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旧三鷹訓練所がある十七区。円形に隔てられた外部の壁の向こう側は外界に繋がっていて、そこから先は壁のない日本の国土が広がっている。
内側は三枚の壁が数キロの間隔で、土地を仕切っており、内部に行けば行くほど『異形の者たち』の存在と滞留している魔力の密度が濃くなって行く。
魔力は異形にとって、酸素と同等の性質として扱われ、
異形の一部には、その魔力を利用して『魔術』を使用できる個体がいる。
魔術は様々な神秘的な現象を発生させる事が可能で、体現させるには術式過程が必要不可欠。大なり小なり行程を踏まねばならず、時間が掛かる。
それらの行程を取り除いたのが――『固有刻印』である。
固有刻印は、一部の異形も持っている独自の能力で、
魔力を流すだけで発動する短縮魔術だ。
訓練所にいる生徒は、全て固有刻印の適正を持っている。
刻印に組み込まれている魔術は基本的に一つだけ。単一の魔術しか行うことが出来ず、
例えば、火を発生させる固有刻印は、熟練させてゆけば大規模な火炎を生み出す事ができるが、同様の刻印を使って、水を操ることはできない。
自身に内包されている魔術は、刻印を起動してみるまではわからず、非常に未知数な部分が多い。
――訓練所内にある『特殊エリア』は常に監視と厳重な管理が成されていて、他の二棟と比べれば、その重要性に大きな落差がある。
固有刻印を学び、そして技術を引き延ばすための施設は、授業時間外でも生徒達に解放されており、適切な許可さえ下りていれば、授業以上の訓練が可能となる。
「どうしたんだ。その頬は」
驚きよりも、怒りが先立つ。
吾妻式弥と関わっていて、彼が怪我をする要因など、たった一つしか無い。
「…………ちょっと転んだだけです」
うっすらと、まだ腫れが引いていない患部を隠すように手で被い、
定型文をそのまま貼り付けたような嘘を、式弥は口にした。
真結良はわかりやすい嘘だと見抜いていたが、
これ以上触れないで欲しいという要求をされているような気がした。
「そう、か」
なんにせよ、彼が頬を腫らしてもなお、この場所に来たと言うことは、
――まだ、変わりたいという願望があるからにおいて他ならない。
決して、心折れてはいないのだと、真結良は解釈する。
「実は、今日はもう一人、指南役を買って出てくれた人がいてな」
言葉を詰まらせ、予想外であることと、一体どんな人間が来るのかという戸惑いの表情が式弥の顔に広がった。
「ご、ごめんねぇ。遅くなったよぉー」
三つ編みが左右に振れて、かけている眼鏡が上下に揺れる。
そんな慌ただしい少女は二人の前に到着すると、膝に手をついて息を切らす。
彼女が登場するときは、いつも走ってきているようなシチュエーションが多いような気がすると心の中で呟きつつ。
「――だいじょうぶか?」
「うん。なんとか……へーきだよ」
「すまんな。無理に頼んでしまって」
三つ編みの少女は首を振りつつ。
「私も、ちょっと練習したいなって、思ってたから大丈夫」
胸の前に手を置いて深呼吸、ようやく落ち着いたところで、真結良が口を開いた。
「吾妻式弥、君の刻印を見てくれる――」
「蔵風遙佳です。よろしくね」
「は、はい! よろしくおねがいします!」
――噂に聞いている問題児の一人。
刻印の練習をしてくれると言うから、どんな人が来るのかと思っていたが、
彼女は……刻印を使えるのだろうか?
「吾妻君は刻印自体が起動できないって真結良ちゃんから聞いてるけど」
「ええ。ボクには素質がないのか、でも刻印が出てきたときに記憶がまとめて無くなっているので、確かにあるとは思います」
「へー。ちょっと手を出してもらえるかな?」
「………………?」
式弥が手を差し出すと、遙佳はその手を取った。
ビックリしたのと同時、見る見るうちに恥ずかしさで顔が赤くなった。
真結良の時と同じで、柔らかく……でも冷たい温度。
「…………………………んー、どこなんだろ」
「手を触るだけで、解るのか?」
真結良が思わず声をかける。
「うん。なんとなーっく、だけどね。刻印同士を肉体的な接触を果たすことによって相手に干渉することが出来るんだよね。かなりコツがいるらしいんだけど、刻印が刻まれている体の部位が解れば少しは起動に近づくことが出来るかなって」
「たしかに……刻印を動かすにはまず、刻まれている場所を意識する。そしてそこに魔力を集中させればいいというからな」
式弥に向き直った遙佳は真剣な眼差しで彼を見る。
いつの間にか気恥ずかしさを忘れていた式弥は、なぜか彼女が自分の深くを探っているような気がして居心地が悪くなった。
「……だめだ。さっぱり見えてこない。私の接続はすごく不安定だから見える人と見えない人の差が激しいんだよね」
手が離れて、告げられた結果を残念そうにする式弥。
「落ち込まないでよ吾妻君。刻印の場所が解らなくても、訓練で魔力を循環させるトレーニングをしてれば勝手に発動する場合もあるんだから!」
三人は『特殊エリア』の中にあるフロアに場所を移した。
内部はボーリング場のようなレーンと球体を置いてある台座が、それぞれレーンに一基ずつ備
え付けられていた。球体には魔力が溜め込まれており、魔力を吸い上げ自分の魔力としてコントロールした上で体内から放出するための装置だ。
「何事も初心が肝心っていうもんね。わからないなら一から問題を潰していけば、きっと解決できるはずだよ」
一年生は授業で何度も足を運んだ場所。
式弥もまた、同じように授業を受けていたから、良く知った場所でもあった。
特に反論することもなく。もしこれで刻印が使えるようになるのならば――と、
促されるがままに、式弥は練習を開始した。
球体に手を乗せると、装置が起動し、レーンに浮かび上がる無数の透明な障壁。
手で魔力を吸い上げる感覚は、自分でもよくわかる。球体に満ちている純粋な力が自分の体内で変換されて自らの魔力として変わってゆく。
球体に手を乗せたまま、式弥はもう片方の手を障壁に向かって翳した。
放たれた純粋な力は障壁を砕いて進む。四枚ほどを砕いたところで直進する力が弱くなり霧散して消える。
――普通の生徒の平均よりも低い枚数であるものの、
「…………魔力を循環できない、ってわけじゃないんだね」
真剣そのもので遙佳は観察しながら、独り呟いた。
「なんだろ。刻印を発動出来ない理由……」
「本当は刻印が表出していない、とか? あるいは刻印自体が不完全なものであるとか……」
思い当たったことを次々に述べてゆく真結良。遙佳はその意見のどれもに首を振る。
「可能性はあるかもしれないけど、それはたぶん凄く低いと思うよ……そもそも刻印は〝一つの魔術を行使するための術式〟……即ち完成された魔術なの。だから刻印が浮かび上がった時点で確かな固有の魔術が体に刻まれているはずなの。私はてっきり魔力を扱う能力が不十分だから刻印に魔力が渡っていないと考えた。でも今の吾妻君を見る限りでは、魔力を使えないわけじゃない……確実に何かが足りないはずなの。でも、一体なにが……」
思っていた以上に刻印に対する知識が豊富な遙佳。彼女に頼んで正解であったと思った。
――コレならば、彼が刻印を使えるのも時間の問題かもしれない。
「ボク……もう少し練習してみたいと思います」
前向きに考えるようになってきたのか、式弥も率先して再度訓練を続ける。
懸命になって練習に励む彼の後ろ姿を見ながら、
最初に会ったときよりも、自分から変わろうと思っているのが見て取れた。
ずっとあのままだったらもう少し時間が掛かっただろうが、今の彼ならばきっとやれるはずであると、真結良は心の中でエールを送る。




