<18>
――明日の合同練習を控えていた金平一穂は、必要以上に行った自主トレーニングを終え、へとへとになった体をまっすぐ寮に向かって歩いていた。
雲に覆われ星明かりのない低い空の下、鉛が埋まっているかのような足を動かし続ける。
訓練所で行われた身体検査は良好で、とくに何ら影響は及ぼされていなかったとのこと。
体には影響はない……一穂は誰にも話さなかったが。問題は心の方にあった。
本来であったら、合同練習の為に体を休ませておかねばならないところなのだが、昨日に遭った異界での緊急避難。あれが頭から離れず。事あるごとに恐怖感に襲われていた。
たとえば、寝ている時。暗がりの寝室。ベッドの下や、半開きになったクローゼットに潜んでいる濃厚な闇。暗闇から何かが覗いているような錯覚……。
同室のルームメイトや班の仲間からは、気のせいだと言われたが。一穂は確かにその通りだと思いつつも、なにもしていないと、どんどん不安が膨らんでゆく気がして、膨らんで破裂しないようにするには、体を動かすしかないと考え至り。結果として夕方から『技能エリア』が閉館する夜まで、休みなくトレーニングをしていたのだった。
なるべく、表には出さないように気を付けていたつもりだったが、やはり長年の付き合いである仲間達は一穂の変化を敏感に感じ取ったらしく。明日の合同訓練は休んだ方が良いと、提案をしてくれた。
心遣いはとても感謝しているが、一穂は明日の合同練習はどうしても参加したかった。
何故なら、彼女は今日……教室で話しているグループから偶然聞いてしまったのだ。
――人類最強のサイファーである神乃苑樹が、訓練所に来ている、と。
心臓が止まってしまいそうなほどの、衝撃的情報だった。
てっきり、あの異界で帰ってしまったのだと思い込んでいたのだから……。
金平一穂にとって、神野苑樹はヒーローだ。ヒーローという単語以上の象徴的な表現をしらない一穂は、とにかくヒーローの中のヒーローであると、心から尊敬していた。
もしかしたら、訓練に参加してくれるかもしれない。そう考えるだけで『休み』なんて行為はありえなかった。是が非でも出席したいと願っていた。
――今日は、あのノートを枕元に置いて寝よう。
ちょっとしたお守り感覚であるが、きっと効果はあると信じている。
神乃苑樹の事を思いながら、歩いてれば帰りの夜道も不安とは感じなかった。
人ひとりとしていない道。女子寮まであと少しというところ。
「…………ちょっと待ちたまえ。良いところに来た。助けてはくれないだろうか」
軽々しくも、良く通った男の声が……一穂を呼ぶ。
普通だったら仰天して飛び上がり、幽霊のたぐいと勘違いして、呼び止められた方向を振り向くことなく。全力で走り去っていた事だろう。
――だが、彼女がそうしなかったのは、男の声に〝優しさ〟のようなものを感じ取れたからである。声の主は決して恐怖を与えようとはせず。心の底から助けて欲しいと切に願うような、同時に相手に対する配慮に似た気持ちを――たった一言の中に濃縮させて、相手の心に訴えかけて来たようだったのだ。
道から外れた芝生に男は地面に膝を付き、じっと下を注視し続ける。
「どうか、したんですか?」
男は不思議な恰好をしていた。全身をすっぽり包み込むローブを羽織っていた。まっさきに連想させられたのは、ファンタジー小説にでてくる、典型的な魔法使い。舞台が現代ともなれば、ちょっとした仮装。ハロウィンにしては尚早。足りないとすれば、魔法の箒。あるいは身長よりも高い杖を持っていないといったところか。
一穂には外見だけで男女の判別が付かず、その発せられる声から男だと認識していた。
「じつは、困っていてね。ずっと捜し物をしているんだ」
「落とし物でも、したんですか?」
捜し物をしているというものの、膝を突いたままで動かない男は、地面に落ちた何かを探しているようには見えなかった。
「うーん。落としたわけじゃないのだけれども……探していてね。でも、見つかった」
男は手のひらを上下に動かして、一穂を手招きする。
「――――?」
きっと街中だったら逃げていただろう。
ここが訓練所であるならば安心であると、一穂は心を許していた。
まったく疑いもせず、彼女は男の前に立つと、
「――――君が、見つかった」
驚くほど素速く。一穂の左手首を男は掴み、反射的に抵抗しようと体を後ろに引こうとするが、
「………………ぁ」
手首から、大量の何かが入り込んでくる感覚。
一穂の意識はスイッチを切るように暗転してしまった。
「…………だめだな。ちゃんと抵抗する訓練をしておかなければ。魔力というのはとても危険なものなのだと、授業で習わなかったのかい?」
ぐったり脱力する一穂を、立ち上がった男は見下ろして。
「――――大丈夫。少し借りるだけだ。…………君に恨みはないのだ。だから殺しはしない。約束しよう。君は運が悪かったと思えば良い。あとほんの数秒、時間が遅れていれば、あるいは早くこの場所を通り過ぎていれば、余と出会うこともなかっただろうに。恨むなら絶望的なタイミングでここに来てしまった自らの不運を恨むがいい。…………君は非常に重要な役割を担うんだ。君は余の一部となり。これから始まる舞台の中核を成す存在として、特等席に招いてあげよう。ハハハ…………アッハハハハハハハハハハハハハハハッ!」