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「魔力の薄いこの十七区に、異形が存在するということは可能なのでしょうか?」
岩見は静かに問う。十七区に異形が発生し得る可能性を……。
どこか人を試しているような岩見の視線を受けて。亜生は頭を悩ます。
訓練所の生徒――甲村寛人が死亡していた建物の外で、二人は岩見が言っていた『十七区に異形がいる可能性』の懸念が、現実になりうるのだろうかと、話し合いをしていた。
建物にいた職員は撤退し、代わりに引き継いだのは亜生が率いる黒服。立ち入り禁止のロープを張って警備をしていた。
死亡現場の状況から、異形がいるのではと言う岩見ではあったが、
――活動するのに多くの魔力を必要とする異形。
……魔力の薄い、この十七区で生きていられる事など不可能ではないのか? と、自らの考えを否定する部分も共にあって。
……亜生の口から聞きたかったことは、これらを明確にする返事である。
「ゼロでは無い……とだけしか言えませんね。異形でなくとも、魔術に精通した者であっても…………ああいった行いは可能であるかもしれませんし」
「あんな事を、人間がやる――と?」
「異形がいるかも知れないという仮定と同じで、私の意見も、あくまで一つの仮定でしかありません。…………ただ、現に生徒が異常ともいえる状態で死んでいる。警戒態勢を取って慎重に進めるべきだと思います。……場合によっては、第八課の執行機動隊。あるいはサイファーが必要になるかもしれませんね」
現在――殺人現場を中心とし、十七区の広域に中枢機関・第七課の人間――通称『黒服』を展開させ、不審な所が無いかを調査させている。街の中で何か一つでも異常が確認されれば、亜生の携帯端末が鳴り響くだろう。
「いま、魔術に精通した者――と言いましたが、なにか心当たりでも?」
岩見は彼が言っていた言葉の端を切り取って、そのまま質問とした。
…………ほんとう、つくづく厄介な男だな。迂闊に喋ることすらできない。
亜生は心の中で唾を吐きつつ、表面では作り笑顔をそのままに、大げさに手を振った。
「いえいえ。心当たりなんかありませんよ。経験に則った考えで推測しているだけです。ここよりも内側。東の十区と同じく十一区。あのエリアはかなり治安が悪くなっていまして。異形ではなく、人間同士でいざこざが絶えないんです……暴徒の中には固有刻印を持った者や、魔術を扱える人間までいるという話ですから、今回の件も異形だけではなく、魔術を使える――『魔術師』などの存在も潜んでいるかもしれません」
なるほど、と。納得しているようなしていないような曖昧な返事をしつつ、岩見は頭だけを回して、建物の全体を見つめた。
相手が人間の魔術師ならともかく。『異形の者たち』は未知数な部分の方が多い。
地球上の昆虫が数万種類いて、それでも人間の手で発見されていない個体が数多くいるように、異形の者たちにも種族や単一個体。まだ確認されていない様々な種類が異界に居るという。
それら全てを、壁一枚で隔てることに成功している。
――成功していること事態が、そもそも幻ではないだろうか。我々は『壁』に対する防御力を、根拠もない理由で信じ込み、盲従し、異形の流出を許しているのではないだろうか。
岩見本人も、異形の者たちについて深い知識を持っているわけではない。とにかく恐ろしく、おぞましい。悪夢で見るような怪物を、そのまま体現させたような存在……知っているのはその程度だ。
何よりも『第一次異形進攻』で彼らの潜在能力と、圧倒的な蹂躙をじかに見ている岩見は、誰よりも異形に対し、自分にできる限りの神経質な対処をしてきたつもりだ。なのに今回のような奇怪が起きた。
「壁は絶対的な堅牢さと、同時に魔力を外に出さぬよう、魔術的な結界が張ってあります。だからそこまで心配する事はありませんよ」
「……………………………………だけど、……魔力は漏出している」
「……………………」
――――一体どこで掴んだ情報だ?
表情に出さなかった亜生であったが、張り付いた笑みが硬直したことで、岩見は微かな焦りを読み取った。
ブラックボックスの中でも、それなりの地位にいる人間と、一部の調査班しか知らされていない。別に防壁が壊されたというわけでもない。目下調査中の問題であるそれを、全く関係の無い地区の……たかが『教官クラス』風情が、どうして知っているのだろうか。
亜生から、再び視線を建物に移した岩見。
「僕のほうにも〝有力な情報を提供してくれる友人〟が本部にいましてね。かなり確信を持てる情報筋なので、まったく疑ってません。東のエリアは西とは違って、異常に魔力が濃いってね……タダでさえ、あちらの方の壁はまだ未完成の場所がある。そして完全に囲まれた第五、第六の防壁と結界を縫って、どういうわけか魔力が漏れ続けている。本部の方々は随分と秘密にしていることが多いようですね」
「………………………………」
――――だめだ。笑みが崩れる。
亜生は隠すように顔の半分を覆い、ぎらつきそうになる眼光をなんとか抑えた。
「亜生さん。僕は今まで、ずっと疑問に思っていたことがありましてね」
十七区の危機について話していたはずなのに、気がつけば一方的な質問攻め状態になっていた。
「…………全九枚の内。実際に完成しているのは二枚だけなのはどうしてなのでしょうか?」
「それは、どういうことですか?」
「………………僕はあのパンドラクライシスの時に、現場にいました。…………まだ物理的な壁ができていない時に現れた、あの四つの結界は、誰が作ったのですか?」
旧首都を包んでいる壁は全部で九枚。
その内の四枚が突破され、残るは五枚。
訓練生の学習内容にもなっている壁の話には、曖昧にさせている部分がある。
――今まで突破された四枚の壁、全てが……半透明の結界であったということ。
遅すぎた日本政府の対応に、重火力でさえも諸ともしない強力な異形の進攻が追いつけない道理はなく……。むしろ一年もあれば、海をも越えて異形は海外に流出していたかもしれない。
人間を守るかの如く、神の作り上げた奇跡が、天から蓋をしたように……巨大なドーム型のバリアーが現れたことによって、人類の危機が回避されたのだ。あの結界の出現が、人間達に時間の猶予を与え。大きすぎる明暗を分けた。
当時は摩訶不思議な光景を眺めているだけしかできず、異形を抑え込んでいたのは人間の武力でも知力でもなく、誰も知らない不可思議な現象によって未来を守られたのだ。
今となって、岩見はあのドームの正体が『魔術』によって作られた強力な結界であると推測していた。…………そして、数年経った今では、あの都合良すぎる偶然は、なんらかしらかの必然性をもって出現したのではないかと、そう考察し始めていた。
「内界情報部のトップである十一課の人なら、何かご存じではないかと思いまして」
「………………いや、私もその件については、初めて……伺いました」
ああ。そうだ。初めて聞いた。本当に知らない――その事については。
物理的な壁は異形が現れてから、建造された。何年もかけて。九枚の防壁と言っているが、実際のところ、人の手によって作られた物理的な防壁は四枚しかない。
残りの六枚は、魔術的な結界によるもの。
とにかく塞がなければいけなかったのは、人間を囲うための第九層と、
異形の流出を防ぐ為の二重防壁、内側の結界を展開させるための効果を発生させる物理の壁。
――八層と七層は、まだ着工が行われていて未完成。上空から見ればハッキリとした円形ではない。
もしも、六層を超える事のできる異形が、本当に居るのだとしたら……。
この十七区になど、容易く到達できる。
「…………実は、ここだけの話なのですが」
話をはぐらかす意味も込めて、亜生は話を『十七区の危険』について舵を取り始めた。
「十八区……『関原養成所』の方でも、二ヶ月ほど前に異形が発生しているのです」
「なんですって?」
関原は東京都の東側……足立区と呼ばれる場所にある。
三鷹と同じで、内界でも一番の安全圏とされる、九枚目の防壁を外側にもつ地区だ。
「いったい……それはどういうことですか」
「時系列で言えば、向こうのほうが先、になりますね……三鷹で騒ぎを起こした異形は、異界から異形を持ち出した事による人為的な事故でしたが、関原に現れた異形は……まったく予見できないものでした。どうやって二重防壁を越えたのか……私も事件の当初派遣されましたが、最後の最後まで、異形の発生源は解らずじまいでした」
岩見は今日行われている、二年生の実地訓練のスケジュールを思い出す。
数週間前に、ブラックボックス本部で知り合いのサイファーと話す機会があり、無理を承知で、実地訓練で生徒を教えてあげて欲しいと頼んだところ、ようやく、その人物の予定が空き……合同訓練という形で、今日執り行われて居るはずだ。
合同の相手は――どういう偶然か、
いま話していた異形発生の現場となった土地に施設を構えている、
――――『関原養成所』であった。