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侵攻を防ぐために作られた防壁は全部で九枚。
それは簡易雑多な境界線であり、
聳え立つ巨大な物理防壁であり、
異形を囲む結界であったりする。
九つの防壁で塞がれた閉鎖領域。
それは異形のみならず、
壁は人々の自由までも奪っていた。
…………バンドラクライシスの中心地――グラウンドゼロ。
それは都内でも人口が特に密集した地区――新宿で発生した。
――爆心地と化した、十二月。
異常な量の霧が突如、なんの前触れもなく発生し、人々は混乱の坩堝に落とされた。
そして、人々は徐々に知る。
霧の中に――得体の知れない何かが潜んでいた事を。
路上に転がる死体。次々に増えてゆく犠牲。
視界を奪われ、天にあった太陽の光さえも霧によって霞められた昼時。
異変に気がつき、異常事態と発展するのに、長い時間は掛からなかった。
――『東京の中心地で怪物が人々を襲っている』
実際に目撃しないまま言葉だけを聞いて、
いったい誰がそんな妄言を信じるだろうか、
人々が思い考える常識とは不偏なものであり、
理解できる基準があるからこそ常識であるのだ、
この大きく逸脱した悪夢の前触れとなるサインを、
現実に起こっている事柄として理解するのは難しく、
……誰も耳を貸さなかったのは当然の成り行きだった、
そうして平行線のまま最悪は壮大な合図と共に開幕した。
同じ区域から同様の通報が何十件と発生し、
息つく暇もなく、二層もの半円型に張られた謎のドームが現れ、
ようやく誰の目にも、事態は深刻なものと映る。
約一キロにわたって広げられた二層のドームは、
内部にいた異形の動きを完全に封じた。
入ることも、出ることも許されない、
……つまり、結界が張られた瞬間から、
内部で逃げ遅れ、隔離された人々は必然と犠牲者として確立され、外部からの救助を受けられないままに、得体の知れない〝何か〟に貪り尽くされる運命を待つだけとなったのだ。
――当時、新宿の昼間人口はどれほどいただろうか。
民間人、労働者、観光者……ありとあらゆる人種と膨大な人数がいたはずだ。
犠牲者の算出は不可能。机上の概算でざっとはじき出しても一瞬で失った命は、
近代において最大の死傷者を生み出してしまったはずだ。
ただ――それだけの計り知れない犠牲を払っても、
正体不明のドームは長く保たなかった。
パンドラクライシスから……翌年の三月。
新たに現れた三つ目のドームの効力もあって、
抑え込まれていたはずの異形はグラウンドゼロから解き放たれ、
人類は十分な準備も出来ないまま、大規模戦闘の火蓋が切って落とされた。
――これが、後にも語られる『第一次異形進攻』である。
結果から言えば、多くの時間を要すこともなく――人類は大敗。
数ヶ月という短い期間で、第四層の結界も突破。
異形は現在で言うところの一区から四区までの土地を喰い潰し、人類最後の砦とも言える防壁の半分近くを、僅か三年という短い年月で活動範囲を大きく広げてしまったのだ。
苦汁の末、人類は完全進攻された一区から四区までを放棄。
現在抗戦状態にある第五層よりも内側である五区から八区は死守すべき土地として、
異形と人類が攻防を繰り広げていた。
……魔力を帯びた霧は、
打ち破った防壁の数に合わせて、ゆったりとその範囲を拡大させ、
霧の中に潜む『異形』は本格的な活動を顕わにし、
人類は防戦一方の戦いに引きずり込まれている。
『扉』から次々と現れる異形と、得体の知れない霧。
――そして、それらを抑え込もうとする人間たち。
敵が、今どれだけの数がいるのかは判別できず、
しかし圧倒的多数が存在しているのは明白。
時間が過ぎるにつれて霧のように、
人々の未来は暗澹となっている。
――パンドラクライシス以降、
東京は実質、都市としての機能を失い、市町村の垣根と名称を取り払った。
爆心地から外側の土地は、区域分けしやすいよう、
ドーナツ状に土地が区切られ、内部を扇形に均一の四等分とした。
壁によって隔て、分断した土地は、全部で五ヶ所。
……結界が五つ。防壁は全部で四枚。
この円環の区分域を合計すると――九つの防壁と――二十区もの分割区となる。
――第六層人工防壁。
――第五層結界壁。
物理的な壁を築き、その目と鼻の先にある内側には、
魔術で構成された強力な結界。――二重の檻がある。
…………人類が死守するべき二重防壁から外側、
九区から十二区はまだ人が住んでいる。
異形が棲まう五層から内側は『異界』と呼ばれ、
人類の世界と、壁向こうに棲んでいる異形との境界線がこれにあたる。
訓練生たちが『前線』と呼んでいるのが即ち、異界ことで、
ただ進攻されるだけを赦しはしない人類は、
異界に入っては異形を駆逐し、少しでも個体を減らすために日夜、活動を行っていた。
刻印を持つ子供たちが訓練生を卒業すれば、晴れてサイファーとしての地位を与えられ、異界の中で活動する為に、もっとも少ない人数で入ることを許されていた。
異界に入ることが出来るのは、なにもサイファーのみでは無い。
一般に『軍人』と呼ばれる者たちも、内部でデータやサンプルを回収……あるいは物理的な弾薬が通用する異形を討伐する任務を行うために活動していた。
だが、その任務に当たる際、一回に投入される人数の多さは、
……サイファーの非では無かった。
………………………………。
……………………。
――全隊員……二十一名。
どんな精鋭であろうと、どんな訓練を乗り越えた屈強な兵士であろうとも、
異界の中では無力同然。故に純粋に戦力を高めるには、数を揃える必要があった。
そして――一度異形に会うては、死者が必ずと言っていいほど出てしまう。
二十一名の兵士を投入し……任務中における死者十三名。
生存者八人……内重軽傷者四人。
結果は、数字で聞いても最悪の極み。
――トラックの内部は重苦しい無言に包まれていた。
誰も喋ることなく。生き残った事に幸運であったと思う者もいない。
行きは仲間で詰まっていたトラックの中も四人しかおらず、
重傷者は別のトラックで治療を受けながらの帰路。
嘘のように席が空いていた。
あれほど五月蠅かった話し声もない。
揚揚と自身の武勇伝を語り、笑いを誘っていた仲間の一人も、
死体すら持ち帰ることも叶わず。物言わぬ帰還をすることになった。
軽口を叩こうと思える人間は、四人の中に誰もいなかった。
凄惨な現場を体験したからこそ、どんな言葉も気休めにも慰めにもならないとわかっていた。
任務の現場であった五区を抜けてもなお、まだ悪夢の渦中にいるかにように、神経を張り詰めさせたまま、銃身を強く抱いていた。
早朝から始め、約七時間という短い任務を終える頃には多くの仲間を失った。
あまりにも短時間で起こった出来事に、
全員がまだ現実との折り合いが付いていないようであった。
――――がたん!
不意に強い揺れ。車体が悪路に転がるコンクリートの塊でも踏んだのだろう。
座っていた四人は目を見開き、跳ねる緊張と、急激に増殖した恐怖に震える。
「……くっそ」
無意識に一人が悪態を言葉にした。
誰もが心底疲弊しきっていた。
それは、狂気を目前に控えた状態であったと言えよう。
陥っていないのであれば――まだ良好。
「――あの」
「…………どうした」
頭に包帯を巻いた隊長は、いたわるような――あるいは自分を落ち着かせる為だろうか――震えを抑え込んだ声で返事をした。
「……本当に、アレは大丈夫なんでしょうか…………も、もし、……もしも!」
始めは冷静なままのように見えていいたが、
しだいに、眼球がせわしなく揺れ、狂気に近い恐慌状態が見え隠れし始めた。
いったん落ち着かせるためにしばらく深呼吸をしろと促し、
多少の平静さを保ったところで、隊長は話を続けた。
「さっきの話だがな…………上からの命令だ。文句は言えんよ。それにアレは多くの犠牲を払って得たものだ。無碍にもできん……大丈夫だ」
最後の『大丈夫』は、まるで隊長自身に対しての暗示のように誰もが聞こえた。
地獄のような半日を過ごして帰路についているというのに、
隊員の誰もが、まだ戦火の渦中にいるような、
生々しくも不気味な感覚に襲われていた。
耳の中ではまだ、銃撃の発砲音と悲鳴。
鼻には硝煙と血と、生臭い異形の残滓。
目を閉じると、曖昧にして陰惨な記憶。
誰もが疲れ切っていた。いつ発狂してもおかしくはないほどに。
泥のように眠りたいと思っても、緊張感がそれを許さない。
兵士たちを運ぶトラックを追従する、大型コンテナを乗せた車両。
霧に包まれた第一線をからがら逃れ。
彼ら一団は西へ…………十七区へと向かう。




