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暗闇の中。ノックの音が五回。
不必要に多く叩くような人物は一人しかいない。
「……開いてるわよ」
ノブをゆっくり、音を立てぬように開け、気配を殺して靴を脱ぎ、実際にはそれほどでもない廊下を、まるで何メートルも離れているかのように時間をかけてノロノロ移動する人物。
稲弓那夏は頭だけを部屋の中に差し入れて。
「く、暗いね。目がわ、わるくなっちゃうよ」
もじもじしながら、こちらを確認するなり、こわごわ言う那夏。
普通の女子の平均身長よりも低めの背。ウェーブの掛かった髪を両肩から下ろしていて、通常よりも顔が小さく見える。視線を下に落とし、手のひら同士を擦り合わせ、申し訳なさそうに更にもじもししていた。
「…………電気つけて」
「うん」
ようやく部屋に明かりが灯った。
ディスプレイ画面に目が慣れていたために、蛍光灯の光が目に沁みる。
「ほら、座りなさいよ」
「…………お、おじゃまします」
それ、いま言うところか? わざわざ気配を消さず、入ってきた時に言えばいいのに。
口に出してつっこみそうになった自分が居る。
稲弓那夏はどこか抜けている部分がある。別に人間的な欠陥とかそういうものではなく、おっとりとした人間性というべきか。マイペース。
「なんか飲む? コーヒーしかないけど」
「あ、じゃあ、こ……コーヒー、で」
主張が苦手で、小声になる那夏。
同じ境遇で生きてきた者同士だがらアタシは何とも思っていないが、この消極的な態度をいつも見ていると、訓練所での人間関係をちゃんと構築できているか、心配になるときがある。積極的に友人を作れとは言わないが、気が小さいことで相手の良いようにされてしまいそうな危うさが那夏にはあった。
水を入れた笛吹きやかんを、ガスコンロにセットし点火。
那夏は座布団に座る。遠慮がちな所があるものの、親しい人間となら警戒を解くらしく、無防備に近くにあったファッション雑誌を開いて読み始めた。
「…………ところで、最近は誰かに絡まれたりとかしてない?」
「え……うん。だいじょうぶ、だよ」
目で確認せずとも自分の背後でおろおろしているのがわかる。
彼女の場合、どんな質問にしても動揺したような態度を見せるものだから、顔に出やすい性格でも嘘と本当が、なかなか判別できない。
入学した当初。その気弱な性格によって、彼女は他の女子に意地悪をされていた。
言うまでも無く、那夏は反発することも出来ず。なすがまま。
結果的に那夏を助けたことで――アタシは問題児となり、
那夏は教室を大爆発させた犯人として、同じ道を辿った。
別にアタシは問題児になったことを後悔していない。かといって世間の要求に応じ、自分を堕としてまで馬鹿を装う気は毛頭ない。アタシはアタシとして変わらず行動している。
「もし何かされたら、遠慮しないでアタシに言いなさいよ」
「うん。ありがとぅ」
「授業バラバラになるときあるけど、ちゃんとやってる?」
「うん。だいじょうぶだよぉ」
「お昼ご飯のときも変に目立たないように気をつけなさいよ」
「わかった。うん」
「訓練所の連中って思ってるほど碌な人間いないんだから」
「……うんうん」
「というか、夜もちゃんと食べてんの?」
「うん。たべてるよ。うん」
「…………………………」
「…………………………」
「――――ハっ!?」
さっきからなにいってんだろアタシ。
アタシはこの子の母親かってのッ!
台所に両手を突いて、妙に過保護になっている自分に気がつく。
「へ、えへへへ……絵里ちゃんって、おかあさんみたいだねぇ」
まるで心を見透かしたかのように、雑誌で顔を被って笑う那夏。
「だ!? 誰がアンタのママやるかってのよ!」
「……ママ? 絵里ちゃんはおかあさんのこと〝ママ〟っていうの?」
「~~~~~~ゥ」
振り向き怒るように言った絵里であったが、すぐにまた台所の方を向いた。
両手をついて、崩れ落ちそうになった自分を支える。
「どうしたの? 絵里ちゃん。ぐ、具合でも悪かった?」
立ち上がって近づこうとする那夏に、背中越しに来るなと手を上げた。
「いい、いいから座ってなさい。アンタお客なんだからアタシの部屋だからアタシのルールに従うこといいわね? そこに座っていなさい。雑誌でもなんでも読んでていいから。ステイ。シッダン!」
まくし立てられるも、どこか煮え切らない表情をしつつ、
那夏は小さな体を、小さな座布団に戻した。
――――口が滑った。
顔に火が付きそうなほど、赤くなる絵里は流しの排水口を見つめ続ける。
まるで申し合わせたかのように、タイミング良くやかんが沸騰して、
けたたましい笛吹く音が、部屋の中に響き渡った。
……………………。
………………。
「はい。熱いから気をつけなさいよ」
「ありがとう、絵里ちゃん」
動揺と失態が心の中で猛威を振るっていたが、絵里は持ち前の気丈さでねじ伏せ、しっかり蓋をしたところで、いつもの態度を取り戻した。
対面に座り、絵里は机に置いたミルクをコップに流し込み、
角砂糖のビンから一個、二個、三個と次々に放り込んでいった。
「はい。那――」
「ず。ずずず。ふぁー。あったかい。絵里ちゃんが煎れてくれたコーヒーはおいしいよぉ」
「…………………………インスタントだけどね」
砂糖のビンを手元に引き戻しつつ、皮肉交じりに絵里は言った。
何も加えずにブラックのまま口にする。
――――稲弓那夏は、変な所で大人なのだ。
「それで、かなり遅くなったけど――なにかアタシに用があったの?」
「うんうん。わすれちゃってた。谷原さん――のことだけどね」
那夏の言葉にスプーンでかき回す手が止まった。
忘れていた怒りが蘇ってくる。日常に不平不満を感じることはあっても、ここまで苛立ちを募らせたのは、久方ぶりと言っても良かった。
彼女の憤懣の正体は言わずもがな――谷原真結良の加入である。
アタシは断固反対だ。以前――谷原と授業で関わったときに見せた態度。彼女の真っ直ぐ過ぎる性格が嫌いだった。
平然と正義だの平和だのを、疑いもせず口にする。
不正を許さず常に〝善〟で有り続けようとする姿勢。
――――虫唾が走る。
谷原真結良が気に入らないと言うのもそうであるが、此度に関しては、仲間の寝込みを襲うようにして、誰にも相談せずに黙っていた遙佳にも、並行して怒りの矛先が向いていた。
「ほんと――気に入らない」
止まっていた手が、再び動き出す。
カチャカチャと金属とガラスのぶつかり合う音を執拗にくり返す。
「那夏は。あの子が入ってくるのに賛成なの?」
「う、うーんと……あのぉ………………」
「別にアンタがどんな意見を言おうが、アタシは怒らないわよ。ほらさっさと言いなさい」
「…………わ、わかんないよぉ。いいのかわるいのかは。わから、ない。――ずずう」
「わからない、ね。……じゃあアタシが谷原を追い出しても良いって事?」
「え? 絵里ちゃんが? 追い出しちゃうの? どうして?」
「アタシがあの子のこと気に入らないから」
「谷原さんはわるい人なの?」
那夏には、どうも谷原が班に入ることで影響してくる負担などがよくわかっていないらしい。
絵里はしばらく考え込み、やがて口を開いた。
「たとえば、正義のヒーローがいたとするんだけど」
「ヒーロー? ……うんうん」
たとえ話だというのに、食いつきよく目を輝かせた。
頭の中では今まさに、彼女の思い描くヒーローが、派手な爆発と共に登場していることだろう。
「どんな悪も許さない。悪い奴が出てきたら即座に駆けつけ、悪事をはたらく者を成敗する」
「かっこいいねぇ」
「ただ、ここからがヒーローの悪い所」
「ヒーローなのに、悪いの?」
「そうよ。…………いいこと? ヒーローってのは悪がいたら介入せずにはいられない人種なのよ。曲がったことを嫌い、正義のために、正義を然るべき力をもって執行する。圧倒的な武力で悪を倒したら退散してゆく」
「風のように去っていくって、やつだね」
「まあそんなとこ。だけど悪と戦った時には必ずと言っていいほど損害がでるわ。建物が壊れたり道路が割れたり、電気がストップしたりね。悪だけをスマートに倒すことはできないのが正義の良くないところ」
「そうなると、こまっちゃうよ」
「アタシが言いたいのはつまりそういうこと。正義ってのは悪を倒すことでヒーローになるんだけど、そこから出た損害は、誰が補うの?」
「うーん。わかんない。だってテレビとかのやつって、悪いのをたおして爆発して、おわりだもん。でもあの爆発……いいなぁ。悪いほうがいいなぁ。爆発するから」
「…………。結局はやるだけやってはいサヨナラ。損害は全て普通の人が直さなくてはならない。あたしの目からしたら谷原は正義の味方であって、人の味方ではない」
「谷原さんはヒーローで。正義の人で。電気をストップさせちゃうの?」
思わず絵里は吹き出して笑う。
「ちがうわよ。アイツがこの訓練所に来た理由は異形と戦うため――つまり前線である『異界』に行きたいってことね。そのためには自分は力不足だと実感した」
絵里は指を差し、勉強机に置いてある自分のノートパソコンを指さす。そこには先ほどまで見ていた中庭の監視カメラの映像が停止した状態で写っていた。
「……アイツはアタシらを利用しようとしてんのよ。自分が強くなるために。アタシらがディセンバーズチルドレンだと知った途端。手のひらを返したように班に入りたいなんて。都合が良すぎると思わない?」
「つよくなりたいって、すごいと思うけどなぁ」
「向上心があって勝手に強くなるんだったら結構なことだけど、彼女は今ヒーローになりたがっている。異形が悪だとしたら、アタシらの立場は? つまり彼女がヒーローとしての舞台。戦う世界が――アタシらの立場。あの子はアタシらの班を壊してしまうかもしれない。そうなると困るのはアタシ達なのよ……」
「電気がとまっちゃうのかな?」
「で、電気からは少し離れなさいな。…………でもそういうことね。いつかはアタシらの繋がりにまで影響を及ぼしかねない。だからアタシは反対なのよ。アタシ達の班に彼女は――勝手に突っ走って悪を求める無益なヒーローは要らないわけ」
「じゃあ、谷原さんは……わるい人なの、かな?」
「少なくとも、アタシらにまで同じ価値観の正義を押しつけるようなヤツだから、悪なんじゃないのかしら」
ふうん、とわかったようなわからないような感想を漏らし、那夏は立ち上がってノートパソコンの画面を見遣る。
「これって動かせるの?」
「できるわよ。ちょっとまって」
机から那夏の目の前にノートパソコンを移動させた。
マウスを使ってクリック。すると停止していた映像が動き出す。
「うわー。すごいね。……………………あれ? わたしたち、映ってないねぇ」
「ホームビデオじゃ無いんだから映ってないわよ。しかもアタシ達は屋上にいたし」
「あっそっか。えへへ。わすれてた」
残念がりながらも緩く破顔する那夏に、
つられて絵里も鼻で笑った。皮肉の無い笑い方だった。
「本当に……こわかったね」
マグカップを口に当て、笑顔だった表情が徐々に陰る。
「……流石に、もう二度とこんな事は起こらないでしょ。異形が自ら壁を越えて来たのでは無く、人間が自らの手で持ってきた事例だから」
「そうだね。もうわたしも撃ちたくないな」
「でも、あの時の狙撃。……感が鈍ってないのには驚いたわ」
「最初……荒屋くんの近くに撃っちゃったの、まだ怒ってるかな?」
「アンタ、あれから何日たってると思ってんのよ。荒屋なんか翌日には忘れてるに決まってるわ」
むしろ……彼女にも同じブランクがあり、なおかつ初めて扱う武器を二発目で修正出来た時点で上出来。
のほほんとしている那夏だが、あの時の集中力は班の誰よりも高いものであったと、間近で見ていた絵里は評価していた。
「――――でも、絵里ちゃん。なんでこの動画をみてたの?」
彼らの事を少しでも知って、足下を掬われないようにするためよ。
…………なんてことは、言えない。
ちょっとした研究の為だと説明すると、那夏はすんなり納得した。
――こういう部分で生き方が見えてくる。
那夏はきっと、異界で信用できる仲間に出会ったに違いなかった。
アタシは汚い。那夏とは違って人を信用できない。
信用すれば、いずれツケが回ってくる。
絶対に……心を開いてはいけないと、いつも自分に言い聞かせている。
「あの後、すごくパニックになってたよね」
「上へ下への大騒ぎだったわね。どこから聞きつけたか、次の日には閉鎖された中庭に野次馬が集まってたし」
「倒した異形って……どこいっちゃったんだろ?」
「あぁ。それについてなんだけど」
絵里はパソコンを自分の方に戻し、キーボードを軽快に押す。
「はい」
画面が切り替わり、那夏は記された文章をのぞきこむ。
「極秘? ……――対象を、本部に輸送するに当たって……人員の――え、っと隔離、と警備? 情報漏洩……訓練所の対応と……う、ん?」
断片的に声を出して読むものの、那夏にはちんぷんかんぷんの様子。
「一部の校内のスタッフが関わった事後報告書……ちょっと拝借して読ませてもらったのよ」
「そ、そんなことして大丈夫なの?」
「ばれてないから大丈夫なんじゃない? 自分でいうのも何だけど、パンドラクライシスが起こるよりも前――正確には小学生の頃からネットワークとかコンピューターについて学んでいたから、他の人間よりも腕は確かよ。内部のセキュリティってかなりグズグズだから簡単に持ち出せるし」
「す、すごいね。もうなに言ってるか、わたしにはぜんぜんだよぉ。小学生って……わたしおぼえてるのでも、ブランコとか、縄跳びとか、お人形さんごっこしてたなぁ」
記憶を巻き返し、両手の指を折って自分がしていた事を語る那夏。もしも平穏な毎日であったなら、その延長としてその指では数えられないくらい沢山の幸福があったに違いない。
――アタシの場合、彼女と同じように指を折る思い出は少ない。彼女のような思い出になる時間をかまどにくべて、コンピューターを学ぶ時間を費やしたのには、子供ながらの単純な理由があるのだが、特に語るほどのことでもない。
「つまり、報告書では漠然としか語られてないから、詳しくは〝本部〟が全部情報を根こそぎ持って行ったのでしょうね」
「本部って?」
「那夏も聞いた事あるはずよ……『ブラックボックス』って」
顎に人さし指を当て、天井を見ながら思考。
「えぇっと。授業でやってたね。サイファーが所属している組織の名前……だった、っけ?」
「正解。訓練所もブラックボックスの管理下にあるから、異形の体は全て、本部が持ち去った。殺された死体も何もかも、ね。訓練所には一切合切、事件に関わったもの残っていないはずよ……」
「じゃあ、国が研究のために、もってっちゃったんだね」
それは少し違うかな、と絵里は首を振った。
「ブラックボックスってのは、サイファーを管理する組織として活動しているって話だけど、実際のところその内部は一切合切が機密扱い。パンドラクライシス以降、政府が作ったって話だけど表沙汰にされている情報は皆無に等しい。軍なのか公安なのか名前だけの組織なのか。本部の施設がどこにあるのかも、どんな活動をしているかも不透明。……国の意志とは無関係に行動する権限を持っているとかいないとか。アタシも色々と詳しく調べたんだけど、全然わからなかった」
「絵里ちゃんでもわからないことあるんだね」
「歩く電子辞書でもあるまいし、アタシだってわからないことは沢山あるわ。むしろ知っている事の方が少ないし。……ブラックボックスはサイファーと直結してるし、アタシらに大きく関わってくる存在だから無視もできない。……これは他人事じゃないのよ那夏。刻印を持っている以上、拒否権は無い。行く末はサイファーにならなくちゃいけないし。いつどこで本部と関わり合いになるかもわからない。いざとなれば逃げられるようにもしとかなくちゃ」
「絵里ちゃんは、訓練所からにげちゃうつもりなの?」
思いも寄らぬ単語が飛び出して、面食らう那夏。
彼女の動揺に……落ち着いて腕組みしながら絵里は説明を始めた。
「いざとなれば、ね。自分の命が不条理な危機にさらされるようなことになれば、脱走することも厭わないって意味よ。法律的にはなんら問題ないのだけれども、その罪は暗黙の了解に定められている。捕まった人間がどうなるかは、わからない。……理不尽だろうけどそれが現実。刻印を持っている人間は目に見えないミサイルを持っているのと同じくらい脅威として捉えられているからでしょうね」
「…………もし刻印をもっているひとが、あばれたらあぶないから、だもんね」
「端的に言えばその通り。トチ狂った刻印持ちが暴れたりなんかしたら、普通の人間じゃ手に負えない。刻印同士の戦いを異界の中で見たことがあるけど、手練れであればあるほど、人間の戦い方じゃなくなるわ…………街中で暴れられたりしたら、ましてや壊せないだろうけど、壁を壊すようなテロなんか起こされたら、たちまちに人類は終わる。ここは呼び名こそ〝訓練所〟だろうけど、それらを踏まえて考えれば、この学校は〝監獄〟と同じよ。好き勝手、馬鹿をやらないために管理する為の施設」
「いつか、わたしたちも――また異界にいかなくちゃ行けないのかな」
良い思い出など何一つ無い場所。だれが好きこのんで、あの場所に戻りたいと思うのか。
二人の意見は、言葉を交わさずとも同じ。
温くなりはじめたコーヒー。泥水のように見えた。
「那夏……大人達は口では良いこと言ってるけど、絶対に信じちゃ駄目よ。アタシらが見て過ごしている世界はほんの側面でしかないわ。今回の事件だって――誰も予測の付かなかったイレギュラーであったのにも関わらず、あまりにも処理が速すぎる。なにも無かったかのように痕跡を消した時点で……連中は他にも都合の悪いことがあれば揉み消そうとするかもしれない。手際が良いって事は、前にも似たような前例があって悉く明るみから遠ざけてきたとも考えられるからね」
「――――うん」
「訓練所は、なにもこの旧三鷹だけじゃない。……確か四つ、あったはず。……ディセンバーズチルドレンって、中でも即効戦力として扱われているらしいから、この訓練所よりも規律が厳しい所に回されているのかも。前線に一番近く、訓練所じゃなくてほとんど基地となっているのが『有明』にあるって聞いた事があるわ。きっとそこに集められているのかも。…………そう考えれば、アタシらは帰還者の中でもラッキーなのかもしれないわね。でも忘れちゃならないのはアタシらを管理している人間どもの誰もが信用できないって事。……勝手に兵士にするため教育を施して、あの地獄に向かわせるような奴らだから」
思っていた以上に、熱を持って話していた自分をクールダウンさせるため、コーヒーを飲み下す。熱を失った温度がちょうど良く体を冷ましてくれた。
「話は戻るけど、国や組織……この訓練所。なにもかもが信用できないのと同様……谷原も信用できないと思っている。アタシはね」
「とても、いい人だと……お、おもうけどな」
自分のマグカップにスプーンを差し入れて、那夏はぐるぐるとかき回し始めた。半分まで減っていた液体が黒い渦を巻く。
「あの子は少なくとも士官学校を出ている。それも外界の人間よ? それだけで信用に足る人間には思えないわね。だから辞めてもらう。危険因子は居て欲しくない。別にうちの班である必要は無い。もっと良いところがあるはずだし」
「――そういう、もの――かな?」
「ええ、そういうものよ」
妙な所で頑なである那夏。納得いかない気分をスプーンに集約させ、
渦を更に大きくさせていた。
「…………………………」
絵里はコーヒーを飲み干して唇を舐めた。
なにか、なにか無いものか。
谷原真結良が自ら去って行く――そんな起爆剤になるような要因。
人を陥れるのは趣味じゃないが、
班に不純物が混じってきたのなら、取り除かねばならない。
どうせ、去りゆく人間となるのだ。多少汚い手段を使おうとも良いだろう。
「わぁ! 絵里ちゃん、この画面かわいいねぇ!」
那夏が何も知らぬまま、ポンとキーボードを一度叩くと、
今までで一番、食いつきの良い反応を示した。
表示されているのは絵里のノートパソコンに設定されている、デスクトップ画面の写真だった。
「かわいいなぁ。これ、絵里ちゃんのネコ?」
「~~~~~ゥッ!」
絵里は『可愛い』ものを好む。
普段からクールなキャラを作っているわけでは無いが、他人に厳しい自分がこういったものを好きだと他人に知られてしまえば、舐められてしまう気がしていた。
だから――一つの趣味として、ひっそり隠していたつもりだったのに。
自分の根っこの一端を垣間見られた気分に陥った。
よりにもよって、一日に二度も那夏に知られる大失態。
「……? どうしたの絵里ちゃん。か、顔が真っ赤だけど、だいじょうぶ?」
おっとりとしていたが、肝心な所の身体反応が良い那夏は、
素速くパタンと閉じたパソコンに指を挟まれることなく事なきを得たが。
なぜ、一瞬にして絵里の顔が赤くなったのか、心底わからないといった表情で心配する。
顔を背けてカーテンを開き、窓の外を見つめる絵里。
曇天の隙間から月明かりが薄ぼんやりと、顔を覗かせている。
――アタシはそんな優しさを受けながら、ときどき思ってしまうのだ。
この子……本当はわざとやっているのではないか、と。




