<Epilogue>
訓練所始まって以来の混乱が、疫病のように伝染し、生徒たちを介して拡散する。
事の初めが球体であったことも知らない生徒も、次々にドームへと集まった。
一部始終を外から見ていた生徒は、人間が次々に吸い込まれていった光景を目の当たりにし、地面に座り込み、呆然としたまま巨大化したドームを見つめ続ける。
異常を聞きつけた岩見大悟も、事件の現場に急いで駆けつけ――その現状を確認するなり、あまりにも非現実的な光景に思考を止めざるを得なかった。
「これは…………い、いったい…………」
直径百メートルはあろうかというほどの巨大なドーム。
訓練所の一番広い広場を覆い尽くすほどの大きさに、岩見の背筋は冷たくなった。
考えられる可能性を総動員して、思考を巡らし……
「まさか……〝異界化〟!?」
――似たような光景を見たことがあった。
パンドラクライシス。初めに異形を抑え込んだ『結界』
……アレが一番最初に表れた時も、似たような状況であった。外からは出入りできるが、中に囲われた人間は誰一人として出ることができない、不思議な壁。
とにかく、今は答えよりも、状況をどうにかして鎮静化しなければなるまい。彼は近くに居た職員を呼び、指示を出した。
「まずは状況の確認。目の前で一部始終見ていた者から話を聞いてください。関係の無い生徒たちを安全な場所へ移すこと。区画を隔離できたら、本部へ通達。結界を中和できる人間……十三課の魔術班か、上級魔導師の手配を」
一人一人の混乱がまざり合い、更なる混沌となる前に。誰かが率先して指示を出していかなければならない。岩見はその一心で行動を始めた。
黒服に呼ばれ、亜生が現場に到着した時には、現場が広場なのかも解らないほど、巨大なドームが展開されていた。
「…………何があったのですか?」
混乱とは無縁。動揺はすれども、取り乱しはしない。
長年の経験で培われてきた彼の強い精神は、これしきの事態で揺さぶられはしなかった。
突然現れた球体。吸い込まれていた人々。その中に広場を調べに来た同僚の仲間も混じっていた。球体はすぐに膨張し、ドームに転じた。
大まかな説明を受けて。亜生はその間……口を挟むことなく。黒服の話を真剣に聞いていた。
「なるほど……大体はわかった。我々が本部に報告することもない。すでに訓練所側が対応しているはずだ。――無能でなければ、の話だけれども……」
「あ、亜生さん! 今はそんな冗談を言っている場合では!」
彼の嫌味な発言も、ココまで来れば軽口では済まされない。吸い込まれていった仲間の事を少しでも考えろと声を荒げた。
「五月蠅い。三下の分際で私に意見を言うな……。貴方は黙って従っていれば良いんだよ。我々は独自に仕事を始める。カウンターを持っている者は、周囲を調べろ。何かあればすぐに知らせること。…………いいですね?」
仲間をどうにかすることよりも――捜査を続行する選択を取った亜生に対し、心底嫌そうな顔のまま黙って頷いた黒服は、その場を去って行った。
「君たちもぼさっとしていないで。さっさと行動を開始しろ! カウンターを使わずとも、話を聞くなり、どこか異常が無いか調べるなり、いくらでも仕事はあるはずだ。ほら動いた動いたッ!」
手を叩いて、初めから付いて来ていた黒服にも自分の苛立ちをぶつける。
一人残った亜生は、黙ってドームを見つめた。
「まさか『ネフェルメアの呼び声』……まだ、アレの意志が、生きているのか?」
誰にも聞かれないように、けっして一言も聞かれてはなるまいと、
それでも口に出さずには居られず、亜生は言葉にした。
口を押さえて、陰湿な笑みを浮かべつつ、目の前に広がる異常事態を楽しむかのように、その目は細く、異質なる世界を直視し続ける。
形成されたドームの目の前に、芦栂古都子の居ない神乃班たち。
「くっそ、なんだよこれ! どうして訓練所なんかでこんな事が起こってんだよ!」
仙崎は剣を引き抜き、正面にあるドームに向かって振り上げた。
「やめろ仙崎! ヘタに触るんじゃねぇッ!」
普段の苑樹からは想像も付かないほど、焦燥した叫びに、仙崎の体が震えた。
「どういった類いの結界か、解らない。…………馬鹿な行動を、取るな」
「……………………」
仙崎は返事もできず、ギリッと音が鳴るほど歯を食いしばった。
目の前で吸い込まれて行く古都子の手を取れなかった苑樹は、何も握れなかった自分の手のひらから、目をいからしてドームを見上げる。
「――――ふざけるな。こんな事があってたまるか」
苑樹は自分を落ち着かせ、現実をしっかりと受け入れる。
ココが十七区だろうが、安全な場所と言われてようが関係ない。
確実に起こっている……目の前に小さな『異界』が広がっている現実。今すぐにでも対処しなくてはならない事態だけに頭を働かさなくてはならない。
現場に居た岩見を見つけると。苑樹は早足で近づく。その横には亜生も並んでいた。
「岩見さん……今すぐ消えた生徒のリストアップをお願いします」
「すでに職員に動かせているよ。もう少し時間が欲しい」
端的に伝え、岩見は携帯端末で指示を出している。
「それとアンタ。……亜生さん」
更に亜生に向かって、苑樹は声をかけた。
「あぁ…………士征」
「アンタも消えた黒服のリストを作ってくれ。アンタの仲間が異界に吸い込まれているなら、何人消えたのか知りたい」
「…………わかりました。すぐに手配させましょう」
まだ自失している職員や生徒たち。行動を起こす気配はない。
「テメエら! ぼさっとしてるんじゃねえ! 安全な人間はさっさと下がれ! 岩見さんから指示が出たばっかだろうが。職員の連中はさっさと餓鬼どもを下がらせて人払いをしろ! 安全エリアの確保を急げ! 今すぐこの異界に穴開けられる魔術班を集めろ!」
苑樹の怒号で、ようやく周りが慌ただしく回り始める。
――中に引き込まれた生徒に向かって泣き叫ぶ女学生。
――通信が届かず、混乱に毒されているのか、声を荒げて苛立つ職員。
――まだ現実との折り合いが付かないのか、呆然と立ち尽くす生徒たち。
――まるで他人事のように、面白半分に携帯端末で撮影する者までいた。
ぐるりと見回した苑樹は、力の抜けた足取りで、
近くに置いてある機材の箱に座り、口元を隠す。
「異界…………もし中に『異形の者たち』がいたとしたら。…………一分で死ぬ数……何人。…………何人が、生き残れる」
頭の中で『最悪』の結果だけが何度もループして再生される。
こんな有り様で、楽観などできるはずがない。
――ただ、他の人間とは違って、苑樹は最悪を想像し、決して絶望しない心があった。
最低最悪の状況下。もし仮に生き残れている人間がいたら、どうやって助けるのか。
あるいは、全滅していたとして、その原因を作った敵を、いかにして見つけ出すか。
立ち止まりはしない。タダでは済まさない。
どの道――犯人を見つけたら、間違いなく殺してやる。
一言も発さない苑樹の顔は、いつもと変わらぬ表情。
それでも、煮えたぎるマグマのような怒りと熱が、彼の内で渦巻いていた。