其之壱 「双生児(8)」
美咲は深いため息を吐いた。
「きっと菊乃はここの存在を知っていたかもしれないわ。本当に使えない女、必要最低限のことしかしないのだから。あの馬鹿女のせいで、侵入者まで放置だわ」
美咲は鋭い眼付きで克哉を睨んだ。
克哉の警戒心は美花と出会った時と比べ物にならないほど強い。
「侵入者は殺しますか?」
「私は殺した覚えがないわ。気づくといつも気配が消えているの。きっと家に棲む何かが処分しているのね、悔しいわ」
「今まで覚えがなくても、機会があれば殺すと解釈しましたが?」
「そうよ!」
美花が短刀で切りかかる。
刃が交じり合った。
克哉が抜いた短剣が美咲の短刀を受けた。
二人の顔が互いの呼吸が聞こえる距離まで近づいている。
美咲が不適に笑う。
「本物の男を見るのはこれがはじめて、それもこんな間近で見られるなんて。身体の隅々まで観察してみたいわ」
「それはお断りで」
克哉は交合う刃ごと美咲を押し飛ばした。
狂気に駆られているとはいえ、大の大人と少女の力の差は歴然。美咲は大きく飛ばされた反動で、近くにあった本の山に突っ込んだ。
大量の埃が舞う。
克哉が咳き込んだ。
本の山に埋もれたまま美咲は動かない。
美花は二人から眼を離せないで居た。
二人が争っている間に逃げる機会はいくらでもあった。けれど、多くの想いが重なって美花が逃げることができない。
倒れたまま美咲はいっこうに動かない。
不安と心配で美花は美咲に一歩近づいた。
まだ美咲は動かない。
美花はまた一歩だけ近づいた。
そして、もう一歩、二歩……三歩。
美花が美咲に手を伸ばそうとした瞬間、その手を克哉が掴んだ。
驚いた顔をして美花が見ると、克哉は首を横に振って自らが美咲の様子を探ろうと近づいた。
まったく動かない美咲。
だが、その手はしっかりと短刀を握り締めていた。
気づいた克哉が避けようとした時は遅かった。
短刀は美咲の手を離れて宙を趨った。
眼を剥く克哉。その腹に刺さった短刀。
「糞ッ、俺としたことが……」
汗が滲む手で克哉は短剣を握り締め、倒れる美咲に突き刺そうと振り下げようとした。
美花が叫ぶ。
「殺さないで!」
未だに姉を庇う妹。
己を殺そうとする者を庇う心境。
克哉の手が鈍った。
その隙を衝いて美咲が動こうとするよりも早く、それは起きた。
克哉の身体が宙を浮き、突然に後ろへ引っ張られたのだ。
暗い闇の中に克哉が消えた。
そして――。
「ギャァァァァァッ!」
男の断末魔。
ぐりゃりと肉が潰れる音。
骨が砕かれる甲高い音。
歯を鳴らしながら何かを喰らう音。
何が起きているのかわからない恐怖。
美花はその場に立ち尽くし、美咲ですら動くことを忘れた。
暗い闇の向うに潜む者の影。
微かに見えるその姿は、手足が長く虫のように床を這う影。
美花の足元に何かが転がって来た。
恐怖の形相を浮かべ、こちらを見る男の顔――生首。
闇の向うから糸のような物が飛び、男の生首を絡め取り再び闇の中に引きずり込んでしまった。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
今まで腹の中に溜め込んでいた叫びを喉から出し、美花は周りを省みず逃げ出した。
もはやあの場所に美咲がいたことすら忘れ、ただひたすらに逃げることだけしか考えられなかった。
屋根裏を降りる階段。
美花は足を踏み外し階段を転がった。
膝を打ち、肩を打ち、腰を打ち、全身を強く打った。
最後まで転がって階段の下で美花は床に這いつくばった。
全身が痛かった。
それでも無理やり立ち上がり、ただ逃げようと必死だった。
足首が痛い。
あれだけ転がったのだ、怪我の一つや二つは当たり前だろう。
おでこに触れると、ねっとりと生暖かい血が手に付いた。頭も打っていたらしい。
全身が痛い。
それでも逃げなくてはいけない。
あの場所で何が起きたのか、闇に潜んでいたモノは何だったのか、そんなことを考える余裕すらない。ただ逃げた。
片足を引きずりながら美花は暗い暗い廊下をどこまでも逃げた。
どこに逃げたらいいのか?
逃げる場所などあるのだろうか?
道がわからない。
いったい自分がどこにいるのかすらわからない。
美花は廊下の突き当たりまで来てしまった。
足を止めたくはなかったが仕方がない。
早く別の道を探さなくては。
美花は来た道を振り向き、ここで急に冷静さが戻ってきた。
こんな闇の中を自分はどうやって逃げて来たのだろうか?
闇。
静寂。
聴こえるのは荒い呼吸と鼓動の音。
美花は息を静めようと口を閉じたが、余計に息苦しく鼓動が高鳴る。
木が軋む音が聴こえたような気がした。
天井か、廊下か、それとも別の場所からなのか。風か、鼠か、それとも人か。
美花は辺りを見渡した。
封じられた部屋。
赤い札で硬く閉ざされた部屋。
また音が聴こえた。
廊下の先だ、誰かが歩いている。
美花の視線が泳ぐ。
逃げなくは、逃げなくては、早く逃げなくては……。
美花の手が赤い札を毟り取った。
そして、無我夢中で封じられた部屋に飛び込んだのだった。
戸を閉めて、息を潜める。
もともと静かな屋敷だったが、この部屋はもっと静かだった。
畳が異様に冷たい。
流れる空気も氷のように冷たい。
棺桶のような場所。その表現がもっとも適切かもしれない。
この場所では何も生きていない。
場違いな生者の美花は息を呑んだ。
なぜ、この部屋は封じられていたのか?
締め切られた雨戸。そこから屋敷の外に出られるかもしれない。
屋敷の外に出ても、敷地内から出ることはできない。
それでも屋敷を出る。そして、敷地内から出る方法も見つけたい。
雨戸にも赤い札が貼られていた。それも一枚、二枚ではなく、戸の隙間を塞ぐように貼られている。
その札の一枚に触れようと手を伸ばした時、風が流れた。
風など流れる筈がないのに、札が次々と揺れる。
部屋に明かりが差し込んだ。
急に美花の腕が掴まれた。
驚いた美花の瞳に映った無表情の少女――菊乃。
菊乃は何も言わず骨が折れるほどの力で美花を部屋の外に引きずり出した。
風――いや、唸り声。
部屋の奥から次々と声が上がった。
泣き叫ぶ女の声、怒鳴るような男の声。
菊乃はまったく動じず、戸を閉め赤い札で部屋を封じた。
そして、廊下に尻をついている美花に視線を向ける。
「封じられた部屋には決して立ち入り――」
言葉の途中で部屋の中から戸にぶつかったような音を揺れ。何かが戸を突き破ろうとしている。
二度、三度、大きな音を立てながら戸が激しく揺れた。
それでも菊乃はまったく動じなかった。
「時が来るまで決して封印を解かないでくださいませ」
「時?」
「中にいるモノが消滅するまで。美花様が開けてしまわれたので、五十年ほどまた封じて置かなければなりません」
「……ごめんなさい」
中に何が居たのか、なぜ封じて置かなければならないのか、漠然としつつも理由ではない。美花は理解できずとも話を受け入れることができた。
戸を揺らした音もいつの間にか止んでいた。
まだ廊下に尻をついていた美花に菊乃が手を貸した。
「夜はご自分のお部屋を出ることをお勧めいたしません。お部屋までご案内いたします」
出るなと言われても、居たくてこんな場所にいたわけではない。自分の部屋に戻ることも不安だ。
立ち上がった美花はその場から動くことができなかった。
「部屋には戻りたくありません」
菊乃は無言で美花を見つめた。美花が何も言わなければ、ずっとその瞳で見つめられていそうだ。
「部屋には戻れません。お姉さまが……お姉さまに会いたくありません」
菊乃から問うことはないのだろう。必要最低限の質問だけに答え、自ら相手に問うことはしない。菊乃はただじっと美花を見据えている。
美花の喉の奥に詰まっている言葉。
言わないのならば問わない。菊乃は歩き出そうとしていた。
「お部屋までご案内いたします」
行燈で照らされる廊下。
美花は歩けなかった。
「……お姉さまはわたしを殺そうとしています」
「知っております」
やはり、そのような大事が屋敷内で行われることを、屋敷の住人たちが知らされてしない筈がなかった。
美花は強く手を握り締めた。
「わたしはそんなことをしたくないのに。助けてください、助けてくださいお願いします」
「それはできません。わたくしが邪魔をすることは許されておりません。ただし、必要な物があればなんなりとお申し付けください、簡単な武器ならばすぐに調達いたします」
敵でも味方でもない。かと言って中立と呼ぶのも適切でないように感じる。
ただ美花は孤独だった。
顔は無表情なままなのに、菊乃が慌てたように美花に駆け寄った。
轟々と風が叫ぶ。
次の瞬間、戸が破壊され黒い風が封印された部屋から飛び出した。
美花を庇って菊乃が突き飛ばした。
黒い風が菊乃と衝突した。
風が叫ぶ。
菊乃の身体が飛んだ。まるで体重を感じさせない。廊下の闇の中に行燈の光が飲み込まれていく。それは吹き飛ばされたというより、連れ去られたようだった。
追うべきか、追わざるべきか、美花は重い足を引きずって菊乃の後を追った。
暗い廊下。
美花は何かに躓いた。
廊下に転がるそれを見て、美花は全身を強張らせた。
それはまるで人間の腕だった。
美花は恐怖で顔を歪めながら逃げた。
一心不乱で逃げる美花の足にまた何かがぶつかった。
見るのが怖かった。
美花は見て確かめることをせず逃げた。
しばらくして、前方に明かりが見えてきた。
行燈が床に落ちている。
それに近づこうとした美花の足が急に止まる。
行燈のすぐ近くに転がる何か。
こちらを見ている。
菊乃の見開かれた瞳がこちらを見ている。瞬きもせず、ただじっとこちらを見ている。
――躰はない。
美花は急いで来た道を引き返す。
見間違えだったかもしれない。しかし、近くでそれを確かめることはできなかった。
あまりにも恐ろしすぎる出来事。
嗚呼、どこに逃げても同じなのではないか?
美花の全身から力が抜けた。
壁に寄りかかり、冷たい廊下に尻を付ける。
もう立つことはできない。
一度、床に腰を下ろしてしまったら、もう立ち上がるのは難しい。
ここで眼を閉じて視界から逃れてしまったら、再び瞳を開けることは難しい。
しかし、眼を閉じ、今置かれている状況を忘れることができれば。
眼を開けた時、全てが悪夢だったなら。
美花は静かに瞳を閉じた。