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あやかしの棲む家  作者: 秋月瑛
其之壱 「双生児」
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其之壱 「双生児(9)」

 その声がするまで、気配すら感じることができなかった。

「お嬢様、どうかいたしましたか?」

 おそらく、この声は瑶子のもの。

 美花は目を開け、瞳孔を開いて絶句した。

 それはまるで着物に咲いた花のよう。瑶子の前進は血みどろに汚れていた。

 美花は息を呑んだ。

「ど、どうしたの?」

「驚かせてしまって申し訳ありません。気づいたらこんな姿で廊下にひとり立っていたんです。急いで着替えようと思いまして部屋に戻る途中、お嬢様の姿が見えたので……美花お嬢様ですよね?」

「はい、美花です」

「よかった、ちゃんと見分けがつくみたいです」

 にっこりと瑶子は笑った。

 こんな状況でよくそんな笑顔ができるものだ。瑶子は美花の身に起こったことを知らない。それを差し引いても、血で汚れた着物を自身が着ていて、恐怖に駆られたりしていないのだろうか?

 美花は恐る恐る尋ねる。

「その血に検討はないのですか?」

「さあ、何の血なんでしょう。よくあるんです、こんなこと」

 恐ろしいことを平気な顔をしてさらりと言った。

 美花はぞっとせずにはいられない。

 この屋敷の中で唯一親近感があった瑶子。だが、やはりこの娘も屋敷の住人。

「着物に血がついているのに、屋敷の誰も怪我をしてないんですよ。家畜を含めて誰も血を流す怪我なんかしていないのに、こうやって着物に血がついてるんですよ、不思議ですよね」

 それはいったい何の血なのか?

 屋敷のモノの血ではない。屋敷に他人がいるのか、それとも血ではないのかもしれない。

 現実を逃避して、これが悪夢であればどんなに心が安らぐことだろうか。

 嗚呼、この生臭い香り。

 瑶子が美花に差し伸べた手は赤く汚れていた。その手を取らずに美花は立ち上がった。

 疑心暗鬼に駆られる美花の心。

 目の前にいる瑶子を信じていいものか。

 血だらけの女。いたいけな笑顔。心の奥まで見ることは叶わない。

 いつ裏切られるのか。

 信じたい。

 何かを信じたい。

 屈託のない笑みを浮かべる瑶子。

「お部屋までご案内しますね」

 そこが帰るべき場所とは思えず、美花は首を大きく横に振った。

「部屋には帰りません。屋敷の外に案内してもらえないでしょうか?」

「こんな夜更けに屋敷の外へ?」

「この屋敷にわたしの居場所はありませんから。姉に殺されるのも殺すのも嫌。もう決めました逃げると」

 なぜか瑶子は絶句した。なぜなら瑶子は知らされていなかったからだ。

「美咲さまに殺される? そんな物騒なこと……いったい何が?」

 驚きに驚きで返す美花。

「聞かされていないの? わたしたちが殺し合わなければならないこと……」

「殺し合う? どうしてですか、血の繋がった姉妹なのに、どうしてそんなことをしなければいけないんですか!?」

「わたしだってわからない。けれど姉はわたしを殺そうとしたの、それは起きてしまった事実、変えられない事実なの」

 美花の躰に起こっている老化現象は事実。片割れの肝を喰らえば、それが止まるというのは不確定。美咲が美花を殺そうとしたことは事実。

 殺すか殺されるか、それだけが選択肢ではない。美花は逃げることを選んだ。ただし、その選択が成就されるとは限らない。

 今のままでは決して成就されることはない。もっとも大きな問題は屋敷と外の世界の境界線を越えられないこと。境界線そのものに『何か』があるというより、あの感覚は引っ張り戻される感じだった。

 瑶子は美花を屋敷の外に連れ出してくれた。玄関を通らずに渡り廊下から外に出た。

 履き物を履く余裕はなく、素足だったが、それでも構わない。いつどこから美咲が、それとも別の『何か』が現れるともしれなかった。

 巨大な屋敷を出て、庭先で瑶子の足が止まる。

「あたしはこれ以上進めません」

 垣根はすぐそこだった。

「ありがとう」

 と、美花は静かに言った。

 瑶子に背を向けて走り出そうとした美花。その背中に声をかける少女。

「どこへ行くの美花、わたしを置いて?」

 ぞっとして振り返ると、そこには美咲が佇んでいた。

 なぜか哀しい表情をしている美咲。

「どうしてわたしを置いていこうとするの?」

「わたしを殺そうとしているお姉様がどうしてそんなことを言うのですか?」

 美咲が美花を殺そうとしなければ、逃げる理由などどこにもないのに、なぜそんなことを言われるのかわからなかった。

 最初から逃げようと思っていたわけではない。残される姉のことを考え、躊躇っていたときもあった。けれど、姉が自分を殺そうとする現実を前に、逃げずにはいらないところまで追い詰められたのだ。

 ――追い詰めたのは貴女なのに。

「わたしを置いていくの?」

 美咲は言葉を繰り返した。

 虚ろげな哀しみ。姉のそんな表情に美花とまどった。それは人を殺そうとする者の表情なのか。

 しかし、虚ろなまま美咲はこう呟いた。

「……許さないから」

 その声はどこまでも響き、美花の胸に突き刺さった。

 短刀を握り直す美咲。

「逃がさないわよ、貴女だけ運命から逃れようとするなんて、わたしは絶対に許さない!」

 狂気に染まった美咲は美花に飛びかかろうとする。その前に立ちはだかった瑶子。

「駄目です、こんなこと!」

「退きなさい!」

「きゃっ!」

 美咲には瑶子を押し飛ばし美花を追い詰める。

 もう逃げる道以外ない。美花は全速力で走り垣根に手を伸ばした――刹那。

 体中を締め付ける糸。

 夜の闇に光る銀色の糸が美花の眼にもしっかりと見えた。

 糸は網の目のように、いや、逃げ場のない蜘蛛の巣のように、至る所に張り巡らされていた。

 一心不乱で糸を振り払いながら美花は逃げようとした。

 だが、糸は幾重にも美花の躰に巻き付き、決しては逃がそうとはしない。

 次から次へと飛んで来る糸。その糸の先にいる少女を美花は見てしまった。

 嗚呼、何かに憑かれたように白目を剥き、糸を口から吐き出す瑶子の姿。

 どうして、どうして、先ほどまで逃がそうとしてくれていたのに、どうして?

 すべては嘘だったのか、また裏切られてしまったのか、美花は為す術もなく垣根から引き離された。

 地面に這い蹲る美花を冷たく美咲は見下した。

「きゃはははは、この屋敷からは誰も逃げられないのよ。でも、やっと逃げ出す方法がわかったわ。まずはあなたを殺して、次にあの怪物も殺してくれる!」

 鋭い美咲の視線が瑶子に向けられた。

 獣というより、それはもはや蜘蛛のような格好で、瑶子は地面を這いながら闇の中へと逃げてしまった。

 月明かりに翳る美咲の邪悪な顔。

 短刀の切っ先が仄めく。

 美花は小石を砂ごと握って投げつけた。

 美咲が顔を伏せる。その手は額に当てられている。

 ゆっくりと退けられた美咲の手には、べっとりと血がついていた。そして、眉尻の辺りから流れる鮮血。

 冷たい風が流れた。

「よくも、よくもやってくれたわね!」

 美咲が美花にのし掛かり馬乗りになった。

 髪を振り乱しながら絡み合いもつれ合う双子の姉妹。

 姉が上になり、妹が上になり、地面を幾重にも転がった。

 いつしか星空は曇天に覆われ、夜更けだというのに空は赤黒く染まり、稲光が轟々と奔った。

 泥だらけになりながら姉妹は必死の攻防を続けた。

 上になったのはどちらか?

 短刀が振り上げられた。それを持つ少女の顔に傷はない。

 下になっている少女が嗤った。

「やりなさいよ、あなたにできるものならね!」

 できなかった。

 美花は短刀を遠くへ投げ飛ばした。そしてうなだれた。

「こんなことしたくないのに……なんで」

「なんでなんて愚問よ、生きるためだわ」

「生きるために殺し合うなんて間違ってる」

「それは人間の理屈ね。ほかの動物は生き残るためなら家族も喰うわ」

「だからって……本当に相手を喰らえば老化が止まって生きられるとは限らない」

「そうね、すべて嘘かもしれないわ。でも、この屋敷にいればどんなことだってありえる。死んでから本当だったと気づいても遅いのよ、だから……わたしはあなたを殺す!」

 下になっていた美咲が手を伸ばし、か細い美花の首を強く絞めた。

 声も出せないほどに絞まる首。

 ふつりと切れる理性の糸。

 恐ろしい鬼女の形相をしているのは美花。

 美花は美咲の首を絞め返し、そのまま何度も何度も美咲の後頭部を地面に打ち付けた。

 人形のように揺れる美咲の躰。

 もう美咲の手は美花の首から離され、泥水に浸かっている。それでも美花は美咲の首を絞め続け、頭を地面に打ち続けた。

 土砂降りの雨、泣き叫ぶ雷光、美花の叫び声も涙もすべて呑まれた。

 美花の腕が何者かによって強く掴まれた。

「なんてことを……」

 悲痛な声を漏らしたのは静枝だった。

 稲光に照らされた母の顔を見た美花は我に返り、頭から血を流す美咲の姿を見て絶叫した。

「いやぁぁぁぁぁっ!」

 そして、美花は気を失って泥の中に身を沈めた。

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