<21>
走る……走る。どれだけ走り続けても、
背中にぴったり張り付いている『死』の気配は剥がれ落ちない。
瓦礫が連なり、折り重なった第三区。
どうしようもなく残酷で、腐敗した世界に落とされた。
驚くくらい簡単に人が死ぬ。歩いていると襲われて死ぬ。隠れていても見つけられて死ぬ。怪物に戦いを挑んでも死ぬ。必死に逃げ回ろうとも死ぬ。
異形が現れた最初の頃は。出遭えば『死』が確定した。
どんなに抵抗しようと、無抵抗同然に殺される。
嬲られないだけ、まだ幸せであると、誰かが言っていたのを聞いたことがある。
パンドラクライシス当初、奇妙な障壁によって出ることができず。
オレらは隔離状態になった。
誰も助けに来ない。だれも助けてはくれない。
――オレらは、人類に見限られたのだと、悟った。
内部では同じ人間に裏切られ、騙され、見捨てられ。
食べ物を得るためなら、人殺しを厭わない連中に殺されかけたりもした。
オレとエリィがそんな世界で生きて、ようやく辿り着いた『拠り所』が、あの自警団だった。
家族……久方ぶりに人の温かさを知った。優しさが気持ち悪かった。不自然に思えた。非現実的だった。数日間は寝首を搔かれやしないかと、眠ることができなかった。オレは心から人を嫌いになっていたと知った。
そんな腐った世界。人の世とは大きく隔絶された、人が住むべきではない塵境。
憎悪と嫌悪しか抱くことのできないような世界で。
――あのひとは、わらった。
彼女は笑えないような世界であるからこそ、笑うのだと語った。
笑えないのなら、笑えるようにすれば良いだけのことだと、簡単に言った。
怖いなら、怖くない場所を作ろう。
居場所がないのなら、守ってあげられる故郷を作ろう。
何もないのなら、作り出せばいい。
なにもかもを失ったのなら、また集めよう。
生きているのなら、死んでいないのなら、何だってできるはずだから、と。
その背中は小さく。決して強いわけではない。
誰よりも脆く。繊細で。
だが常に、先頭で仲間を率いていた。
異形の者たちを前に、隠れず。逃げず。立ち向かい続けた。
仲間の人望を集め、彼女は人を引きつける天与の才能があった。
どんな状況でも挫けず。弱音を言わなかった。
彼女は掛け替えのない仲間の一人であり、自警団の旗であり、変な所はとんでもない頑固者であり、人に騙されても笑っていられるお人好しであり、みんなが迷ってしまわぬよう鳴り続ける、霧鐘でもあった。
――十河は、洞窟の通路を走った。
去って行く背中に、過去の彼女の姿を重ねた。
時間が、逆再生される。
目の前の光景が、狂う。
離れたら、戻ってこない。
失った人は取り戻せないと判っていても、
追いかけないわけにはいかない。
十河は次の分岐点まで辿り着き、ようやくその背中を見つけた。
「――――芦栂さん!」
振り返った彼女の表情は、驚きの色に染まっていた。
「うそ。なんで……どうして来たの!」
出来の悪い生徒をしかりつけるような口調で古都子は十河に言った。
「一人で向かったのが心配で……来たんです」
もう異形が来ているのに、喉の奥で――彼は自嘲ぎみに笑った。
彼女に対して述べた理由は嘘である。心配して来たのは、自分自身のためだ。
確認をしたかった。もしかしたら彼女は生きているかもしれないと『芦栂さん』と叫んでおきながら、心は別の人を叫んでいた。
重なる幻影の中に、可能性が皆無であろうとも信じたかった自分がいた。錯乱か奇跡か。どう考えても勝ち目のない手札。オレは大丈夫だと平静を装う。ブラフでどうにかできる勝負ではなかった。
根拠のない可能性。いや、ココまで来れば病気だな。生きているはずは無いのに……。
奈落の上で繋がっている自分は、まだ宙づりになり続けている。
記憶が逆再生され、視界が閃光するたびに、
オレの理性が小さな音を立てて、千切れてゆく。
絶望する過去に引き込まれそうになっていた。
闇の中で、無数の手が手招きをしている。
それが――狂気であると、今更にして気がついた。
知っている人たち、仲間、家族。それらを象って姿を現した『狂気』そのものだった。
心の底にポッカリと口を開けて、オレとは別の意識が渦巻いている。
来い……来いと、長らくオレの一部となっていたそれは、代替の利かないパーツであり、同時に嫌悪するべき異物でもある。
折り合いを付けているのだと、思い込んでいた。その場しのぎに誤魔化し続けていた。
洞窟に来て、狂気は息を吹き返し、オレに接触してきたのだ。
……ほら、どうした。ここに来た理由は、もう一つあるだろ?
……心臓が、さっきから騒ぎ立ててているんだろ?
自分の声で、話しかけてくる。
幻聴にしては、異様に生々しい。
気配のする方に向かわなくてはいけない衝動が、十河を急き立てる。
「――言われなくても、判ってる」
「え?」
体が引っ張られる感覚。
古都子を無視する形で、十河は彼女の横をすり抜けて、二股の通路へ向かう。
「向こうから、何かが来ようとしているんだ。芦栂さん……ココを頼みます」
「だめ! 一人でなんて危険よっ!」
二本に別れた分岐の内、片方に向かって十河は走り出す。
敵を迎え撃つためではなく、自らの中にあるモノを振り払おうとするために。
この場で敵を向かえるはずだったのに、古都子は退路の入り口に自らが持っていた結釘を天井と地面に三本差し込む。
地面を削って時限式の魔法陣を短時間で作り出す。
何者かが通ろうとすれば、結界は発動し、この場で敵を抑えてくれる。十河くんから受け取っている三本がまだあるから、何かあっても、その場での展開と対応は可能だ。
「まって……待って! 十河くんっ!」
踵を返して、十河が向かっていた方向へと、彼を追いかけた。