって答えられんと思ってたのだがな」
「ふん。あたしはやるときにゃ。やる女なのさ」
軽口を交わし合うや否や。
「それで――彼女が例の?」
安藤は話を進めた。
「んじゃ早速、自己紹介ね。……彼女が転校生の谷原さん。……谷原さん。二人は班のメンバーで」
「安藤太一……よろしく」
「私は畑野喜美子です」
それぞれが挨拶を済ますと、
「なあ――谷原って士官学校からこっちへ移ったと聞いているが」
そうであることを伝えると、安藤の表情が好奇なものに変わった。
「すごいな。まさか士官学校から生徒が来るなんて思っても無かった。またなんでこんな所に来ようなんて思ったんだよ」
喋るときも無表情。ぶっきらぼうであるが、棘のない物言い。
「――まあ、色々あって……な」
どこか濁した真結良に京子は察し、
「ちょっとー。初対面でいきなり踏み込みすぎだし!」
軽いパンチを安藤の右肩に押し込んだ。
衝撃が強かったのか、少々よろける。
痛ぇなと言いつつも、特に痛みを感じていない様子。
「立ち話しててもしようが無いなから、次の教室に移動しない?」
興味本位から発生する周りの視線を気にしていた喜美子は、おどおどしながら言う。
「んだね。じゃあ。校内の案内がてら、行くとしますかー」
旧三鷹訓練所は、異形と戦う兵士『サイファー』を育てるための施設として認知されているが、
敷地外から見た外観はともかくとして、内部は一般的な高等学校と同じように、廊下があり、教室があり、学年ごとのクラスがある。
ただ、目に見えて施設には広さがあった。廊下は異様に長く、教室は大きく。迷路までとは行かないが、案内板を見た限り、一日で隅々まで回ることは難しいだろう。
京子、真結良、喜美子は横並びで歩き、
女子三人と共に歩くのを、決まりが悪いとしたのか、
安藤は少し後ろを歩く形ができあがっていた。
京子達は、案内がそれほど上手いわけではなく、まだ入学したばかりということもあって、
ときおり道を間違えつつ、会話を絶やさぬよう常に話しかけてくれる。
そんな献身的な姿に、真結良は不満どころか好感すら覚えていた。
「あたし、もっと怖い人が来るかと思ってたよ」
「……うん、私もそう思ってた。安藤くんもそうだよね」
「そりゃあなぁ。……士官学校からなんて、きっととんでもないヘラクレスじゃあないかと、想像してたくらいだ…………ある意味――気にはなる」
最後の方は聞こえないように言いながら、ちらりと真結良の後ろ姿を見遣る。
転校生が女子でよかった…………安藤はそういう意味を持って述べたのでは無い。
確かに見た目がごつい男子よりも、女子の方がが良いと思うのは、
男子が求める願望の常であり、健全に男子をやっている安藤も、その枠から逸れる事は無い。
――だが、女子で良かったと思う以上に、
谷原真結良は、どれだけの実力を持ち合わせているのか、
何故、わざわざ安全を確約されている外界を捨て、エリートコースから逸脱したのだろうか。
考えれば考えるほど拭えない違和感に、不気味ささえも感じていたのだった。
「士官学校以前に、外の世界だものね……ねえ谷原さん。学校ってどこにあるの?」
真結良は士官学校がある場所を京子に答えると、
「あぁ。知ってる知ってる。直接行ったことは無いけれど、有名な所だよね……内界って四区だとか、七区だとか番号でしか呼んでないから、名前のある土地って新鮮に聞こえるんだよね」
「あの、小岩さん」
「…………ん? どしたの?」
「同じ一年生なんだから、別に『さん』付けしなくても良いと思うのだが」
「でも、谷原さんは、私たち訓練生よりも立場が上なんじゃないですか?」と喜美子。
兵士の証である刀を腰に下げられるのは、一年生の中で成績優秀者のみに許されている。
しかし、その枠は他の生徒と同じ立場で〝訓練生〟から飛び出すことは無い。
優良成績者の意味とは、他の訓練生を指揮する候補者として存在し、
のちにはグループの班長を任せられる立場にある。
それに対し、真結良が与えられている士官候補生という階級は、
彼ら訓練生とは違い、卒業と同時に昇格試験にさえ合格すれば、
はなから一般兵よりも高い位が与えられる。
場合によっては、兵士に指揮を出せるほどの権利が与えられるのだ。
真結良の場合、中等の士官学校を卒業しているが、正式な昇格試験を受けずに、訓練所への転校を果たしているので、最終的に士官候補生という立場で留まっている。
「階級なんてモノは、ほとんど変わらんさ。二人と違って帯刀を許されてはいないし、……それを差し引いたとしても、我々は同期の一年生だ。同じ年齢、同じ学舎、同じ生活をするんだ……小岩さん、畑野さん。私のことは真結良でかまわないよ」
その言葉に、二人は、ぱあっと顔を輝かせる。
「じゃあ。あたしのことも京子でよろしくー。そっちの方が堅苦しくなくてイイしねぇ」
「私も名前でお願いです!」
見る見るうちに、三人の友好関係が築かれてゆくのを眺めながら、
「……………………姦しいって訳じゃ無いんだが。なんだこの迸るガールズオーラは。居づらいな、俺……」
蚊帳の外と化した安藤太一は、一人――更なる居心地の悪さを感じていた。