<23>
飲み物を買いに行くと言ったきり、戻ってこない間宮十河。
「おそいな」
「本当に短気な女だな。まだ全然経ってねぇし……」
「………………ぅ、ぬ」
初めは蘇芳の悪口に耐性がなかった真結良であったが、なんとか言い返さずに飲み込めるようになってきた。
――そうだ。私の方が大人にならなければな。コイツに合わせてはだめなのだ。短気は損気。
約束の集合時間まであとすこし……もしかしたら間宮十河を見つけるよりも、浜坂檻也を見つけた方が早いのではないだろうか。
「みッけたーっ! マユマユぅぅ!」
そんな考えをしていたら。素晴らしいタイミングで、手を振って現れた、褐色の少女。
「えっと…………あ、あれだ。明峰。明峰的環!?」
「ひっどー。完全に忘れてたっしょー。ひどー」
酷いと言いつつも、面白おかしそうに歩いてくる。その後ろには浜坂檻也。緑木弘磨が続く。
ようやく合流、といったところで…………。
――――異常は、なんの前触れもなく。突として。
――――正常なるこの場へ。這入り込んできた。
真結良が的環たちに向いていた方向とは真逆。すぐ背後。
…………何かが爆発した。空気が一気に膨張し、周囲を圧迫する風となる。
爆発した音を例えるならば、試験管に溜め込んだ水素に火をつけた時に鳴る音。――あれを何十倍。何百倍にも重ねたような音だった。
何が起こったのかも判別できず、真結良は空気に背中を押されよろめき、ようやく後ろを振り返った。最初に見たのは、同じく後ろを振り返っていた草部蘇芳。
そして、その先にあったもの。
――――光の……球体。
空中二メートルほどに浮かんでいる。ボーリング球ほどしかない大きさ。
誰もが呆気にとられていた。日常である訓練所へ、捻じ込んできた非日常。
誰も反応する事ができず。次なる一手を放ったのも――球体の方であった。
…………始まったのは、急激な吸引。空気によって押された時とは段違いの力で、周囲の物質を吸い込む。
「な…………に――」
あまりの強さに抵抗できない。地面の土埃が生き物のように舞い上がり、巨大な砂嵐と化す。
視界はゼロに近く、目も開けていられず。悲鳴も声も出せない。真結良は引かれる力によって、なすがままとなる。
球体のある中心部へと引き寄せられ。重さが消え去り、重力から解き放たれた両足が、地面から離脱する。彼女の横には、自分と同じ驚きの表情を固着させた草部蘇芳がいた。彼の体も浮き上がり、二人は暴風に巻き上げられ――息もできない空気圧の中心へと、体が飲まれていった。
どこからか、笑い声が聞こえた気がした。
ソレが錯覚であるのか、誰かが放った肉声であるのか――浜坂檻也には判別が付かなかった。
暴れ回る空気。目の前で吸い込まれてしまった谷原真結良。
球体の周辺の空間が歪んでいた。空の太陽は円形を維持できず、ぐしゃぐしゃに形を変えている。地面を照らしていた日の光さえも、吸引する力によって入り乱れ、不安定な屈折をくり返す。
「――なんだ、なんなんだ! コレは!?」
緑木弘磨は、真結良の反応よりも早く。そして彼女よりも遠くにいたことが幸いした。
初めは吸引の力によって、小規模の竜巻が現れ、巻き上げられた土埃によって、視界を奪われたが、細かい粒子を吸い尽くすと、鮮明になって見えてきたのは、光の球体が膨張していて、ブラックホールのような黒色と、怪しい紫色が混じり合う〝空間の孔〟だった。
もはや球体は物質のようには見えず。光すら飲み込んでいた。
地面に張り付いた弘磨は、引きずり込まれぬよう煉瓦の微かな継ぎ目に爪を食い込ませる。
すぐ前に居たはずの的環は、球体の力を諸に受けて体が浮かんでいた。
「――明峰ォォォォオオオッ!」
振り向き叫ぶ弘磨。的環は足をばたつかせるも、空中に浮いた状態では無力同然だ。叫び声を上げず、歯を強く噛んで目を見開き、力及ばぬ抵抗を続ける。
この手では、もう届かない距離に彼女はいて、弘磨にはどうすることもできない。
「――――明峰さんッ!」
自分の身の安全を顧みず。地面を蹴り上げた檻也は空を飛び、真っ向から球体に突っ込む。同じく飲まれて行く生徒たちを追い越し、的環に手を伸ばすも。檻也の手は届かない。
――――――数秒とかからず、二人は〝孔〟の中へ消えていった。
「明峰ぉ! 浜坂ぁ!」
腹の底から放つ弘磨の大声も、混乱と悲鳴と風切る音によって掻き消される。
「弘磨ッ! …………早く来いッ!」
顔を上に上げれば、三十メートルほど先で、引力の影響を受けていなかった縁、虎姫、羽衣は弘磨を引き戻そうとしていた。
こっちは今にも足が浮きそうなのに、向こうは地に足着けている。奇妙な光景だった。
弘磨はもう一度、自分らを取り込もうとしているものを見る。
「………………」
――〝孔〟はどこかへ繋がっているのか。あるいは触れた一切合切を分解してしまうのか。
頭の中で、弘磨はめまぐるしく思考を回転させ、残されたのは二つの選択。
「………………神貫!」
縁と視線が合う。
一か八か。……もし、生きてくれているなら、俺も無事でいれるはず。
彼の選択は、的環と檻也の後を追うのか否かであった。
吸い込まれた瞬間の二人を思い出す。体は沈むように消えていた。体が破壊されたようなものではなかったはず。
この判断が……間違っているのかどうかなど、やってみなければわからない。
「後を、たのむ!」
弘磨は両手を手放し、孔へと向かった。
後ろの方で縁があらん限りの声で叫ぶが、全身が暴風に晒された弘磨の耳には届かなかった。
彼らよりも離れた場所。
北川あかりが空中に投げ出されるの見て、佐久間晴道が飛び出す。
「あかりッ!」
「た、助けて。ハル――」
晴道が近くの木に掴まり、あかりへと手を伸ばすも、指先同士がふれあっただけで、捉えることは出来なかった。
焦り……伸ばした手から、どんどん離れてゆく。
恐怖に染まった瞳を、見ていることしか出来ない。
「うぉおおおおおお! とどけええええ!」
自らの跳躍を、進むスピードと変えて、彼女を空中で抱きしめた英二。
ただあかりを捕まえる一心で取った行動。その先など考えているはずもなく……。
二人は空間の孔に取り込まれようとしていた。
「――――くっそおおお!」
遅れたタイミングで掴まっていた木から手を離した晴道。そこに恐怖などなかった。目の前で二人を失い、自分だけが残される方が、晴道にとっては耐え難いことであったから……。
「どうなってるんだ…………引き、こまれる!?」
四つん這いになり、必死で耐える十河の後方。
すれ違ったばかりの女が悲鳴を上げ、体が引きずられていた。
恐怖に染まった表情。自分と一瞬だけ目が合う。
「アシツガアアアァ!」
孔からずっと離れていた階段のところで男が叫び、助けに向かうため、走り出そうとするよりも早く。
「………………チッ!」
一番近くに居た十河は素速く行動し、女に向かって駆けだしていた。
宙に浮いた女の体。彼女は二本の足が孔の方へと引っ張られ、両腕は偶然近くに植えられていた細木の幹に腕を回して留まる。
女に近づけば近づくほど、吸引してくる重力が跳ね上がるのを体で感じながら……。
「間に合え…………ッ!」
十河は固有刻印を発動させた。自分の中に溜め込まれた魔力で作り上げたナイフを、地面に突き立てながら、吸い込まれようとする速度を殺し、女の掴まっている木に辿り着く。
「も、もう……だめ」
「掴まれッ!」
手を伸ばした十河。間一髪で木からほどけた、女の手首をがっちり掴む。
浮いた体を片手で、なんとか維持しようとする。
「芦栂。いま行く! 耐えろ!」
「やめろ隊長ッ! 今のを見てなかったのか! 数メートルでも近づけば、まともに立ってられなくなってしまうぞッ!」
離れた場所から二人の男が言い争う声が聞こえてくるが、十河の片腕も関節が引き抜けそうなほど、秒を追うごとに引っ張られる力が強くなってゆく。
「くっそ、保たない……」
女は孔の方向……足下を見て、
「だめ。貴方まで引き込まれる。――手を離して!」
「なにを……いってんだ。…………そんなの、断るッ」
女を繋ぎ止めている間にも、空間へと生徒たちが飲み込まれてゆく。
悲鳴に次ぐ悲鳴。中心部に吸い込まれると、声が断ち切れた。
横殴りの重力により、地面に深く根を張っている細木でさえも、弓なりに曲がり、幹全体が軋みを上げる。
アレは――〝死〟だ。十河の本能が、頭の中で警報を乱打していた。
『このままだと二人とも死ぬぞ! 今すぐその手を離せ!』
本能が思考の壁を乗り越えて、風の斬る音よりも大きな声で、十河に叫び続ける。
それでも――彼はその手を離そうとはしなかった。
自分の死よりも、その手に握られている〝命〟のほうが大切であると。
決して生死は等価ではない。死ぬのは一度きりだが、死を与えてしまった事を悔やみ続けるのは、いつだって生き残った人間。……命ある者なのだ。
――――だから離すな。またお前は……あの時と同じ轍を踏むのか?
自分の過去が……後悔をし続けてきた過去が。手放してしまった命への後悔が。筋力の限界を超えても掴み続けけろと。本能をねじ伏せてまで、自分が危険だと知ってもなお……見ず知らずのこの女を助けろと。……いつかの無念が心の奥で再燃する。
しかし――気持ちと現実はいつだって重ね合わさり、同等のもとして伴うわけではない。
どんなに歯を食いしばって強い吸引に抗おうとしても、十河の握力は無情にも限界を向かえ。
「うわああああああああぁあああ!」
重力に反し、木から引き剥がされ、吸われる力によって支配される。
孔に引き込まれた十河が最後に見たのは、
日光よりも明るく照らす、空間の孔が発する不気味な瞬きであった。
吸い込みの影響を受けていなかった人間達は、混乱の極みに達っする。
あらかた人間や物を吸い尽くすと、スイッチを切るようにして止まった。難を逃れた人も物も関係なく、余力で地面を転がる。
ようやく異常が止んだとと、安心したのもつかの間。
――――あらゆるものを飲み込んだ球体に、更なる変化が現れた。
――――伸縮して再び球体となり、急激な膨張を始めたのだ。
「くそったれ、規模が広がってる!? 今すぐ全員離れろぉぉおおおッ! 下がれ! 下がれぇえええええッ!」
苑樹の背中を力任せに押しながら加藤が絶叫した。吸引の難を逃れた周りの人間たちは、言葉に従い、背を向けてドームの広がりから逃れた。
速度は遅いが、それでもどこまで広がるのか見当も付かず、人々はできるだけ遠くへと逃げた。
周りの木々、階段……ベンチ。広場にあった様々なものを光は飲み込み、拡張を続け。
やがて停止しすると、広場のほとんどを覆う、
――――不透明な、半円のドームとして形を成していた。