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試験兵たちの集団から離れた場所で、苑樹は段差のある崩れたコンクリートに腰を下ろす。
周辺の兵士たちはワームの件で大騒ぎしていて……戦いに一段落が付いたと思っている。
苑樹の耳にはまだ無線機が付けられている。電源はオンのまま。
現場に向かわせた二人の痴話喧嘩が絶え間なく聞こえてくる。
コレで終わりとは限らないと……神経は、まだ尖らせたままだった。
――苑樹は、ワームが本命ではない可能性を優虞していた。
奥地に居るはずの異形がこの場所で確認され、原因は更に奥に居るワームの出現によって、他の異形が押し出されたのだと推測している。…………ここで、忘れてはならないのは、たかが人間の推測は、推測にしか過ぎないということ。完璧な答えに直結しない、浅はかで根拠のない憶測を盲信するほど、苑樹は愚かではなかった。
仙崎が確認したという場所に……もし、ワーム以上の存在がいたとしたら? 他の異形が異常行動を取ったと同じように、ワームも何かに対し逃げてきたのだとしたら?
異界において、楽観的な想像を行うのは難しいが、絶望的な想像であれば、それこそ際限が無く……現実に起りえる可能性がある。
――第二の存在を警戒していた苑樹は、不確定すぎる予測に対し、考えを伝えて不安を煽らせないため、林藤とペアで仙崎を向かわせたのだ。もし推測が的中したとしても二人ならばどうにか凌げるであろうという打算もあった。
「はい、神乃くん。どうぞ」
「………………………………ああ」
一息ついていた苑樹に、死角からタオルを差し出す古都子。
少しも驚く様子がない。古都子からしたら、一番おもしろくない反応である。
普通に受け取り、もう乾き始めている異形の血を苑樹は黙ってぬぐい取る。
「……………………なんだよ芦栂。まだなにかあるのか?」
「いいえ。何もないわよぉ」
背中に手を回して優雅に微笑む古都子に、笑いも怒りもせず、視線を合わせただけで、地面に目を落とした。
「………………………………」
芦栂古都子は、彼の口から――いつかは言わせてみたい言葉がある。
――――『ありがとう』だ。
古都子は記憶を遡ってみても、神乃苑樹から、心からの礼を言われたことはない。
『ああ』とか『すまん』とかはあっても『感謝する』とか――『サンキュー』…………は、まずあり得ないだろうけども――そんな単語を聞いたことがなかった。
お礼の言葉が嫌いなのか、苦手なのか。はたまた、単なる恥ずかしがり屋なのか。
彼は礼も言わないし、同時に貸しを作るのが嫌いで、こちらが『お礼の言葉目的』で何かをしてあげると、まったく別の形で貸しを返してくる。態度に愛想がない割には、非礼にならぬようにしてくる律儀な男性だった。男性はなんでもかんでも、貸し借りで判断するものだろうか、と考えてしまう。加藤さんも似たような事を言っていた気がするから。
一時期、献身的に世話をしてあげて、なんとしても『ありがとう』を言わせてやるぞと、頑張っていたけど、あまりにもイーブンにしようとしてくるものだから、恩の押し売りをしている気分になって、申し訳ない気持ちになったのと、常に顔を合わせている班の中で気まずくなるのもあって止めた。
そうして古都子は、ちょっと暇があったら世話をしてあげる程度に、目的を遂行させようとしていた……残念ながら、今日も失敗に終わったようだ。
「ありがとうぐらい、言おうよ」と持ちかけるのは簡単だ。でもそれって違う気がする。自然体に出るから良いのだ。なんの強制も制約もなく発せられるから礼なのである。最近ではちょっとしたゲーム感覚になってきていた。
めんどくさい女だと思われるのもイヤなので、今後とも同じ作戦で責めていこうと思う。
一通り、異形の血を拭い終わった苑樹は首にタオルを掛けて立ち上がり、小さく息を吐いた。
特に話すことも無く、二人が遠くを走り去って行く軍用車をぼんやり目で追っていると、
「あ、あの! ちょっとすみません!」
「……………………?」
いきなり苑樹に駆け寄って声をかけてきたのは、苑樹よりも少し背の低い少女であった。腕には試験兵のマークである腕章。旧三鷹訓練所の正装を着ていた。
不安そうに視線を行ったり来たりさせながら、覚悟を決めたように体を強ばらせて、
「か、……神乃さん……ですか……?」
「だからなんだって言――ゥ!?」
急に脇腹を小突いた古都子。立ち上がったばかりの苑樹は、バランスを保てずによろめいた。
「どうしたの? 何か聞きたいことでもあったかしら?」
「……あ、えっと。わたし。旧三鷹訓練所所属、二等試兵の……か、金平一穂と申します! ……ほんとうに突然で、ほんとうにいきなりで、申し訳ないのですが……さ、ささサインを頂けないでしょうか!?」
深々と頭を下げる一穂二等試兵。
苑樹は特に驚きもせず、古都子を見て自分を指さし『オレがか?』と無言の問いかけ。
古都子は顔を合わせ、ニコリと笑い、二度頷いた。
「…………おい、頭を上げろよ」
彼らが無言のやり取りをしていたことなど一穂は知らず。不安が一杯に広がり、潤んだ瞳でゆっくりと見上げる。緊張のせいか……足が震えていた。心なしか、きゅっと結んだ下唇も微かに震えていた。
苑樹は表情を変えず、
「オレは有名人でもなんでもない。そんなこと、できるわけないだ――」
「――うん! もちろんいいわよ。普段はこういうことしちゃダメなんだけど、特別に、ね?」
苑樹の意志を無視して、古都子は自分の声をかぶせてウィンクしつつ、オーケーサインを繰り出した。
日の光を浴びて咲いた花のように、顔を輝かせる少女。
ぎゅっと握り絞めていたノートとペンを受け取った古都子は。
「はい。神乃くん。ペン持って」
無言で拒絶する苑樹に、古都子は手を取って無理矢理に握らせた。
困った顔で近づき、小声で語りかける。
「神乃くん……貴方は人類の希望なのよ。こうやって、可愛い女の子が憧憬を抱いて貴方を探して、しかも一人で勇気を振り絞ってお願いをしに来たというのに。それを無下に断ってしまうの? 神乃くん。そんな冷たい人なのかしら? それはダメよ」
「……………………」
「はい。サインしてして」
芦栂古都子はどうやってもサインをさせたいらしい。長い付き合いだから判る。何が何でも書かせようとする。コイツはそういう女なのだ。
苑樹よりも、わずかばかり古都子の方が背が高い。よって上目遣いならぬ、下目遣いでお願いの眼差し。
「………………名前だけでいいんだな?」
「――は、はい!」
気取ったサインなど用意しているわけでもなく。
ノートに自分の名前を『神乃苑樹』と上手くもなく、汚くもない。普通の文体で書き記す。
少女の持ち物であるペン……〝ピンク色の象〟が芯を押し出すノック部分に取り付けられている可愛らしい筆記用具――を持っている神乃苑樹という構図に気がつき、古都子は吹き出しそうになる笑いを我慢する。
「ありがとうございます。たいせつにします!」
敬礼をしながらお辞儀をする奇妙な行動をとって、ノートを胸に抱きしめ走り去っていく。
「うんうん。若いなぁ。……あのノート、綺麗に戦術とか今日教えたことを、ちゃんとまとめてあったよ」
「…………オレは、あんな扱いを受ける謂われはない」
「あるに決まってるわ。だって、貴方はサイファーのトップなんだから。トップは戦いだけ凄ければいいってものじゃないのよ? 仲間や同期。なによりも噂だけに知る貴方を目指している後輩たちに希望を持たせてあげるのも貴方の仕事なんだから」
古都子はポケットから、ココアシガレットを取り出し、口に咥えた。
続けて、もう一本取り出し、苑樹の口に押し込んだ。
「人気があることは良いことよ。そうは思わない? 士征一位、神乃苑樹さん?」