<10>
彼らが異常に絡め取られ始めるよりも……少し前。
小岩京子は先輩に言われた通り、三十分ほどの時間を空けて、
警備の中心点である、大型駐車場に向かっていた。
「警備の中心って大型駐車場なんだってさ――リーダーの用事ってなんだろ」
『さあ。追加でおしかりでもあんじゃねえの?』
「えー。怒られるのやだし…………――ところでさ……この回線って変更したままにしてたら、他からの連
絡うけとれないんじゃないの?」
『あ…………やっべ……』
「いやいやいや……やっべ、じゃないっしょ」
無線機は特定の人間と回線を繋ぐ機材であるが、小型が故に多機能性はなく、チャンネルが食い違っていると、音声を送受信できない欠点があった。
「これ、本当に怒られるパターンじゃないの!」
『まっ、そういうのは班長さんのお役目ってことで』
「こういうときだっけ、班長として認めないでよね。アンタ都合良すぎ」
先ほどピアス耳の先輩が『回線をいじったのがバレて大層ドヤされた』と言っていたのが、脳裏を掠めた。
「あー、行きたくない。足が重い。胃が痛い。心折れる。……安藤代わりに行ってよ」
とはいうものの――歩く速度は変わらない。
行かなければ怒られるし、行って怒られるかもしれない……これら可能性に加えて遅くなったことで余計な怒りなど買いたくはなかった。
『持ち場を離れたら、それこそ俺が大目玉食らうかもだから、断る。それにお前、胃が痛くなるようなメンタルでもキャラでもないだろうに』
「な、なんだとぉ!! パンチされないことを良いことに、好き勝手言いおって!」
『…………アハハハ』
「あ、喜美子笑った! ひどすぎ!」
今まで黙っていた喜美子は、笑い声を抑えながら、
『ごめん、京子ちゃん……こういうの聞いてると、ほんと良かったなって思った』
「ん? どゆこと?」
『わたし、入学したときからずっと誰にも声かけることができなくて、班だってどこにも行けなくって、でも安藤君に声をかけてもらったことで、京子ちゃんにも会えたし、私――この班じゃなかったら、きっとこうやって本気で笑うことなんてできなかったんじゃないかなって……、メンバーの一人として、本当に嬉しいなって思ったの』
「おおぅ。唐突な青春…………なんか、湿っぽいな。でも――あんがと」
『………………』
何も言わない安藤……たぶん、照れくさくて鼻でも掻いているのだろう。
「ほんじゃ、新しいメンバー入れて更に楽しくしてみようか」
『…………谷原か?』
「お察しのとーり。優秀だからっていうわけじゃなくて…………すごく人間的に良い子だし。私だけじゃなくて、喜美子とも安藤とも仲良く出来るし。もし入ってくれたら、私たちきっと良いチームになれるよ」
『――――うんっ』
『……だな』
「明日辺り、思い切って聞いてみるよ。あんま押し売りしすぎるのは良くないのだろうけど、それでももっと真結良のこと知りたいって――そう思ってるんだ」
『その前に、この後に来るお咎めをクリアせんとな』
「ぬぅ――、仰るとおりでございます、ってまだ怒られるって決まったわけじゃないし!」
もうすぐ駐車場に到着だ。
角を曲がれば――――というところで、妙な感覚に包まれた。
「………………?」
なんだろう…………腕が――ムズムズする。
自分にある――『固有刻印』
訓練で初めて魔力を通したときにも、似た感覚があったような……。
彼女の中で本能的な何かが、警笛を上げていた。
「…………なんだろ」
それは、長時間正座していたときに起こる痺れのようなもので、
気がついたときには、痺れは元に戻るまで時間の掛かる状態になってしまう。
自分が今感じている『危険』の二文字。これもまた、足の痺れと一緒で、気がついたときには既に取り返しの付かない状態になっているのではないだろうか?
「…………んなわけないか」
きっと、初めての任務でナイーブになっているに違いない。
たかが警備。これしきのことで心が揺れてどうする。
いつか――異界に行って、異形と戦うというのに。この程度で漠然とし危殆など感じてしまってどうする。それこそ班長としての質が問われてしまうではないか。
安藤……喜美子…………二人の顔が浮かぶ。
そして……真結良の顔も。
「……………………」
足を再び進め、その角を曲がる。
開けた空間には。何台もの軍用トラックが並び、
仮設の簡易ライトが地面に向かって照射されていた。
なんだろう――人の気配がない気がした。
足を踏み出し、
いの一番――その光景が目に飛び込んできた。
………………………………。
……………………。
『きゃあああああッ!』
無線機のスピーカーを振るわす悲鳴に、
安藤は全身が震えた。
「――き、京子!? どうしたッ!」
『人か、人が…………し、死んでるよぉおお』
冗談とは思えない彼女の切迫した声に、緊急事態とを直結させた。
「喜美子!」
『うん。聞こえてる!』
京子の居場所…………必死になって記憶を高速で巻き戻してゆく。
冷静に…………オレが、パニックになってどうする。
記憶が弾け、京子の居場所を指し示す言葉を思い出す。
「――大型駐車場だ! すぐに行くぞ!」
『わかった!』
体の中の、内蔵という内蔵が萎縮する。
『どうなってるの、どうしてみんな、……みんなしんでるよぉおお! み、耳が落ちてる…………ピアス――先輩の耳がァァ…………』
事は一刻を争う。
半狂乱になっている京子を落ち着かせる言葉も思い浮かばないほど、
安藤はライフルを握りしめ、必死になって走った。
――――途中。
「安藤君!」
「行くぞ、この先だ!」
喜美子と合流し、残すところ数十メートルというところで、
『え、なに。なにこれ。いや、いやああああ! 助け――――』
ガガガガガガ――ブヅ。
嫌なノイズが耳に入ってくる。
彼女の叫び声は直接聞こえてくるほど、二人は近くに来ていた。
「――――うッ!」
現場に到着した安藤は思わず、口を腕で塞いだ。
京子の言ったとおり、周りには死体が転がっていた。
一人、二人――この場にどれだけの人が居たのかもわからないほど、判別不可能になった人の残骸がばらまかれていた。
「酷い………こ、これって。――――ぅ……ウェ」
嘔吐き出した喜美子は、為す術もなく本能のまま、地面に胃の内容物を吐き出した。
「ごほ、ごっほ、……げほ! な――なんでこんなの……」
自分の住んでいた世界とは別の次元に迷い込んでしまったような倒錯感。
指や腕、腰から下。夥しい血色。
青ざめたまま安藤は、できるだけ死体を見ないようにしながら、
「――き、京子ぉおおおお! 京子! どこだぁぁぁッ!」
死が溢れる血生臭い空間で、返事をするものは誰一人としていない。
きっと、瀕死の人間もいやしない。
どれもコレも、部位が欠損し、到底無事では済まない量の血と臓物が地面にぶちまけられていたのだから。
生きているか、死んでいるか――そのどちらかだと、直感が告げ、
――最悪の展開が……頭の中で何度も見え隠れする。
「京子、聞こえるか、きこえたら返事しろ!」
彼ら三人しか繋いでいない無線の周波数。
きこえるのは喜美子の荒い息づかいと、
恐らく京子の無線機からきこえてくるレッドノイズ。
「安藤君、だめだよ。応援を…………助けをよばないと!」
身につけている無線は、あくまで同じ機種を繋ぐための機械にしか過ぎず、広範囲にわたって送受信できる物ではない。仮に可能であったとしても、彼らに接続できる知識はなかった。
「だめだ。京子が、京子が近くにいるはずなんだ……捜さないと、京子……京子を」
譫言のようにくり返す安藤は、既に冷静な判断が出来ないでいるように見えた。
――――そこへ、
「――…………グボァァァァ」
耳にするのもおぞましく、生々しさのある音。
いつから居たのか、トラックの上に乗っていたソレは、
安藤や喜美子が認識するよりも遥かに早く行動を起こし、
高らかに腕を振り上げ、力任せに薙ぎ払っていた。
「――――ぅゴッ!」
振り払われた一撃は安藤の右腕に直撃し、
体重を感じさせないほど空を飛んで転がり落ちた。
「あ、ぁ。…………――安藤君ッ!」
悲鳴を上げる喜美子。彼女はトラックの上に視線を向けた。
簡易ライトの閃光が、ソレの姿に影を落とす。
目視できないままに、目を細めるとソレはまた、
腕のような長い物体を振り上げ、喜美子に向かって振ろうとする姿勢。
「――ぃ、や」
震えて動けない。何も出来ない。
ソレと彼女の間に割って入ったのは、
「くそぉおおおおおお! よくも仲間を…………しねええええええ!」
応援に駆けつけたであろう軍人。帰還した一人だ。
ライフルを連射し、トラックの上を弾丸が横切る。
流れ弾にあたらぬよう、咄嗟に喜美子は、その場にしゃがんだ。
「――――――ォオオ」
ソレの視線は喜美子から外れ、太い両膝を曲げた。
――メリメリと体重によってトラックが軋む音で、喜美子が思わず顔を上げた途端、
巨躯からは想像が付かないほどの身軽さで一気に跳躍。
トラックの屋根が踏み弾け。圧壊し、散弾のように飛び散った窓ガラスの破片が、喜美子の頬を切り掠めた。
自分から意識が外れたことによって、硬直状態が解け、
恐怖に駆られながらも、体は無意識に、大切な人間を守るために、動き出していた。
――走り寄ってみれば。
「ぁ、あああ………」
安藤はまったく動かない。右腕は不自然なほど折れ曲がっていた。
首に指を当て、脈を確認しようとしたとき、
「ぐ、………ぅ」
「!」
咳き込みながらも、確かな呼吸。
――よかった、生きている。
彼が生きていることで、喜美子に更なる希望が生まれた。
襟首を掴み、必死になって彼を引きずる。
何故か、彼の重みを感じなかった。それだけ彼女は焦眉しており、
筋力的に動かせるか動かせないかなど、二の次であった。
――――とにかく、彼を助けたい。
その一心は、本来ならば動かすことのできない彼の体重を移動させ、
トラックの下まで彼を引きずり、身を隠す事ができた。
「ぎ、ああああああ! ひいいいいいいィィィィィッ!」
悲鳴――さっきの人だ。
しばらく悲鳴は続いていた。
まだ生きている……助けに行かなければいけないはずなのに、
――からだがうごかない。うごかないのだ。
悲鳴が弱くなってくると、
次に聞こえてきたのは――何かを砕く音。
湿った木の枝をへし折るような音、粘度のある水が滴る音。二つが混ざり合い……。
――何かではない。解っていた。それは人が壊れる音だ。
「ひ、…………………ぃ」
両目から涙がこぼれる、また吐きそうになる。
「うぁ…………、き、きょう…………こっ」
意識朧な安藤は、彼女の名前を呼び続ける。
そして、気配がする。
ひとしきり、あの人を食べ――また私たちを探している。今度は、わたしたちの番だ。
コンクリートを踏みつける。巨体に見合う重さの足音。
探している、自身の唸り声を押し殺して、耳をそばだてている。
歩いては止まり、歩いては止まり。
「――、き、きょ」
「お願い、安藤くん…………お願い、おねがいだから…………聞かれちゃうから、アレに、お願い……静かに…………」
ガタガタと震える喜美子に、ソレはどんどん近づいてくる。
鼻が曲がるような臭いが体から放たれ、空気を侵す。
むせぶことも、呼吸することも許されない状況。
少しでも気配を表すことがあれば、たちまち見つかってしまう。
「グ、ギィィィ――――グググググ」
奇怪な……声にもならない唸り。
――お願い、お願いします。神様。助けて……助けて下さい。助けて下さい、助けて、たすけてたすけたたすけて。安藤君だけでも、たすけてください。
痛みに呻きそうになる安藤を強く抱き、目をきつく結んだ。
恐怖から逃避するために必死になって、一点の言葉のみを唱え続ける。
数時間そこに居た気がした――でも、実際には数秒。
諦めが付いたのか、ソレの足音は徐々に遠ざかってゆく。
たっぷり数分、喜美子は安藤の体温を感じながら動けないでいた。
我に返った彼女は全神経を張り巡らせたが、
周りに何か居る気配はなかった。
生きているのは――自分たちだけだと、確信した。
喜美子はトラックの下から這い出て、安藤を担ぐ。
とにかく、この場から逃げなければ……。
今更になって、ガラスによって切り裂かれた右頬の傷が、ジクジク痛み出す。
鮮血が流れ落ち、首筋を伝い、右胸を染めていた。
感覚があるということは、即ち生きている証明であり――痛みが彼女を更に〝生〟へと執着させ、奮い立たせた。
――――とにかく遠くへ、アレが向かった方向とは逆へ……。
しゃにむに喜美子は歩き続け、
ようやく自分が助かった事を実感できたのは、
――随分とあとになってからであった。




