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間宮十河も谷原真結良のメンバー加入には反対だった。
彼が望むもの――それは〝平穏〟である。
何も考えずに生きられる環境は、彼にとってそれだけで幸福と直結する。
考え続けなければいけなかったあの頃。思考を止めれば、その時点で命が危ぶまれると表現してもおかしくはなかった。
ディセンバーズチルドレンの十河は、そんな環境で生きてきた一人。
転がっている死体から使えそうな物資を漁り、
死体から発せられる腐敗臭が鼻腔へと入ってくる度に、
自分はこうなってたまるかと、言い聞かせた。
同時に視界に飛び込んでくる現実が、自分の動揺を煽りたてる。
夜な夜な、闇の奥に潜んでいる『何か』食い殺されるのではないかと強迫感に狩られ、
廃虚のどこからか反響してくる得体の知れない、明らかに人ではない異形の気配に恐怖し、
――少しでも油断をすれば、明日は自分が漁られる番に変わるのだと胸に刻んでいた。
十七区の夜は静かで、最低限の明かりしかない。
それでも、異界とは違って、心を許せる幾許かの安心と、高い命の保証があった。
同じ一年は、街に不満を口にするが、
オレにとっては十分すぎるほど、満たされた環境である。
――ただ、この隣で歩いている小さいのを除けば、だが。
「ん? どうした我をチラチラ見て……ハッ! むむむむ!? さては、ようやく我の魅力に気が付いたか!? にしてもちょっと遅すぎやしないかトウガ?」
「――――ぜんぜん違うから」
いつものドーナツ屋で何個か買い込み、
夕飯前だというのに遠慮無く胃に詰め込んでいく銀髪の少女。
変わらぬ背丈。精神面は少し変化したと思うが、
それでも十河にとって、エリィは切り外せない腫瘍みたいな存在だった。
エリィを拾ったのは、それこそ偶然の出来事。
独りで生きていたときに、出会った少女。
多少、意見の食い違いや衝突はあったものの、一緒に生活することになって、
――今度は二人まとめて自警団に拾われた。
あのとき、拾われなければ、きっとオレは生きていけなかっただろう。
運命というものがこの世界に存在するのならば、こんな世界にした運命を呪う。
いつもが綱渡りの状況下。自分の力しか信じられない。
ずっと独りで、明日はどうなるか解らない世界で、
…………コイツと出遭ったのも、命からがら救われたのも、また『運命』だったのだろうか?
だとすれば、とても歪。オレは今でも、
オレ以外の誰をも欺き、裏切り続けている。
コイツを側に置き離さず。そしてオレは嫌う。
他者からしたら、あまりにも矛盾した双方の関係。
――もしも……パンドラクライシスなんかない世界があったのなら、
オレはどんな人生を送っていただろう?
普通の学生をして、隣にエリィもいなくて。
ただ普通に、惰気と共に、特に感傷もなく毎日を過ごしていただろうか。
――考えれば考えるほど、今の現実から途方もない差が開いていく。
大勢の人間が死ななくて済む。異界で死んでいった仲間達も、何もなかった世界で、オレはきっと、あの時関わってきた人間達とは、何の接点も持たないだろう。
パンドラクライシスが起こらなかった〝もしも〟は、
――果たして、自分にとっては『良い世界』だっただろうか。
今の状況を大してどうでもいいと思っているように。
オレは何も無かった世界に対しても、どうでいいと吐き捨ててしまうのだろうか。
「ほれ。欲しいか? 食うか?」
思考から戻るや否や、いきなり眼前に突き出されたドーナツ。
紙袋にはまだ入っているはずなのに、
――なんでお前は食いかけの、しかも欠けている部分をオレに向けてるんだ。
彼女にしては珍しい行為ではあったが、首を降って断る十河。
「美味いのになぁ、……はぐはぐ。ごっくん。……ところでトウガは、マユランについては反対なのか?」
「………………あぁ」
彼女に歩調を合わせつつ、自分の表情が険しくなっていく。
――自分の選択は間違ってはいないはずだ。
谷原真結良は、確実に今の環境を壊す。
たとえ、それが杞憂に終わったとしても、
可能性があるのならば、決してゼロではないのだ。
自分の平穏に、彼女は――邪魔だ。
だから考える。最善にして最も効果的な手法を……。
彼女の信念と頑なな志を、根本から削ぎ落とす何かを。
「どうして、トウガは反対なのじゃ?」
「……必要性を感じないからだ」
「必要、ねぇ」
「なんだ、その言いたそうな顔は……」
エリィは立ち止まり、ちょいちょいと指を曲げて耳をかせと十河を呼んだ。
「言いたいなら普通に話せば――――……ゥ!」
屈もうとした時、間髪入れずエリィの右手が十河の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
髪から香る、石鹸の匂いとドーナツの甘い香りが鼻に入ってきた。
「――――お前はいつからそんなに、偉くなったのだ? トウガ?」
凄みも威厳も、彼を糾弾する訳でもない目を丸くした表情。
笑うわけでもなく、怒るわけでもなく。
エリィはまるで呼吸をするような自然さで、十河を見つめた。
「……は、離せよ」
「お前はいつから、人間を利用できるかできないかを選択できる立場になったのだと聞いておるのだ」
「………………」
弱々しさは変わらずであるが、服を掴む強さに力がこもる。
力任せに振り払えば、その細指は容易く離れてくれるだろう。
薄紅藤色の瞳は、心の芯に直接問いかけているような不思議さがあった。
「お前はそんな人間だったか? 困っている人間は放っておけなかっただろう? たとえ面倒なことでも……そうやって切り捨ててきたか?」
「……………………」
無言――そうだとも、違うとも言わない。
そして、抵抗もできなかった。
「のう、トウガ……我が愛しているお前は、人のために自分を顧みず生きようとしているその姿に惚れたのだ……別に多くを助けろとは言わないさ。世界を救えとも言わないし――お前が救えるとも思っていない」
いつもの暴虐ではない――だから何も言い返せなかった。
かといって、的を得ているのでもない。
そんな時もあったかもしれないが、人はいつだって些細な事で変わるのだ。
街中で何人かの人間がこちらを窺っている。
第三者が見れば、小さい女子に凄まれている滑稽な構図にしか見えないだろう。
だが両者は真剣そのものだった。
雑念すら入り込む余地がないほど、
少女が口にする一言一句に耳を傾け、
相手の深意に、裏がないにも関わらず、
彼女の真意に対し解釈を踏み違わぬよう、
頭を使って、どうすれば良いか考えている。
彼女が納得するような。嘘のない答えを探す。
「お前は、自分が世界を救えると思っているか?」
「…………いや」
「お前は、マユラを排他するのか?」
「……………………………………………………」
言葉を返せない。捕らわれている
否定も、肯定もしない。
取り除きたいと思っている――が。言葉にすることは憚られた。
「多少、マユラも強引なところはあるだろうさ……でもな、我は昔のお前を見ているようで、少し好きになっているのじゃ」
「……………………お前は、谷原が好きなのか?」
「少しな……もちろんお前ほど好きじゃない。今の好きはお前だけだぞ」
だがな、と更に引き寄せられ、首に腕を回される。
顔が耳元にくる。自分から見えるのは長い銀髪だけとなった。
彼女のゆっくりとした息づかいが、耳元に聞こえる。
「――我から好きを奪うなよ。トウガ。……もともと我が持っていなかったものを、お前は与えてくれた。……お前が教え、与えてくれたものを、また我から奪って虚しい思いをさせないでくれよ?」
不意に生温かい何かが、耳をなぞった。
それが彼女の舌であると判断した瞬間、
「――――ッ!?」
十河はエリィの肩を押して突き放す。
気恥ずかしさよりも勝る――――――怖気。
「ふぅむ。そう邪険にするなよ。我けっこう傷つくぞ?」
小柄な少女は、妖艶な笑みを浮かべながら舌なめずりをする。
「…………じゃあ、オレが無理矢理に追い出さなければ、いいんだな?」
今度はエリィがぽかんとする番だった。
紙袋に皺を寄せ、腹を抱えて笑う。
「クッ、ハハハ、クアハハハハハハ…………あー、良いのぉ。やめてくれって我がこんなに頼んでるのに、わかってるくせしてそれでも姿勢を崩さないその強気。だからこそ我はお前というものがわからない……愛してるぞトウガ」
「………………」
――やはり、この女は嫌いだ。
オレは未だに、彼女の考えていることが解らないときがある。
なぜ、そこまでして谷原真結良の肩を持つのか。
オレに対して嘘を言わないが、それでも真は語らない。
「少しだけ好きになってるマユランが、お前の計略で陥落するのなら、我の見込み違いだっただけのことじゃな……うんうん。お主がどう動くかもちょっと興味が沸いてきたぞ。マユランは見た目通り強い娘じゃからな。トウガ……お前が直接、動くときは一回切りだぞ? 何度もやったらだめだからな?」
八重歯をニュっと出し、彼女は白い手を差し出す。
腕を伸ばして手を繋ごうとするエリィの仕草に、
彼は乾き始めた耳を拭う仕草をして、その手を拒絶した。
オレは反対だ――エリィがなんと言おうとも、
谷原真結良は害悪だ。
――さて、どうするか。
チャンスは一度きり、か。
オレが直接手を下さずに、
あの女をどうにかする方法。
…………まだ、材料が足りない。
間宮十河は不適に笑う。
エリィを背にして、表情を悟られぬよう、
思考を張り巡らし始めた。
あぁ……やってやるさ。
オレが動く時は一回だけ。
――彼女に一撃を加えるときは、
確実にしとめねばならない。
相手が浮上する力も出せないほど、
深みに陥れ込んで、確実に溺死させてやる。




