<15>
異形の群れはガリガリと、結釘が作った目に見えぬ結界を引っ掻き続ける。
薄い結界一枚の内側で、結界を維持し続ける生徒の顔は恐怖が張り付き。全身から吹き出す嫌な汗がとまらなかった。
体の中の魔力が、手を伝って魔法陣の中へと供給される。
徐々に減ってゆく魔力。コレが枯渇したら結界がほどける。作戦が始まってまだ間もないというのに、何時間も経過しているように感じていた。
天井では何匹もの異形が進もうとするも、祈理が展開させている結釘に阻まれて動きが取れないでいた。
その時――いきなり派手な音を立てて、一匹の異形が目の前で突っ込んだ。
天井に気を取られていて、何が起こったのか判らなかった男子生徒は、身を堅くする。
異形は二足歩行で近づき、結界に爪を立て、ゆっくり、ゆっくり引っ掻く。
視線は常に、男子生徒を捕らえ視線を逸らさない。
その一匹だけ、何かが違っているのを、男子生徒は直感した。
他の連中には野性的な、思考のない動きをしているのに対し、前の一匹だけ……〝まるで人間のような行動〟を取っていたのだ。わざと大仰に腕を振るって結界を叩き、恐怖心を煽り立て、心を激しく揺さぶろうともしていた。
異形は何度も何度も、同じ場所を叩き続ける。そのうち自らの爪が根元から折れて、赤い血が流れ出る。それでも痛みを感じていないのか、異形は狂ったように一点突破を狙おうとする。
血まみれの手が、ようやく実を結び、感触を掴む。
――――――ピシリ。
魔力の循環が滞り始めた事による、崩壊の前兆。
もし、この結界が壊れたら、真っ先に襲われるのは自分だ。
振り切れそうになる恐怖を敏感にかぎ取った異形は、攻撃を止め。
爪が折れた血まみれの指を、まっすぐ男子生徒に向けた。
『お前を狙っているぞ。……そう。お前だ』
声に出さずとも、男子生徒にはそう聞こえた。
悲鳴が、噛み合わさった歯の隙間から漏れた瞬間、異形は狂ったように結界を叩き付ける。
拳が割れようとも、腕が不自然な方向に折れ曲がろうとも、体が傷つきながらも陥落させようとする攻撃を止めようとはしない。
「だめだあああぁあああぁああ。このままじゃ……このままじゃ保たないって! 死にたくない! しにたくないよおおおおお!」
光の薄膜には、無数のヒビが走り、結界に異形の口が叩き付けられ、目の前で何度も口をガチガチ鳴らしながら開閉する。異形による執拗な攻撃――まるで絶え間なく流れ落ちる水滴の粒が、長い年月をかけて鉄板を穿つように。防御の力を確実に奪っていた。
各場所から悲鳴があがる。懸命に結界を保とうとして、自分達の役割でいっぱいである。
祈理は全員を見て、判断しながらできうる限り、的確な指示を与えようと全力を注ぐ。
「左から三本目! 結界の援護に! 中央、結界が薄いッ! 増援が向かうまで耐えてください!」
一枚一枚がしっかり展開されているように見えるが、後方から見たら結界の濃さにばらつきがある。供給させる魔力が弱いのだ。
魔術に長けた魔導科といっても、スポーツ選手と同じで、コントロール能力には差がある。
一定の魔力を長時間保ち続けられる者や、瞬間的な力を発揮できる生徒が居る。
――――ダメだ。結界が、割れる。もう――保たない!
内臓が締め付けられる。息を吸い込んだ祈理。
この先どうする。乱戦になる。そうなればもう維持はできない。
どうする……どうすれば!
全面にヒビが走っている男子生徒の結界まで、援護が追いつかない。
彼は歯が噛み合わず、頭の中でカチカチと音が響いていた。
まるで、自分の命が残り少ない宣告のカウントダウンを受けているようだった。
両腕が使えなくなった異形が、頭を叩き付けくる。
どんなに耐えようとも、持ちこたえられない限界。数秒と持たない。
「ギィ、ヒイイ、ィイィ……」
口から血が混じった涎を吐き出しながら、黄ばんだ歯と赤黒い歯肉を見せ、笑い声と錯覚してしまうほどの奇声を放つ。
男子生徒の選択は二つしか無い。
――――食われるか。
――――逃げるか。
彼は生きたいと思う一心で、ついに持ち場を放棄する。
「う、――うわぁああああああああああ!」
もう耐えられないと、持ち場を離れた瞬間。
魔力が送られていた結釘への魔力供給が途絶え……展開されていた薄壁が消えた。
開け放たれた場所から、異形が次々になだれこむ。
執拗に攻め続けていた異形は、糸が切れた人形のように地面に倒れ込んで動かなくなった。それらを大勢の異形が躊躇なく踏みつけてゆく。
背を向けて逃げ出した男子生徒が真っ先に捕まり、肩に鋭い歯列が食い込んだ。次いで二匹、三匹と異形が彼の体に群がり、血肉を貪られる。勝利した異形の叫び声が木霊し、手足を鋭い爪で引き裂かれた生徒は痛みと恐怖に絶叫する。悲鳴もつかの間、すぐさま喉元を噛みつかれ、悲鳴は止まった。まだ男子生徒に生きているような動作がみらたものの、それぞれの部位を咥えた異形が逃げ去り、別の異形が彼の体を引きずり、地面に血の道を書き殴りながら闇の中へ消えていった。
各自、持ち場を守っていた周囲から悲鳴が上がる。防壁の一部がなくなったことによって、張り詰めていた緊張が、崩壊し……人々の感情がぐちゃぐちゃに入り乱れる。
諦めず、第三陣で檄を飛ばす祈理。額に汗を浮かばせ。歯の奥が噛み合わないほど震えていても、彼女は自らの感情を押し殺し、機械的に声を放った。
「十一時方向! 異形侵入! 第二陣近接戦闘! 結界を維持している生徒を守りながら異形を撃破してッ! そこ! 持ち場を離れようとしないでッ! 陣形が崩れたら全滅しますッ! 全員死にたくなかったら私の指示に従いなさいッ!」
一丸となっていた仲間の気持ちが、根元から揺らいでいくのを肌で感じた。
――――だめだ。恐怖がみんなを支配してしまっている。指示が届いていない。どうすれば、どうすればいいの。東堂くん!
一番近くで結界を超えた異形を確認した弘磨は、指示を受けて走り出す。
異形の数を目の当たりにして向かう脚が鈍い二年生たちを追い越し、単独で突き進む。
両手には何も持たず、弘磨は走りながらグローブを取り外し――合掌。
合わさった手のひらの隙間から、銅色の光が放たれた。
解かれた両手。手のひらから指先まで刻印が双方に共鳴する。
ゼロ距離まで迫った弘磨は、巨体とは思えない身のこなしで、敵の攻撃をかいくぐり、異形の頭部に触れた。
「――溶け落ちろぉおお!」
輝きが閃光へと変わり、弘磨の手が撫でるように振り下ろされると、触れられた異形の肌が瞬く間にずり落ちた。変色した肉とそこから立ち上る白煙。変色は野焼きように広がる。全身の細胞が崩壊してゆく痛みに体が耐えきれず、異形は泡を吹いて倒れ、動かなくなった。
的環が言っていたとおり、緑木弘磨の能力は『溶かす』能力である。ただ……その強さに対しては大きな違いがあった。触れた者の皮膚を容赦なく侵蝕。肉を融解させ、骨までをも液状化し、強力な毒を発生させる刻印だった。
「先輩方は第一陣の援護を! 俺たちは敵の方を引き受ける。明峰、浜坂、来い!」
「うん。前の方はまかせて!」
鞘に収めた刀を構えながら走り出した檻也。眼球の色彩が強く光る。
「勝手に引き受けちゃって。でもやるっきゃないよねー」
的環もまた上着を脱いで、タンクトップ一枚になる。
自分の両肩を抱いて、刻印に触れると。刻印が目に見えて脈打つ。両肩の中……皮膚の下に心臓があるかのようにドクドクと、彼女の半身を覆うミミズ腫れの皮膚が更に浮き上がり。
「ぐ、……うぅ」
皮膚の下の血管は太く、根を伸ばし腕へと向かう。
痛みに耐えていた的環――変化はすぐに現れた。
腕が肥大化し、裂けた皮膚の中から、新しい腕が出現する。
それは、おおよそ人間が持つものとは程遠い真緑の皮膚。六本指から生えている刃物同然の鋭利な紅い双爪。肘からは爪と同じ色の、角に似た突起が生え、腕の長さは地面に触れそうなほどであった。
「――――ふぅ。変身かんりょー」
ニタリと笑う的環。首を伝い、頬までも血管が浮き上がっている。
「そんっじゃー。いくとしますかーッ!」
跳躍。高く……高く。天井に届きそうなほどのジャンプ。
「はい、いっぴきめー」
降り立つと同時。狙い定めた巨大な掌が、異形を地面に叩き付けて頭を潰す。次いで真横にいた異形の頭部を掴み、強靭な握力によって卵を割る軽さで頭蓋を簡単に破壊した。
「はいはい! 邪魔邪魔ァ! まとめて、へし折ってやっからぁあ!」
振られる腕から繰り出されるは、視覚化された暴風。
触れれば相手の肉体に致命的なダメージを与える。
骨の弾ける音。内臓が潰れる音。腱が筋肉が破断する音。
爪によって四肢を引き裂かれ、血肉は中空に撒布される。
的環の豪腕は留まらず、目の前の異形がいなくなるまで驀進を続ける。
「すごいな。本当に彼らは一年生か?」
真結良は三人の姿に圧倒されっぱなしであった。
明峰の腕は刻印の中でも珍しい種類で、人体に変化を起こすことのできるタイプだ。
異形を前にして戦う光景。以前ディセンバーズチルドレンの問題児たちが行っていた戦い。
初めて見た時の興奮が蘇ってきそうだった。
「くだらねえ。ザコ如きに慌てふためきやがって」
「私たちも行くぞ! 来い草部!」
「どさくさに紛れて、偉そうに命令してんじゃねえよ」
走り出す真結良に対し、蘇芳は剣を肩に乗せたまま歩き出す。