<Prologue>
両手が塞がっている中……。
彼は――顔半分にへばりついた血を、拭うことが出来なかった。
片腕には意識の無い銀髪の少女を担ぎ、
逆の手は、脱力して頭を垂れるボクの細腕を強く掴み。力任せに牽く……。
肩が抜けようが構わないと言わんばかりの引っ張り方だった。
彼にとって、とにかく……重要なのは、
出来るだけ遠くへ逃げ延びることだけ。
火の粉が舞い狂い……オレンジの明かりが夜空を照らす。
地上からは炎。
そして――天からは雪が舞い降ちる。
………………赤い、雪。
炎の明かりによって、赤く反射しているのではなく。
――文字通り、舞い降りる雪自体が『赤色』であったのだ。
柔らかくして異彩を放つ雪は、降りはしても、積もりはせず。
地面に落ちると、蛍火のように……幻想的な光を放ったのちに消える。
彼は――ただ……ひたすら真っ直ぐに歩き続けていた。
熱せられた空気を吸うたびに、喉が焼け付きそうだ。劫火に包まれた周辺の廃虚。火のないところを避けて歩いているのに、熱線が絶え間なく肌を突き刺してくる。
「なにやってんだ! 歩け! もうオレ達しか残ってないんだぞ! …………あぁ、……全員死んだ、死んだんだ! なんで、こんな…………あぁ、――チクショウがぁッ!」
どこに向かっているのかも判らない行く先を見たまま、少年は叫ぶ。
ボクは何も言わない。心を失った抜け殻となって、少年に牽かれるままだ。
危急存亡……。背後から感じる濃厚な死の気配。一歩でも遠くへ逃げようとするも、少年にとって二人の命を抱えて進むには荷が重すぎた。
「生きてやる……生き残ってやる。死にたくない……。いやだ。死にたくないんだ! くそ……こんな腐った世界、なくなってしまえばいい。人間もバケモノも、何もかも! オレ達が……いったい、なにを――、何をしたっていうんだよぉぉおおおッ!」
世界への恨みを、オレンジ色に染まった夜空に叫ぶ。
口にしないと、どうにかなってしまいそうになる心を、彼は頭を振って撥ね除ける。
狂ってる。この世界はどうしようもないくらい……狂っていた。
そんな事……こうなる前から判っていたはずだ。
なのに、ボク達は〝生き残る〟……ただそれだけのため、狂気に抗い続けた。
――その結果が、今まで避けてきた絶望を、まとめて味わうという残酷な運命。
「…………生きてやる、なんとしても。たとえ――人を殺してでも、何をしてでも。オレは、生き残ってやる。………………ヤツを……絶対に、ぶち殺してやるッ」
――彼を突き動かしていたのは〝憎悪〟ただひとつ。
底無き憎悪が少年の動力源となっていた。
ボクはそんな感情も浮かんでこなかった。
彼は目に見える世界を呪い――自らの心を閉ざし。
ボクは世界から目を逸らし――自分の心を怨んだ。
彼とは反対に……ボクが感じていたのは〝虚無〟だ。
満たされていた日々も、燃える炎と共に、跡形もなく消えてゆく。
全てを失った。大切にしていたもの。守らなければならなかった人たち。
生きる為の居場所。安心できる寄る辺。
なにもかもを、根こそぎ奪われて、ボクはどうしたら良いのか。
「…………………………」
ボクは何も言わず、ただ長い髪の毛を前に落とし、目で見えるもの、耳で聞こえて得られる感覚を断ち切っていた。
手足が擦りむけて、血が流れているのに、痛みさえも遠くにある。
生きる動機を捨て去り、いっそのこと舞い上がる火の粉と共に、消えてしまえれば楽なのにと……前髪の隙間から差し込む、炎の明るさを見つめていた。
「………………もう、いいよ。…………ボクを……おいて、逃げて」
長らく黙っていて、ようやく言葉にしたのは、諦めの終着点。
己の命を、捨て行けという意思表示。
決意と言うほど、深い考えも覚悟も無く。
鈍くなった思考が無責任に言葉を吐き出させていた。
きっとこんな弱いボクじゃあ、この先も生きられないと、それだけはハッキリ解っていた。
自分が足かせになってしまうことで、彼を死なせたくはない。
何も守れなかった、行動すらできなかった自分の弱さ。
弱いボクに、もう生きる資格などありはしない。
――彼は気づいていないだろうが、ボクには見えていた。
建物の影から、ボクら三人を見つめる視線たち。
幾つも……いくつも、いくつも、いくつも、いくつも。いくつも……何個も、なんこも。
ボクら三人を、じっと無言でそれらは見ていた。
ボクらが倒れ……諦めるその瞬間を、じっと待っているのだ。
せめて、二人だけでも――生き残って欲しい。
最後の望みとして、…………彼に別れを告げたのだ。
「ふざけるな、よ。…………ふっ――ざけんなぁあああああああああ!」
少年の喉は煙に焼かれて掠れきっていたが、ボクにはしっかり届いていた。
きっと彼も『闇に潜む者たち』に気がついていたのだ。だから、あらん限りの声で拒絶した。
暗闇に向かって。強い感情や、光を嫌う〝無数のそれら〟に対して。
――――自分たちはまだやれる。お前らなんかに喰われてたまるか、と。
手首が更に強く握りこまれて、血流が止まってしまいそうだった。
「ウアアアアアアァァーッ! もう、誰も死なせはしないッ! ミズキは命を賭けてオレ達を助けたんだぞ! あの人の思いを裏切るんじゃねえ!」
自分に対して怒っているのか、それとも失ってしまった人たちに対しての悲しみが声になって発せられたのか……本人でさえもきっと感情に判別がついていないのかもしれない。
「絶対……ぜったいに、助けてやる! エリィも――お前もッ!」
停止させていた感情に、彼の……間宮十河の心が入り込んで来た気がした。
「…………うぅ。うぁああああ。ああ、ぁあ、あああ……あァァ」
堰を切ったように泣き出す。涙が止まらない。
死んだ人たち。生き残った自分たち。
守れなかった。何もできなかった。
こんなにも無力なボクを生かそうとしてくれる――友達。
煤で汚れた頬に、涙の跡が通る。
絶望しかない未来であるというのに……。
彼は今ある煌々と放たれる濃厚な死から逃れようと、何も見えない暗闇へと向かう。
意識戻らないエリィの銀髪が、十河の動きに合わせて、ゆらゆら揺れる。
――生きる。それだけの為に全身全霊を尽くしている。十河の心に振り返る余裕すら無く。
進む方向を見つめたまま、ボクに叫んだ。
「最後の瞬間まで……諦めるんじゃない! 生き抜くんだと……ここで、誓えッ!」
「……う、ん。…………うぅ。…………。ご、…………ごめん。…………ごめんね。…………とうがぁ……うぅ、うう」
「謝る元気があるんだったら、自分の力で歩け! いいな!?」
手を引かれる強さが緩んだ。歩く速度に変わりはない。
即ち……ボクが自らの力で歩き出していた証拠だった。
十河は完全に乾いてしまった顔の血を、爪を立てて刮ぎ落とし、再び手を掴んで引いた。握ってきた手は血とは別の何かで――酷く濡れていた。
それが彼の涙であると、ようやく気がつき、ボクの心は潰されそうになる。彼も同じ気持ち……同じだけの絶望を感じているのに。ボクは自分のことしか考えていなかった。
「生きてやるぞ……ぜったい…………絶対に……」
どんなに追い込まれていようとも、十河は悔しさで流れる涙を見せず。
――――ただ、前だけを見て進む。
ボクたちが、安全なところへ逃げ切るまで。その手は決して離れなかった。
この手がなかったら――ボクの未来は存在していなかっただろう。
一度は捨てたこの命を引き上げてくれた手を、十河の行く先を見る背中を。
どんなことがあっても忘れまいと、両目に焼き付けながら。
――――絶対に強くなるのだと、この心に誓った。