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――『学科エリア』はいくつかの施設を繋げて、増改築させて作られた施設のひとつだ。
基本的に一階は授業で使われるような場所はない。必然と二階から上に生徒は集まる。
連結通路を利用すれば、内部にいたまま他のエリアへと移動できるため、わざわざ一階に降りてくる生徒は少なく、昼休みか放課後にでもならない限り、校舎の外に出る者は皆無に近かった。
肌寒く冷たい風吹く校舎裏。甲村たちのグループは吾妻式弥を連れ出した。
日の当たる時間が少ないのか湿気が多い。
手入れのされていない地面には雑草や、緑色のコケが密生している。
校舎裏は人が来ない死角として、一部の生徒からは認知されていた。
視線を避けるためにその場が利用され、良い意味で利用する人間は誰一人としておらず。
何らかしらかの下卑た理由をもって、日向の当たらない鬱屈した空間に人は集まる。
つまり校舎裏に集まってくるのは、ほとんどが何かしらのトラブルの要因を持ち、
そんな人間に連れてこられる場合の多くは、誰もが被害者だった。
日々、閉鎖された訓練所で抱えるストレスや燻っている蟠りは、
こういった部分で暗部となり、人知れぬ黒点を増やし続けていた。
「あれからご無沙汰だったじゃん……てっきり俺ら、避けられるのかと思っちゃったよ」
「…………そんなことは」
「そーだよねーッ! あたしら友達だもんね」
「――んで……〝例のモノ〟は手に入れられたわけ?」
佐織の言葉の後に、間髪入れずに祥子が問いかける。目は笑っていなかった。
「いや……あの――ぁ。……」
「あんなぁ、さっきから聞いてりゃ『あの』だの『あぁー』じゃわからねえんだよ!」
追い込まれて顔面蒼白になる式弥。
唾液のなくなった口をゴクリと鳴らし。
「……ない、です」
「ああん?」
「ない……で――」
「――ハァ? ざっけんじゃねえよ!」
祥子の足が、式弥の足の間を通って、背後の壁を蹴り叩いた。
「もってこいって、ゆったよな!?」
「あうぅ……ぅ、あ」
式弥の震える両足から足を引く。
「祥子えげつねー。吾妻くん、ビビッちゃってんじゃんかよ」
「アハハハ。女にかまされて、震えるとかお前本当に男かよ!? だっせー」
楽しそうに顔を歪めて笑う佐織に、式弥は何も言い返すことが出来なかった。
――ボクはただ、恐怖して震えることしか出来ない。
無力さを痛感しつつも、無抵抗でいることしか出来ない。
「…………………………うぅ」
「ったく。お使いも出来ねえ。度胸もねえ。どんくせえ上に記憶もなんも持ってねえ。友達もいないもんだから、俺らが友達になってあげてんじゃんよ。友達だからお願いしたってのに、コレって悪いことか?」
「……………………」
――吾妻式弥には記憶がなかった。
刻印を持つ人間のごく一部には能力を得た代わりに何かを失う。髪の色や体の形状。皮膚に浮かび上がる痣など。身体的特徴の変質。
あるいは、性格の変化。記憶の欠如。精神の不安定。様々な副作用が挙げられる。
確認されている中で、もっとも最悪だと言われているのが、
幻痛や幻覚などを発症することによって精神を病み、発狂に至ること。
式弥はそういった『ごく一部の副作用』をもっていた。
不幸中の幸いと言うべきなのか、彼は幻覚も幻痛も現れていない。
精神を狂わされなかったものの、代わりに、ごっそり消失した数年分の記憶が、刻印を得る代償としてもたらされた。
パンドラクライシスよりも前の記憶はあった。ところどころ虫食いのような空白であるが。
電車に揺られ、当てもなく都心を目指し、
どこかの街で。透き通る青空の下。
たしか……建物を見上げていて。
そこから先――ボクの記憶は消失している。
気がつき意識を取り戻した頃には、四年近い年月の経過。
政府が管轄している難民収容施設の医務室が、記憶の再開と壮絶な始まりとなった。
世界は大きく変化し『東京』が無くなった。行動を制限されて家にも帰れなくなっていた。
いま有る自分の正確や人間性さえ、当時の自分と同じままかどうかも曖昧の状態で、現実に打ちのめされる余裕すらなく、刻印を持っているというだけで、あれよあれよという間に旧三鷹訓練所の高校に入学することになった。
刻印の適正ありと判断されているのだが、刻印が表れた時のことを憶えていない。
もし本当に刻印が目覚めた記憶が有るのなら、それは忘却した記憶の中に存在している。
思い出そうと努めてはみたものの、記憶を復元させることなど雲をつかむような話。
今日まで自分が吾妻式弥であること以外――覚えている事がほとんどない。
確かにいたであろう家族はどうなってしまったか、壁一枚隔たれた向こう側で、まだ生きているのだろうか。
自分の事情ですら納得できない曖昧模糊の中。
――ボクは彼らに目をつけられてしまっている。
「ぼけっとしてんじゃねえよ。てめぇ。聞いてんのか」
和夫は式弥の胸ぐらを掴み上げ首を絞める。
こちらの返答も待たないままに一方的な暴力を展開してゆく。
苦しいと抵抗するも、力及ばず。
「はーい。サンドバック決定。雅明……押さえとけ」
式弥を羽交い締めにする永井雅明は、抵抗する彼を動かぬよう固定しながら、
「ちゃんと交代しろよな」
「わかってるって。……えっと、消えたの何日だっけ? 三日か――てぇ事で、一日十発の利息が付いて、占めて三十発の腹ノックな」
泣きながら暴れる式弥に対して、
「逃げんじゃねえよ! うぉらぁ!」
「う――ゲッグ、゛ぉ……ゴ、ェ!」
容赦なく助走をつけた一発が、式弥の腹に食い込んだ。
「何いまの声、きもー」
そう言いながらも楽しそうに、佐織はケラケラと笑っていた。
「おい加減しろよ。まともに鍛えてない腹を力任せに殴ると――死ぬぞ?」
「え? んなん大丈夫だろ。吾妻どんだけ大げさなんだよ。演技か? 腹筋だよ、フッキン。力入れろよ。水入れたゴミ袋みたいな腹しやがって。ほれ立てよグズ野郎。あと二十九発のこってんぞぉ?」
「……………………離してやれ」
「ハァ? おいおい甲村。俺まだ殴ってないんだけどよ。山田が一発食らわせただけでへばるコイツが悪いんじゃないのか?」
「…………………………」
無言の重圧が、寛人から放たれる。
何発も受けて平気なのは映画や漫画の世界だ。
――――そういうのは、俺が一番よく解っている。
何も心得のない人間が本気で殴るなど、当たり所が悪ければ、あばら骨を折りかねない。
最悪――内臓にダメージを負わせるだろう。
大事になってからでは取り返しが付かない。
コイツらはそういった部分をまるで考えていない。
……まったく。バカは黙っておくと何をしでかすかわかったものではないな。
「何度も言わせるな」
「――――わーったよ」
雅明が手を離すと、力なく地面に倒れ込み、式弥は小さくなって蹲る。
呼吸が出来ないのか、足をバタバタと動かしていた。
伸ばした手は、弱々しく地面をひっかき、
緑色のコケが抉れ、湿った地肌が露出した。
「聞こえてるか吾妻……お前は俺たちの『お願い』を失敗したんだから、ちゃんと責任を取ってもらわなくちゃ困る」
顔を真っ赤にして涙を流している式弥を、冷たい瞳で見つめながら寛人は言った。
「友達なら、俺たちを手伝ってくれよ……な?」
形式は質問――であったが、回答は求めていない言い回し。
「甲村も考えたよなぁ。異形の一部をくすねて、金にするとか。普通は考えつかねえよ?」
「結構な値段になるんしょ?」
和夫と祥子の二人は目をぎらつかせながら言う。
吾妻式弥に頼んだ物――それは〝異形の死骸〟だ。
先の事件。校内に現れた異形。ブルーシートで簡易に囲まれていた中庭に間違いなく異形が居たのだと判断できた。
体の一部――甲村本人も含め、そもそも侵入していた異形がどんな形状をしていたのかすら全く想像もつかないが――内臓でも外皮でも……最悪、血の一滴でもいい。一欠片でも手に入れることができれば、高く買い取ってくれる人間がいるのだ。内界だろうが外界であろうがパンドラクライシス以降、大きな暴落があったものの〝円〟は今でも通貨として変わらず生きている……宝石や貴金属ならまだしも、異形の死骸にどういう基準の査定が入るのか定かでは無いが、危険を侵すだけの値打ちがそこにはあるという。
通常、サイファーになったとしても異界の物を個人的に売却することは制度によって硬く禁じられている。そもそも異界の出入りには厳密な身体検査が行われるので、末端の人間が不正を働くなどできない。
そして厳しく取り定められたルールが有るからこそ、その付加価値は驚くほど高く。
どこをどうやったのか監視の目をかいくぐって外界から入り込み異界に向かう者や、極秘裏に異界の採集物を買い取ろうとする人間はこの十七区にもいる。異界の物質だけでも相当な高値が付き、
それが入手困難な最上稀少とされる異形の体とあれば――さすがの寛人でさえも勘定することができない。
甲村はある人物と取引をしていた。
相手はこの十七区住んでいる人物らしく、詳しい素性は知らなかった。
――ちなみに仲間には金が手に入ると言っているが、実際の所すこし違う。
異形の一部と交換で。明確な内容は言わなかったものの、
『苦労しただけの、相応以上の対価を約束しようじゃないか』と、
胸を張って取引相手は、いい切ったのだった。
対価は――もらえるのであれば欲しいのだが、正直……対価よりも自分が他人に指示を出す事の、悪徳そのものを楽しんでいた。単純にスリル。刺激のないフラットな毎日にちょっとした波が欲しかった。毎回同じパターンで吾妻式弥をいたぶるのとはワケが違う。
「まあ、いいさ。異形の死骸の入手は別でなんとかしてみるか。少し手間が増えただけだ」
寛人は一人で呟くように言った。
「ほんと、お前みたいな使えない人間を使えるようにするには骨が折れるなぁ。――ほら立てよぉ。吾妻ぁ……」
和夫が手を伸ばして式弥を立たせようとした――まさにその時、




