<Prologue>
濃密な霧の中、一団は進む。
既に、どちらに進んでいるのかも解らなくなっていた。
方位を測定する端末も、この特殊な『霧』の中ではもはや役に立たない。
北を進んだと思ったら、ものの十メートル進んだだけで、西に変わってしまうのだ。
機材がおかしいのか、あるいは移動している我々がおかしくなってしまったのか。
現状では、それを判別する術はなく……。
――――この空間では、常識が通じない。
初めから覚悟を決めていたというのに。
いざ非常識に晒され続けていると、平静ではいられなくなってくる。
携えているライフルが重い。
常日頃から鍛えていたとはいえ……
訓練で慣れているはずの疲弊が、苦痛と感じている。
これは疲労だけが要因ではない。男は客観的に分析し、認識していた。
終わりの見えない進行。訓練とは違う緊張感。
肉体的疲労よりも、精神的な過重は、
予想以上に、大きな負荷を与えていた。
「一体……どうなっているんだ」
混乱と焦り……そして、徐々に膨らんでゆく恐怖感。
始まりは――任務中に仲間が忽然と姿を消したことで、幕を開けた。
常識的に考えても、はぐれることなどえりえない。
最低でも二人一組の行動を義務づけていたのだから……。
だというのに――仲間の片割れが叫びながら本隊に合流してきたことで、
事態は深刻なものへと変わったのだ。
無線で消えた仲間に連絡を試みるものの、
耳障りなノイズが聞こえてくるだけで、彼の肉声は帰ってこない。
こうして、任務は中断され――消えた仲間の捜索に乗り出したのだった。
白色の濃霧によって景観が削がれ、はっきりと見て取れるのは、砕けた国道のコンクリート。
かつては一日に何百万台と車が激しく行き交い、絶え間なく機能していたであろう道も、
今となっては車どころか誰一人いない、完全な無人。
人が作り上げた形とは、常に人が維持管理していなければ、瞬く間に風化してしまうものであると、強く物語っていた。
地面は所々に隆起し、小さな裂け目からは錆色の濁った水が沸いていて、
あちこちに乗り捨てられている車が、まるで墓標のように並ぶ。
うんざりして見上げてみれば、開けた空など見えるはずもなく。
距離感の掴めない霧が掛かるばかり。
道路は西から東へ、まっすぐ伸びている。
一本道のはずなのに、どうして方向が狂うのか不思議でしょうがなかった。
薄寒い空気には、どこか腐臭が漂ってくる。
とうに麻痺し、眠りについていた嗅覚でさえも、叩き起こされる程の強さ。
「…………っ」
腐臭の正体はすぐに明らかとなった。
国道を、道なりに進み続けた先。
地面に転がっていた死体が一団を迎えた。それも一体や二体ではない。
夥しい量の死体が山となって、堆く積まれていた。
老若男女すら判別が難しいほど朽ちていて、
無数の手足が山から飛び出し、
頭部があらゆる方向へと向けられている。
自然に重なって、このような形が出来あがったわけではなく――。
わざわざ周囲の死体をかき集めて、何者かが一箇所に集めたのだと、口に出さずとも誰もが同じ考えに辿り着いた。
――死骸の山の一角。
不自然なほど綺麗な状態の――仲間も加えられていた。
ついさっきまで一緒に歩いていたはずの隊員。
恐怖によって開かれた目。表情には驚きと苦悶の感情が焼き付き、
――見るも無惨な肉塊へと変貌を遂げていた。
「くっそ! 駄目だったか。…………全員に通達。任務継続は不可能だ。速やかにこの場から撤退するぞ」
「ちょ、ちょっとまってくれ」
「…………何か、意見でも?」
隊長の指揮に反したは、武器を持っていない、最低限のバックパックだけを背負った男。
痩せた手足。筋力とは無縁の体躯。
周りの隊員と比べれば、明らかに浮いた存在の中年男は言う。
「…………ココまで来ておいて……まだ、まだ他にもサンプルが……」
彼は目の前に犠牲者が居ながらもなお、自分の欲に忠実だった。
「俺は全員の命を預かって、行動を指示している……ココに来るまで多くの人間が死んだ。…………いくらアンタが国から派遣されてきた人間だろうが、これ以上、好き勝手な注文で部下の命を危険に晒すことはできない」
「…………ッ」
地面を見つめながら小さな舌打ちをする。
「任務は中止だ…………いいな? 博士」
歯噛みしつつ、ようやく根負けしたのか、
博士と呼ばれた中年男は、不満を顕わにし、わざとらしい溜息を吐き出した。
……どこまでも、嫌味な男だ。
彼の警護が命令で無ければ、この場で置き去りにしてやりたい。
「よし。行動開始。注意しろ…………周囲の警戒を怠るな…………このまま後退するぞ」
無線で指示し、先陣を切る隊長。
冷静を装っているつもりなのだろうが、明らかに動揺していた。
全員は疲労も忘れるほどに、周囲へと意識を集中させる。
――この場所に来るまでは、誰もこうなることを予想していなかった。
何事なく任務を終えて、普通に帰れると信じて疑わなかった。
夢だとしたら、悪夢そのもの。
醒めない夢だとするならば……それは――。
「ぎッ! ――ヒッッ!! ぎゃああああああああああ!」
――静寂は突如として破られ、
獣のような絶叫は、木霊すること無く濃霧に染みこんだ。
無線と肉声、同時に飛び込んできた悲鳴。
全員の心臓が止まりそうになった。
悲鳴に気がついた他のメンバーは陣形を乱すことなく、急ぎ足で近づいてくる。
「ど、どうしたっ」
蹲る兵士は顔面を蒼白させ痛みに喘ぎ、悲鳴を上げ続けた。
肘から先を、力任せに引きちぎられたような傷から、夥しい鮮血が溢れる。
「……ひでえ」
となりで青ざめた仲間が思わずつぶやき、
駆け寄る衛生兵によって止血処置が施される。
「全員、防御態勢! 敵は近くにいるぞ!」
負傷した兵士を取り囲むようにして円形の陣を組み、各々が四方にライフルを構える。
「U ・ P ・C、調べろ!」
戦闘探察兵である一人が、UPCと呼ばれる重厚な端末を操作し、
「カウンターにイエローを確認ッ! ……さ、さっきまではこんな反応、無かったはずなのに……」
「まだ。まだ私は、こんな所で死にたくない! 君たちは、私を守るために居るんだろ! ――――な、なんとかしろッ!」
肩を揺さぶられ、苛立ちが頂点に達した隊長は、彼を足蹴にしながら引き剥がす。
「…………方向指示ッ!」
尻餅をついて恐怖に歪む博士を無視する形で、隊長は叫んだ。
「来ました! 前方に動体反応ッ!」
聞くや否や。反応は早く。全員が同じ方向へと銃口を向けた。
地面には指し示す標識のように、血が点々と付着し、視線辿る先には。
――確かな存在をもって、歪な影が揺らめいていた。
幻覚でも、霧が演出する錯覚でも無い。
霧の向こう側、確かに何かが居るのだ。
おおよそ人間の形状とは、ほど遠いシルエット。
全身から棘のような突起を伸ばし、
二本の腕――いや、腕が複数あるのだろうか。
実際の所どこからが腕で、どこから足かの判別はできかねる。
それほど生き物としての形態を乱しており、
その何かは、腕を咥えていた。
「……………………くッ!」
正に咥えることの出来る部分が、
――口であり、
――頭であり、
――顎であり、
……咥えている腕は、人間の腕。
衛生兵によって治療を受け、うめき声を上げている彼の肉体。
全員の緊張が瞬時にして臨界点を振り切った。
小さな悲鳴を上げる者。
息を止めて感情を押し殺す者。
冷静に、引き金に全神経を集中させる者。
呼吸が異常に乱れている者。
逃げ出したり、単独行動に出なかった人間がいなかっただけ、十分に評価と値する。
「――パーアライズ!! 自分たちの役割を思い出せ! やることは一つだ!」
通信機を介さずとも鼓膜を突くほど、良く通った隊長の呼号。
その一言で指針をまとめられた気がした。同時に全員が再認識する。
……自分たちがいま、何をしなければいけないのかを。
彼らは倣い、銃を構える全員が『パーアライズ』と復誦した。
揺らめく影は、声を発したこちらを見つめるや否や、
切り取った腕を無造作に吐き出し、逸散に突進してきた。
「っく、化け物め、…………――撃てぇッ!」
吐き捨てられた腕が、
高く弧を描いて落ちる前に、
各自の銃口から弾丸が吐き出され、
銃声は深い霧の中で飲み込まれ、
やはり響きわたる事は無かった。