<1>
時刻は人々が寝静まっている、午前三時。
――ここは『第十八区』
薄い霧が土地を埋め尽くし、十八区にある関原養成所は、サイファーを育成するための施設として拠点を置いていた。
北西に旧三鷹訓練所がある第十七区とは真逆にして真隣、北東側にあるエリアの日没は、闇が濃くなると同時に夜霧が姿を現す。霧の発生源は特定されており、まだ未完成の壁から漏れ出した、異界の空気によるものであった。
未完成の『第八層防壁』の内側にある『第十四区』は更に濃い霧に悩まされているという。
十四区から更に奥の土地『第七層防壁』の裏側『第十区』に関しては、激しい濃霧と、どういうわけか壁を越えてごく希に異形が発生する。おまけに秩序を維持できない土地であると知り、徴兵を逃れるために寄り集まった、刻印を持った無法者たちの巣窟にもなっているという。
こういった理由から、北東エリアは特に不安定で、十八区に直接、平和を揺るがす事態は発生していないが、非常に緩い地盤の上に平和は成り立っていることを、人々は認知していた。突貫工事とその場凌ぎを重ね合わせた内側の防壁工事。完成後も補強と増改築に追われ、異形を抑え込むための牢として機能するのかどうか、怪しいものであると、十八区の住人は誰しも口を揃える。
――そんな十八区。関原養成所の管理する敷地に、少年少女が向かい合わせで立っていた。
「………………………………」
少年は、あくびをかみ殺そうとする。欠伸をしたら『それは失礼ですよ』と笑顔で右フックを叩き込まれ、顎を砕かれるかもしれないという強迫観念が故に、顔に出さぬよう、どうしても湧いてきてしまう欠伸をした。涙で視界が霞む。
相手は本人が思っているほど、暴力的な実行をしないだろう。……が、日々の〝脅しじみた冗談〟の積み重ねが少年の心を、少しずつ蝕んだ結果――彼はある程度、表面上は従順な振る舞いをするようになっていたのだ。
…………少年の前には、彼に蕾のような恐怖を植え付けた女の子が立っていた。
関原養成所が指定するブレザータイプの制服に身を包み、後ろ手に組んだ状態。艶のある緑髪。前髪の左側が外に跳ねていて、寝癖かと聞けば怒る。彼女曰くとても強情な癖毛なのだという。踏んでも踏んでも立ち上がる雑草のようである、とのこと。絶対に修正されない癖毛の反骨精神にちょっと感動すら感じている今日この頃。切らずに折り合いを付けたのはつい最近の出来事。左前髪との腐れ縁は、彼女のコンプレックスであり、少年が特に深い意味もなく助言したことによって、気に入ってしまったらしく、トレードマークとして扱われ始めていた。
「それじゃあ……行ってきますね。東堂くん」
小さな旅行カバンを隣に置いて、溢れんばかりの優雅さと、端整な顔立ちから繰り出される破壊力のある可愛いらしい微笑をもって、東堂と呼んだ少年に言った。
「………………………………」
――まだ日の光はないのに、だのにソレなのに、彼女の背後には後光が差しているではありませんか……ああ、何とも神々しいお姿ですぅ……。
――そういう風に、他の生徒は表現でもするのだろうが、俺は違う。夜中と言っても過言ではない関原養成所の所有する女子寮の駐車場。そこへ九割がたムリヤリに待ち合わせを強要され、出向かなければいけない理不尽。とてもじゃないが彼女の笑顔なんかじゃ、おつりどころか勘定すら足りていない。
彼女……石蕗祈理は、女神の皮を被った暴君だと東堂は認識している。返事をしようとして何度目になるだろう欠伸を、なんとか抑え込んだ。
「ふ、……ぁの。石蕗先輩? なんで一年の俺が、二年の先輩の見送りいかなきゃいけないんですかね」
東堂は寝ぼけ眼で頭を掻きながら、祈理に対し遠慮がちに聞いた。
「わかってないですね。貴方と私は相棒……正式に決まった〝リンケージ〟なんですから、見送りに来てくれるのは当然です。覚悟はしていましたが、年の差というのは、ちょっとした罪ですね。こういった部分で誤差ができてしまうのですから。でも仕方ありません。私、我慢します。……しばらく、会えなくなるのはとても寂しいですよね? 私だってとても寂しいのです。……東堂君が、あと一年早く産まれていてくれたら一緒に行けたのに。もう、この寂しさは東堂君のせいです」
ふくれっ面。目を逸らして、憂鬱そうに祈理は言う。
「寂しいもくそも、先輩だったら、他にも見送りたい人は沢山いるじゃないですか。……先輩、すごく人気者なんですから」
祈理は不意に近づき、反応遅れた東堂が距離を開けようとして、伸ばされた手がネクタイを掴み、力任せに引き寄せられる。
二人の距離がぐっと近くなったところで、誰も聞いてやしないのに、祈理は囁くように話しかけてくる。
「貴方だからいいのです。貴方じゃなきゃイヤです。相棒であるくせして何を言ってるのですか。つべこべ言っているとローキックですよ? もっと名残惜しむべきです。心細さに悶えるべきです。……まったく。私がこれから頑張って行ってきますというのに、そのずぼらで無関心な態度は頂けませんよ。東堂くん」
「………………ほんと、養成所の人たちに、先輩の本性――教えてやりたいですよ。ネクタイ苦しいから離して下さい」
「あ、ごめんなさい。でも勝手にイメージを作ったのは他の方々です。……それに、私が素顔を見せるのはリンケージである、東堂くんだけなんですよ?」
よろけるように適切な距離を開けて、東堂は腕で自分の顔半分を隠した。
「――ッ。マジそうやって、また勘違いさせる事を、表情変えずに平然と口に出す。勘弁して下さいよ」
悪戯っぽく、本心から祈理はクスクス声を出して笑う。
「それじゃ。たっぷり勘違いしていてくださいね。二日間不在になるのですから、不純な生活を送っていたら、東堂くんを全力で火あぶりにすることもやぶさかではないと思っておりますので。特にあの、貴方と同期の泥棒猫……。私たちの関係をいっつも邪魔してくる。アレに関しては『魔導科』の権力をもってねじ伏せてでも――」
「お願いだから、そういう恐いことを平然と言うなって。タダでさえ『普通科』と『魔導科』の確執ってのは異常なんだからさ」
「東堂くんはもう魔導科の人間じゃないですか……もっと誇るべきです」
「裏口入学よろしく、先輩がとんでもない女帝権力を振りかざしての、強制移行ですけどね。……ぶっちゃけ、俺はとても迷惑してます。魔術の使えない魔導科一年なんて、俺だけですよ。普通科に戻りたいです」
「だめです。貴方には素晴らしい才能があるのですから。もっとその部分を伸ばすべきですよ。腐らせておくにはあまりにも惜しいです」
「才能ねえ。………………それって、固有刻印を使って、フィギュア作る能力?」
祈理はたっぷり、わざとらしい溜息を長く吐き出して、ガラス細工のような細い指先で、髪の毛を掻き上げた。とても目が冷えていた。
「まったく貴方という人は。どうしてゴミドブ残念思考しかできないんでしょう? 憐れで可愛そうな東堂くん。やっぱり貴方の才能は私だけのものです」
「さり気なくない、罵りが心に痛い! 何度も言ってるじゃないですか。俺は魔導科にいるような人材じゃあないって。ちまちまお小遣い稼いでいる方が性に合っているんですよ」
「貴方が作った作品の中に、私そっくりの、お人形を作って、お金儲けですか?」
「――う。…………す、すんません。ほんと。反省してます。……でも需要あるから、言い値で買ってくれたし。…………それに、ちょーっと首から下をすげ替えて、本物より肉付きよくしてたし。あそこまでいったら、もう本人とは呼べないんじゃ……」
「なにか――言いましたか?」
「いや。もう言いませんから! 何で俺にむかって手のひらかざしてるんですか!? それ〝ぼわッ〟ってヤツですよね! 勘弁して下さい! マジで!」
本気で来るかもしれない〝ぼわッ〟に、東堂は全身を硬直させ、吹っ飛ばされないように構えていたが、祈理は腕を降ろして、またもやたっぷり溜息。
「どうしてふざけてばかりなのですか。真面目にしていれば、周りももっと評価を変えてくれるのに」
「俺は評価とかそういうの、興味ないんですよねぇ。へへへ」
「…………あの時、私を守ってくれたのは貴方だけだった。異形を前にして臆さず。立ち向かう姿。いま思い出してもステキでしたよ」
「~~~~~~っ」
からかわれているという事は解っていても、馬鹿な男はこういう言葉に弱い。
相手が可愛い女ならなおのこと……。
「まさか〝魔導科最弱の東堂宗二郎〟が、養成所じゃ誰も扱えない、第一級レベルの魔術を使えるなんて知ったら、きっとみんな驚くでしょうね。……っと言いますか、その才能をブラックボックスが放っておかないと思います。貴方は〝グレードワン〟に入れる素質があると、私は思います」
「それ……絶対言わないで下さいよ。あんなん、もう二度としたくないんだから」
「その割には、あの時、私からたくさん奪っていったじゃないですか。東堂くんは見た目以上に欲張りなんですから……」
「ちょまてぃ! なぜ頬を赤らめる!? そんな顔するようなことなんてしていないよね!? やめてその言い方! 人聞き悪いから、絶対に人がいるところで言わないでね先輩!」
声を裏返しながら焦る東堂に対して、祈理はクスクス笑う。品というものを大切にしている性格上、腹を抱え大声で笑うという行為をしない。
普段の生活では『クール』で、喜怒哀楽の起伏が少ない態度を取っている彼女からしたら、無防備に笑っている姿はとても珍しい。
東堂からしたら――完全にからかわれているようにしか受け取れないのだが。
「ほら先輩。もう時間だろ。さっさと行かないと遅刻するぜ?」
「フフ。大丈夫です。集合時刻は二時間後ですから。抜かりはありませんよ。会えない間のぶんだけ東堂くんと、ゆっくりじっくり話をしていたいので」
東堂は少しだけ沈黙。動作が固まった。
「……………………………………ん。なんだそれ聞いてない。集合二時間前だとぉう!? するってーと、アンタ、俺に一日の六分の一。四時間前から見送りの準備させてたのですかい!」
「あたりまえです。時間には余裕をもって。ぬかりなく。私の見送りに上下スウェットなんて断じて許せません。何も言わなかったら、きっとパジャマな恰好で来たでしょう? 眠そうな目を見ていればわかります。先輩の見送りには礼節を――ですよ。ちゃんとあくびを抑える姿は評価できます。好印象です」
「ほんっと内弁慶ならぬ、内暴君。もうイヤ。こんな振り回されっぱなしの生活ゥゥ」
両手で顔を覆い隠し、東堂はその場で両膝を落として、おおげさに泣き崩れる。
そんな東堂を見つめつつ、祈理はゆっくり口を開いた。
「あ、あの……実は、こんなに早く呼んだのには、もう一つ理由があって……」
「………………ん。まだなにかご用でも? もう何あっても驚かないよ、俺」
「これ……よろしかったら」
会ったときからずっと、どちらか片方は後ろ手に回しっぱなしの状態だった祈理に、かなり違和感を憶えていた東堂。
彼女がようやく両手を前に出すと、手に何か袋のような物が持たれていた。
キレイにラッピングされて、リボンで口を結ばれたソレを受け取った東堂は、今度はなんだと酷く怪しむ。
「なんですかこれ? すごい怖い……」
「失礼な。中身は…………パ、パウンドケーキです。この前は私の至らなさが原因で、東堂くんにゴミを食べさせてしまったから、納得出来るものを作ったんです。ちゃんと味見しました。中からジャンクな廃油みたいなのが滲み出てくることは、もうありません」
リボンをほどき、紙袋を開けて、東堂は鼻を突っ込む。
「あぁおッ! ちゃんと甘い匂いがする! すごい無臭じゃない! この前とは全然ちがう! ダメだったところはすぐに補ってくる。さすが、完全無欠の石蕗祈理――りぃ、先輩。……でも、こんなん他の男子にバレたら袋叩きにされるかもな。タダでさえ先輩とリンケージ組んでる時点で殺意混じった視線がヤバイってのに。………………そう考えると、このお菓子。ちょっとした爆弾を持ってる気分になってきた」
「みんなの前で渡すのも、恥ずかしいので……だから早めにしたんですよ」
「………………………………」
スイッチを切り替えたように、東堂の顔が輝きから……呆れた顔に変化した。
「………………くっそ、こんなん…………いや、こんなものって言うのは、すごく語弊があるのだけれども、…………ケーキ一つで懐柔される、俺も俺だな。……ねえ先輩。せっかくだから、今たべてもいい?」
祈理は一言『ダメです』と、地面に膝を付いているままの東堂に指を突き立てる。
「か、感想は帰ってきてから聞きます。良い反応を期待してますよ」
完璧に修正したつもりなのだが、本当の所は彼の舌に叶うかどうか、自信がない。……などと素直に言えないのは、祈理のプライドが邪魔をしているから。
恥ずかしさを隠すようにして、祈理は背を向けて、荷物を持つ。
「先輩……」
振り返った祈理は、立ち上がった東堂の顔を見る。
真っ直ぐ視線が交差すると、東堂は躊躇いがちに伝える。
「まあ……その、あれですよ。異界での訓練、怪我しないように。がんばって、ください。…………先輩だったらなんてこと無いんだろうけど。……い、いってらっしゃい、です」
彼を見送りに来させたのは、ちょっとした励ましの声が聞きたかったのが理由だ。
私だって不安なのだ。どこにでもいる普通の人。完璧な人間じゃないのだから。
これから…………『異界』に向かうのだ。
凄く不安だったが――最後の最後で、彼の口から勇気の出る言葉を聞かせてくれた。
嬉しさで胸が詰まった祈理は満面の笑みで頭を傾けると、跳ねた前髪がぴょこんと動いた。
「はい。いってきますね!」