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……さて、いよいよ大事になってきたぞ。
谷原真結良は明日は訓練に付き合ってくれるという。
――もしも、自分が彼女のように強い心を持っていたら。
脳裏をよぎった。あまりにも儚すぎる妄想。
吾妻式弥は、無意識に大きな溜息を吐き出した。こうなれたらと考えるだけ――自分との大きな差に打ちのめされる。もし、入学したときからあれだけの力を持った人間だったなら、きっと何一つ不自由はしなかっただろう。いじめられることなんで、無かっただろう。
努力を重ねてきたと言うが、やはり彼女に付属していた才能があったからこそ成り立ったに違いなかった。
助けることに理由は要らないというが、それは心に余裕があるから、
他人に手を伸ばすだけの――気にかけるだけの余裕があるのだろう。
――『強くなる事ができたら』
この学校に入学してから、何度もこんな〝if〟に思考を広げ、無駄な時間を使っただろうか。
考えるだけで現実に至らないのは解っていた。悟ったからこそ、希望を捨てた。
………………だとしても、もしかしたら。
一縷の糸が目の前に垂れ下がっているような気がした。
谷原真結良の存在が、ずっと諦めてきた自分の立ち位置を揺らがせる。
どんなに諦念しようとも、希望を持ってしまうのが人間だ。
これは、大きな……たった一度しかないチャンスなのかもしれない。
深い底から引き上げてくれる希望の糸。
ただ、何もしないで居てはダメなのだ。わかっている。
しっかりと、自分の意志で、
強く掴まなくては……自分の力で登らなければいけないのだ。
あとほんの少し、踏み出すだけ。
――男子寮への帰り道。
雲の隙間から差し込んだ夕刻の日差しは妙に暖かく。
影はまだ見えぬ未来を示す道のように長く伸びていた。
「――おい、吾妻」
自分の左右から、新たに影が二つ。
「………………」
振り返らずとも声でわかった。
いつも、そうやって始まるのだから……。
振り返ればニット帽の山田和夫と、
鋭い目つきの永井雅明が立っていた。
いつも甲村寛人の腰巾着として並んでいる二人であったが、当の班長は居ないようだ。
「あの時は邪魔な女が来たせいで、話が中途半端になっちまったからな……続きをしに来たんだよ」
…………また殴られる。
本能と直結した確信に近い推測が、思わず式弥を後ずさらせる。
「そう警戒するな。甲村も言ってからな。別に暴力を振るいに来たわけじゃねえよ」
心外だと言わんばかりに雅明は肩をすくませて見せた。
「聞きたいのは一つだ。…………お前、まさか俺たちを裏切るんじゃないだろうな?」
「……う、裏切るって――そんな」
内臓がきゅっと締まる。胃が勝手に動き出して熱くなってくるのを感じる。
「だよなあ、俺たち友達だもんなぁ」
馴れ馴れしく、和夫はガムを噛みつつ腕を回してくる。
――ちがう、友達なんかじゃない。こんな苦しいのが友達だったら、そんな関係は要らない。
否定しようものなら、このまま首を絞められると察した式弥は相手を刺激しないよう、いつもと同じ愛想笑いを浮かべた。
「ちょっと、てて手伝って……もらってて」
喉が苦しい。自分の意見をこんなに言うのが辛いなんて。
「――あ? なにしてたんだよ」
「ボク……班に、入ろうかと……おもって」
二人は途端に停止した。
雅明の目は険しさから徐々に表情が歪み、和夫はガムを噛むアゴが固まる。
「ぷ、はっはははははははは! マジかよ。何も出来ない雑魚が、班に入るだとぉ?」
「お前、それ本気で言ってんのかよ」
腹の中の熱さは、ストレスによるものと、もう一つ別の感情――怒りだった。
今まで諦めていた自分は、コレが自分の立ち位置であると理解し……そしてその役割を受け入れてきた。
あれだけ自分の為に、自分の事のように行動してくれた谷原真結良も一緒に馬鹿にされているような気がして、初めて彼らの仕打ちに怒りが湧いたのだった。
「いい気になってんじゃねえよ。谷原に感化されすぎて、脳ミソどうにかなっちまったんじゃないか? 強くなった勘違いをするのも体外にしろよ」
「谷原……ますます気に入らねえな。お前に余計な事を吹き込みやがって。これは早々に学校辞めてもらわなきゃな」
邪悪な表情に式弥は不安をかき立てられる。
自分のせいで、彼女にまで余計な危害が加えられてしまうと思った。
「なんで……あの人は何もしていのに……」
「最初に聞いたよな。お前……一体どっちの味方なんだよ?」
威圧を込めて放つ雅明の言葉。式弥は地面を見ることしか出来ない。
「………………………………」
このとき、どうしても調子を合わせることが出来なかった。
弱い自分の、弱いなりの立ち位置。
どれを選ぼうとも暴力を振るわれるのならば、被害を最小限に留めることで、
ボクは今のボクを、現状維持で保っていられる。
これ以上、酷い目に遭わないために、彼らに調子を合わせることが――それこそが。
……………………口に、出来なかった。
なぜか、彼らが満足する答えを、口にすることが出来ず、
ボクの中にあった境界線は、ギリギリの一線上で意固地に踏みとどまっていた。
「わか、らない」
おそらく、コレが初めて――言葉での抵抗になる。
今度の停止は彼らの期待を裏切った事で発生したもので――、
結果として彼らの怒りを正面から買ってしまった結果となる。
「わからないだと? いったい何が解らないってんだよ! アァ!?」
平静を保っていられなくなった和夫が襟首を掴み挙げた。
また暴力が始まるのかと覚悟をする前に、
「――――ガッ!」
左頬に叩き付けられる衝撃。
首が九十度回って、目から火花が吹く。
和夫の手から飛び出して、地面に倒れ込んだ。
いきなり目の前に腕が飛び出してきた和夫は予想外のパンチに驚いて、雅明を見る。
「痛ってぇ……おい吾妻。なんか勘違いしてるんじゃないかな」
雅明は自分の拳を振りながら、感情のこもっていない冷淡さで言う。
口の中に血の味。頬に残る拳の感触。
震えながら四つん這いになって、血の混じった唾液を吐き出した。
「お前そろそろ、どっちに付くか改めて、よーく考えろ。問題児の谷原なんかと連んで、お前なんかに得はねえぞ……お前なんかには、俺たちしかいないんだよ。もしココまで言ってやっても谷原を選ぶって言うのなら、お前も同じ目に遭わせてやるからな」
「う…………ぅ」
痛みと悔しさで、涙が流れる。
情けなさで体が押しつぶされてしまいそうだ。
いっそのこと、押しつぶされてしまった方が楽になれるのに。
「刻印なんか使えないお前を、どこの誰が使ってくれるんだよ? お前は劣等生なんだよ。刻印を持っていても刻印の使えない劣等生……ある意味、問題児の連中よりもつかえねえ。奴らは奴らでどうしようもない連中だが――市ノ瀬絵里なんかは確かな実力をもってるはずだぜ? アホなお前でもソレくらいは知ってんだろ?」
言葉で叩きのめされるには十分な現実だった。
頑張ったつもりだ……劣らぬよう、見限られぬよう。しがみついて居たはずだが、いつしか他の一年生達はどんどん自分から距離がはなれていって、疎外感を実感していた。
自分の影に落ちる血と涙。
悔しい……ただただ、くやしい。
もしも、ボクが望み、踏み出せば、
……このちっぽけで苦しいだけの世界を、変えられるのであろうか。




