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…………ゴォーンゴォーンゴォーン。ガガンガガガンガガガ………………。
頭の中で様々な重機が列を成し、ぐるぐる走り回っているのではないかというほどの爆音が反響しあって、谷原真結良の鼓膜を振るわせ続けていた。
視界は酷く狭い。とにかくうるさい。
四方は筒状が囲む樹脂製の壁。体がすっぽりと覆われている。
きっと棺桶の中というのは、無音であるだろうが、こんなふうに酷い圧迫感があるものなのだろうなぁ。……まだ終わらないのか。
この雑音の中では眠気など出てくるはずもなく。普段なら下らないと切り捨ててしまうような念さえも有用であると感じるほど、とりとめも無い思考を展開し続けることしかできない真結良であった。
足下からせり上がってくる緑色の光。さながらコピーができる棺桶といったところか。
顔の所まで来て、目を閉じる。瞼の裏で透過した光が目を刺激してきた。
残っている光の残像を見つめながら、小さく溜息じみた空気を吐き出す。
この筒に入って五分以上が経過している……と思う。正確な時間は解らない。
検査とはいえ、ずっと下着一枚でいるものだから肌寒い。何度も行っている検査だが、この金属製の寝台の冷たさはどうにかして欲しいものだ。検査機はどこもコレなのか。毛布くらい敷いて欲しいものだ。さむい。つめたい。…………恙なく、慎むように生活しているのだが、定期的にこうやって装置に包み込まれなくてはいけないとは。…………筒だけに。…………と、とにかく寝台にまったく温かさがない。芯まで冷える。もうすこし心配りが欲しいものだ。……まったく、心にも体にも冷たい装置だな…………ん? さっきからいろいろ、なんかちょっとだけ上手いこと思ってるぞ私。
「ふ……ふ、…………ぷふ」
筒の中で口角を緩め、口だけほくそ笑んだ自分がいる。自分だけで良かった。もし他の人が見たら変な人のそれである。声に出して笑ったら筒抜けだ…………筒だけに。
あまりにも無為な時間の経過に、真結良は口のみならず、思考までも、かなり緩くなっていた。
やがて爆音が止み。寝台が足下の方向へと動き出す。ようやく頭まで出た時、低い天井に備え付けられていた蛍光灯の眩しさに目を細めた。
寝台から下り立ち、そそくさとワイシャツとスカートを身につける。それでもまだ寒さが残っていた。体温を取り戻そうと腕をさする仕草。
一人しか居ない空間。椅子に座って待つ真結良。
機械を操作していた医師が真結良が待っていた診察室に戻ってきた。
「…………………………」
「…………………………」
白衣を着た女性の医師はニコリともせず、愛想無く前の椅子に座って書類が挟まっているファイルをパラパラとめくってゆく。
「――内界でのチェックは初めてだったな?」
「はい」
機械的な問答。相手の冷たさを、真結良は感情を押し込めて対応する。
――真結良は外界に居た時から定期的な診察を受けていた。
内容はだいたい同じ。先ほど入っていた機械による全身スキャンと、レントゲン撮影。採血。簡易的な診察。医師との面談によるメディカルチェック。
刻印が目覚めた時から、本部監修の元に行われている診察は、真結良の持つ刻印の不安定な経過を観察するために続けられていた。
女医の名前は森下。それ以上の事はわからない。士官学校の時から彼女は私の主治医として担当していて、長い付き合いであるが、余計な会話をしたことがない。
冷たい瞳……感情がまったく籠もっていない人物だった。
「…………刻印の痛みは変わらずか?」
「はい。痛みは不定期、痛覚の強さに大きな波はありません」
「薬の服用は?」
「一ヶ月で八錠飲みました」
「…………それでは、血を採るぞ」
袖をまくり、慣れた動作で右腕を採血台に差し出す。
……生まれつき病弱体質であった真結良はこういった診察には慣れていた。
人生の大半を病院で暮らしていたくらい、彼女の健康状態は良好とは言えず。病院の外に出たことは片手で数えるほどであった。
記憶の多くは、長らく暮らしていた病院の部屋。
いつも人が居ない、がらんとしていた中庭。
走ると良く反響する長い廊下。
外から戻ってきた時、鼻に入ってくる薬の臭い。
冬の晴れ空、自由に羽ばたく小さな鶫の群れ。
…………私の世界など、たかが知れていて、
訓練所よりも以前の友達と言えば、同じ病院で暮らしていた女の子たちだけだ。
――元気で男勝り。歳の近い子。
――内気で恥ずかしがり屋な年下の子。
――少し歳上。車椅子の大人しい子。
――いつも帽子を被っていて、頭の良かった子。
病院を去らなければならなくなったのは、刻印に目覚めたときだ。私が病室の全てを凍らせた事から始まった。刻印の暴走によってコントロール出来ず、手当たり次第凍らせてしまったのだが、今でもあの場に人が居なくて良かったと思っている。
刻印が生じてからは、瞬く間に手続きが進んでしまい、皆に『さよなら』を言う時間も与えられず、士官学校へ入学したのだった…………彼女たちは、今でも彼の病院にいるのだろうか。あるいは退院して元気でやっているのだろうか。
……刻印が現れたことによって、副作用が生じるケースがあり、多くは負の側面を持っていた。精神を病んだり、体の特徴に変化が現れたりと。
私の場合は、虚弱体質が改善されたことだ。入学の時に行われた体力試験は最下位であったが、がむしゃらに体力づくりをして行くうち、平均よりもずっと上の記録を出せるようになったのだ。今となっては『病弱』とは無縁の健康体である。きっと、今の私を、あの子たちが見たらびっくりするだろうな。一目会えたらと思ったことはあったが――幼い頃の話だ。私のように憶えてくれているとも限らない。
――ただし良いことばかりじゃない……定期的に訪れる、刻印の痛み。コレばかりはどんなに回数を重ねようとも、慣れる事は無いだろう。
採血管の中に溜まってゆく自分の血液をぼんやり眺めながら、幾許か懐かしめる――とても狭い世界。でも楽しいと思えていたあの時代に、望郷の念がよぎる。
針が引き抜かれ、真結良は指で自分の傷口を押さえた。
森下女医は真結良から採血したサンプルを容器に入れながら、
「…………刻印は使ったか?」
「訓練で……少しだけ使いました」
「全力で使った事は?」
「…………………………いえ。ないです」
――ウソだ。全力ではなかったが、かなりの力をもって刻印を使った。
数日前に、代表戦と呼ばれる一年生同士で行われた班の対抗試合において、相手の班に不正行為を行われ、私は仲間を守るため、刻印を使った。
初めて。訓練ではなく戦いという場面。……しかも異形ではなく。人に対し刻印を使った。
自分が行ったことは間違いではないと――そう思っている。
人を守るための行為となった刻印の使用。対象者は人に――よりにもよって相手が自分の知っている友達だという内容に、罪悪感が心の中にずっと居座り続けていた。
罪悪感と共に、不安もあった。戦いの中で、私は確かに『もっと戦え』と刻印に背中を押されている気がしていたのだ。
一瞬だけ……ほんの一瞬だけ私は――我を忘れて、友人を斬りそうになった。
衝動を沸き上がらせ、前へ進んでいた。人間性……人としての大切な感情を捨て置いて、本能のままに友人を殺めようとしたのだ。
頭から離れない記憶と感覚。真結良は森下女医に話さなかった。
自分の中にいた恐ろしい衝動もそうであるが、彼の事件を無闇に話してはいけないものであると思ったからだ。
「中枢機関において、君はとても貴重な人材だ。今までどおり、記録は欠かさず提出すること。いいな?」
「………………はい」
――外界と内界、関係なく刻印の覚醒者は現れているが、壁の外と中の刻印が出せる能力の質は歴然としていて、外界の刻印持ちの能力は多くが無いに等しい扱いだった。
ただ……それでも異形と戦える大きな戦力には変わりなく、魔力を扱える兵士として集められている。
谷原真結良は外界で覚醒した刻印持ちの中でも、特に群を抜いた刻印能力を持っていた。
外界の人間が内界の訓練所に行く実例は少なく、なおかつ不安定な刻印を持っている真結良の状況は――『人間が作り出した薬を用いて、どれだけ刻印を制御できるのか』という、今までに無い試みと並行してサイファーを目指す、試験的な意味合いもあったのだ。
真結良本人も、それらの事には同意していた――というよりも同意せざるを得ない状況であると言った方が正しいのか。今回の試みがなければ、真結良は士官学校に行くことはできなかったし、内界に入る許可さえも得られなかった。…………そして、刻印を抑制するための薬も。
刻印の制御ができない人間が、まともな生活を送れるはずもないのは解っていた。元の……友達がいた病院に戻ることもできない。
もし――もしも、私が今ではない道を選んだのだとしたら、どうなっていたのだろうか。
内界に来てからというもの、この考えは色濃くなっていた。内界に行かなかった時の自分。士官学校も行かず、外界で刻印を持っている自分の立場。誰も知らない場所で、病院とは違う小さな部屋に捕らわれて……人としての扱いを受けられるのかどうかも定かではない。
中枢機関は人を保護するために作られた団体ではない。国の法律に従って、刻印を持った人間を拘束できる権限を持っている。そういった意味では誰もブラックボックスのことを信用しているわけではなかった。
世界の明日を一身に背負っている、得体の知れない組織。
とても重要な柱の役割であることは周知の事実であるが、彼らはいったい何者なのか――それは誰にも解らない。
…………この、森下女医もそうだ。ブラックボックスの医療班に勤めているという女性。
組織のことも、彼女の事も知らない私は、一度も彼女に心を開いたことはない。
彼女が私を診る瞳は、いつだって私ではなく私が持っている刻印や、数値化した健康状態を観察しているだけにしか過ぎない。常に客観的で、私の心を知ろうとしない――目の前にいるはずなのに、とても距離のある存在。
書類の上で走らせているペンの動きが止まって、森下女医は真結良に目を合わせる。
「そういえば…………以前、君に話した事があったと思うが、ようやく〝君専用の新薬〟ができそうなんだ」
「刻印の力を一時的に高められる、というあれですか?」
実力を底上げするのもそうであるが、私の刻印は薬で安定化させ続けなければ維持できない、不安定なものだ。
ずいぶんと以前から、薬で安定できる刻印――鎮静化させられるなら、逆に興奮剤として刺激できれば、能力増強に応用させることも可能ではないのかと提案されていたのだ。
そういった意味で、私は固有刻印における臨床試験第一号。原則的に新薬を使うとき人間以外での動物実験を通して安全を証明しない限り、人体での実験は許されないのだが、動物に刻印があるはずもなく、そうなれば自然ともろもろの過程を飛ばし、人間で確認しなくてはならないのが、刻印専用薬の現状だ。
本人たちは明言をせず。人道的な観点から、この実験は表沙汰にはされていない。
私は訓練所の生徒と並行して、ブラックボックスの部品としての立場も持っていた。
…………それでも構わないと。私は理解し。望んでいる。
もし、刻印が現れていなければ、私はずっと病弱なままで。病院の狭い世界にいる日々が続いていただろう。戻りたいと思うことはあるけども、何より――私は誰かの為にこの身を使えることに充実と嬉しさを感じている。もし、刻印専用の薬が成功すれば、この先、私のような刻印に不安をもった人々の役に立てるかもしれない。
同時に、新薬が開発されれば、私は更なる飛躍が可能になるのかもしれない。
ずっと望んでいた…………人を守る大きな力。
ただ…………どこかで私は不安を拭いきれないでいる。
戦いに対して、背中を押してくるあの感覚だ。
――強くなれることは大切だ。
しかし強さに私の心が飲まれてしまいそうで。それがちょっとだけ恐くも感じている。
本当に、強くなった先の私は……刻印で人を救う事ができるのだろうか。
――――少し前までは信じていた力。
たった一度の過ちを前に。私は自分の中にある刻印を信じられなくなりつつあった。