<12>
神乃苑樹たちが談話していた時刻よりもずっと後。……第十七区の夜。
人々が『安全』だと思っているこの土地であるが、ごく一部の人間たちから、不穏が潜んでいるのではないかと危惧され始めていた。
不安の中心には―― 一人の男。彼らの推測が現実の物として存在している確かな人物。
彼は旧三鷹訓練所の生徒に接触し、自らの望みの為と『遊び』の為に、魔術を使った離れ業をやってのけた。男の素性を知るものは誰もおらず、それ以前に男が十七区の混乱を引き起こそうとしているのを知る者は、死んでしまった甲村寛人を除けば、誰一人としていない。
「――――いつだったか。君がまだ『つまらない存在』だったとき……君に話した事があったよね。人を操ることは存外に難しく。操るためだけに体を作ることは思う以上に大変なのだと……」
――男の声はよく響く。誰かに対して話しかけているのだが……相手からの反応が返ってくることはなく。それでも楽しそうな感情を崩さず話を続ける……。
「どんなに大きな魔力があろうとも、ソレを扱う者が満足に利用できないようでは、魔力など存在しているだけで実質、無意味。有って無いのと変わらない」
夜の帳が下りて長い時間が経った丑三つ時。パンドラクライシス以前ならば、街路を走る車、外を歩いている人間がいたであろうこの街も、昼間の顔とは打って変わって無人街も斯くやあらん状態だ。
とあるオフィスビルに彼はいた。そこは長らく運行を停止している三鷹駅から、さほど離れていない。
現代感を大きく欠いた――全身をすっぽりと包むローブを纏った男が訪れたビルは、一時的な拠点として使用されていた。
建物内は万全を期して、数カ所に魔術罠。人除けの結界まで張っている。目的地に到着するまで、誰かに見られることは無かった。自分の口調や気持ちに余裕があるのが常であるが、その余裕を行動に、姿にして晒すのは愚かしいことであると、男は常日頃から心得ていた。
自らの愚かさによって、墓穴を掘る……事を仕損じて全てが水の泡に帰するのを、何よりも嫌っていた。そういう意味では、軽口と多くを語る以上に、男は神経質にして慎重な性格が潜んでいた。だからこそ、彼が長い時間をかけて行っていた策動は、いざ実行されるまで人々の目に露呈されなかったともいえる。
自らのためなら、男は非人道的な行為を平然と行う……。もしかしたら、結界の隙間を縫って、誰かが見ているかもしれない。聞いているかもしれない。この行為を知られているかもしれない――と思いながらも。そこに緊張や精神的な不安は微塵もなく。警戒とも、恐怖とも――違うものが心の中にあった。
むしろこの感情は――『挑戦』に近しいもの。
こうも、しっかりと張り巡らした防衛網をかいくぐって、自分の行いを阻止しようとする者がいつか現れるのではないかという、ささやかな期待もあった。
――結果として、長い月日。このビルに来客は一人もいない。出入りをしているのは男だけ。
安全だと謳っている十七区で、まさかとんでもない実験が行われているなど、いったい誰が想像できようか……。
「別に、余は見境なく奪いたいわけじゃない。ただ…………掻き回したい衝動があるのは、確かにあると思うよ」
語る男の口は休まらず。口の数だけ返答があってもおかしくはないのだが、帰ってくるのは全体を包み込む静謐。
「………………さて、君はどんな世界を望むのかな?」
問うも、やはり無言。それもそのはず。
――――その場所は、男以外に誰もいないのだから。
男は片手に『白い華』を持っていた。
茎や葉、花びらに至るまで、完全なる同色。
この世の物とは思えない、異常な純白。
華というのは形からそう呼べるのだろうが、植物としての色彩は皆無で……あまりの白さに、少しばかりの光をも反射し、発光して見えるほどだった。
男は先ほどからずっとそうしてきたのと同じように『華』に向かって話しかける。
「余は形ある物が好きだ。秩序……安定。世界を安全に、平静に回している規律。道徳……摂理…………形あるものが好きだと同時に…………大嫌いでもある」
労る手つきで花びらをなぞる。茎から分断されているのにも関わらず、華は変色するどころか、強い生命力を主張するように、白く。……透き通る白色を維持していた。
「余は壊したいわけじゃない。…………ただ少し、混乱がほしいだけなのだ」
落ち着き払った口調とは真逆。穏やかではない男の思想は、巨大な危険を含む。
軽い足取りで建物の中を移動し、道中自らが置いていた懐中電灯を手にとって、地下へ通ずる階段を下りる。
鍵の掛かっていない鉄扉を開けると、中はパイプや巨大な機械が密集している熱源室。
まだビルが普通に機能していた頃は、唸りを上げてボイラーが稼働していたのだろうが、いまではしんと機械たちは長い沈黙のまま、熱どころか肌寒い湿気のみがあった。
夜よりも濃厚な闇の中、照らす懐中電灯は部屋の隅に置いてある発電機を照らす。慣れた手つきで稼働させる。音を立ててエンジンが回り、室内の四方に絡みつかせているワイヤーに取り付けられた電球が目を覚ますようにゆっくりと明るさを取り戻してゆく。
「この街の良いところはいくつかある。一つは多少なりとも混乱はあるものの安定と平和が保たれているということ。……一つはそれらが故に大きな実害が無い限り、人々は無関心だと言うこと」
一定の順序で電気が通ってゆく電球。
最期の一球に明かりが蘇ると、
男はスイッチを切った懐中電灯を近くにあった机に置いた。
「そして最後――些細な事件に対して誰も反応しない。誰かが居なくなろうとも大して騒ぎ立てない――というところだ」
不気味なほどの……口角を三日月型に引き延ばした笑い。
振り返り、男は表情を固着させたまま部屋の奥へ進んでいった。
曲がり角を曲がると、男が意味するものが彼を迎え入れる。
その視線の先に注がれている物は、
とてもおぞましいに尽きるものであった。
もし、地獄のような光景が現実にあるとするのなら、
――このような場所を指すのだろうか。
壁一面には、貼り付けられた膨大な量の〝皮膚〟があった。継ぎ目継ぎ目を黒い糸で縫合され、乱雑に繋がれている。ある場所は引き延ばされ、また一部分は不必要に皺が寄っていた。
第三者が見れば、病質にして異常な光景に目を剥き、そして皮膚の元となるオリジナルが一体何であるのかと疑問を持たずに居られないだろう。
その元々が『人間』であると知っているのは、皮膚壁を作った男だけしか知らない。
手足はなく。凹凸はあれど飛び出ている部分がない。そして大きさについては人間一人の量では済まない質量。
皮膚は変色しておらず……内部にはまだ血肉が詰まっていた。
ゆっくり、ゆっくりと一部分の皮膚が上下に自発的な動作を行っている。
場所によっては浮き出た血管が脈打ち、ときどき皮膚の一部が痙攣する姿もある。
――つまり…………まだ生きているのだ。
何人もの人間が混ぜ合わされた人々は呼吸器を失い、脳だけを肉の中に残され、視覚も聴覚も味覚も無いまま……生きていた。魔術によって生きながらえさせられ、誰とも知らないつなぎ合わされた神経感覚を共有し、触覚器官だけをハッキリと生かされている。なおかつ脳の数だけ意識は全てバラバラに置かれていた。
彼らが何を考え、そしてどんな思いで今を生きているのか……それは誰にも解らず、取るに足らない問題であると。
この冗談のような肉塊を製作した男は、欠片ほどに考えたこともなかった。
「コレはね…………君の為に作ったんだ」
男は華に語りかける。見せるように、肉塊にむかって花弁を斜めに向けた。
「君はまだ咲いていない……これから咲くために、ちょっとした儀式を行わなくてはいけないのだ」
肉塊に近づき、男はそっと触れた。目も耳もない。神経だけ健全なまま生きている人々は接触してきた誰かに対してビクリと震え、無言の悲鳴を上げて拒絶する。
「一から作り出すのには苦労した。体を作るという行為はね、等価でなければいけないんだ。…………無から有は作れず。法則と原則に沿ってやれば、有は違う形の――同等の有を作りだすことができるんだ。ほんの微かな魔力を遣り繰りして、ココまで仕上げるのは、本当に…………本当に苦労したよ。なんせ、初めての経験だったからね」
男は華をゆっくりと、肉の前に『華』を持って行き、そっと触れた。
震える肉塊。声にならずとも、動きの一つ一つからは恐慌が洪水となり、溢れ出ていた。
「もし、無から有を作り出すことを求めるならば、自らが主軸とする世界を作らねばならない。この場合、この世界の中に隔絶した小さな世界でも構わないのだが。…………話し出したらキリが無い。魔術という物は底浅く見えるが横がとにかく広い。どれだけ広いかは余にもわからない。そして場所によってはとても深い。深い所はとにかく深いものなのだ」
――だから、と男は一度、話を途切れさせ、力任せに華を掴んだ拳を肉の中に埋没させた。
表皮が破けた肉塊の傷口から血液が流れ出て、激しい抵抗を見せるものの、人々に為す術などあるはずも無く……。更に奥へ。容赦なく、肘まで入り込む。男の靴底が、流れ出る血液で濡れる。
「抵抗するときの筋力たるや。予想はしていたが凄いな。腕が折られてしまいそうだ…………。魔力が必要とされる異形の体では、どうしても外の世界に順応することはできない。…………生物は元々、水の中で生き、長い年月を経て、陸上で呼吸できるように順応していったそうじゃないか。…………推測であるが、コレは異形にもいえる。魔力を使わなくても生きられる体。きっと長い年月をかければ、進化という形で変成されてゆくだろう。…………だが、そこまでは待てない。――――保たないのだ」
華を置き去りにしたまま、素速く引き抜き。
腕から指先を伝って、地面にしたたり落ちる大量の血を振り払いつつ、自らのローブで拭った。
「そこで余は『体』を作った。人間をベースに作り替え、異形に近しい別質の存在を作った。…………実はコレが得意なんだ。なんせ〝腐泥の湖〟から生きた屍を作った事があるくらいだ。どうやっても作り出せないのは体を動かす魂……こればかりはどうにもならない。純粋なる魂を抽出することは可能なのだけれども…………魂を作り出すことは『神』の座を持ってしてもできるかどうか。まあ、今回については素材が揃っている。上手くいくと、この身は確信しているよ」
引き抜かれたときに空いていた大穴は、しばらく血を噴き出し続けていたが、引き裂けた皮膚はそのままに、やがて傷口が塞がり、完全に閉じる。
拭いきれなかった残りの血を無感情に見つめながら、楽しそうな笑い声。
「君の胎内とするために使った人間の数は……ふふふ。きっと聞いたら驚くよ? 見た目以上に――使ってるから…………どんな働きを見せてくれるのか、少しばかりだけど――期待をさせて貰うとしよう」