其之漆「隠された物語(4)」
月が嗤っていた。
冷たい風は異様な湿気を含んでいる。
その女は髪を靡かせ、屋敷の屋根に立っていた。
「なにか用かしら?」
慶子は不気味に微笑みながら振り返った。
その先に立っていたのは、強ばった顔をした静枝。
「貴女を殺しに」
脅迫して静枝のほうが額に汗を滲ませている。
禍々しい。
慶子の周りで渦巻く不穏な空気。
「あたくしたち友達でしょう?」
「わたしを孕ませたのは誰か……おぼろげな記憶、おぼろげな幻影」
「なんの話をしているのかしら?」
「人間をやめて鼻が利くようになったわ。人間でないモノを嗅ぎ分けられるようになった。そして、わたしは思い出した……悪魔の顔を!」
にやりと慶子が嗤った。
「なんの話をしているのか、さっぱりわからないわ」
「一つだけ聞かせて頂戴。美咲と美花は誰の子?」
「――悪魔の子」
ざわざわざわ……静枝の肌が粟立った。
殺気。
膨れ上がった狂気が爆発して、静枝の躰を突き破り八本の長い脚が飛び出した。
「美咲と美花はわたしとお姉さまの子よッ!」
巨大な蜘蛛の影が月に描かれた。
「ええ、悪魔の子なんて嘘よ。あれは正真正銘、あなたの子よ」
その言葉を聞いた静枝の動きが鈍った。
カッと開かれた慶子の眼はまるで蛇。
白い月を背にして飛び散った紅い血。
――いったいなにが起きたのか?
口元から血を零した静枝は穏やかに微笑んでいたのだった。
「キャァァァッ!」
甲高い女の悲鳴が早朝から響き渡った。
場所は屋敷の外だ。おそらく玄関先。
菊乃は足音を響かせながら廊下を駆ける。
開かれたままになっている玄関先には、瑶子が眼を剥いて立ち尽くしていた。
彼女はいったいなにを見て固まっているのか?
血の気の失せた蒼い顔。瑶子ではなく、そこにあった首だ。
静枝の生首が玄関先に置かれていたのだ。
「お母様……ッ!」
遅れてやって来た美咲が絶句した。
不気味なことに、生首は魔法陣の上に置かれていた。星を模様を用いる図形を日本の陰陽道にもあるが、ここに描かれたものには得体の知れない文字が描かれている。この書式は和語や漢語というよりも、洋語に見えるような気がする。
最後にやって来たのは慶子だった。
「なんてこと、静枝……が……なにがあったの……おそろしい、おそろしいわ!」
怯えたように慶子は喚いた。
このとき美咲は冷静に周りの顔を確かめていた。
取り乱し怯えた慶子。
眼を剥いたまま固まっている瑶子。
無表情で静かに佇む菊乃。
そして、屋敷の物陰から視線を感じた。
美咲がそちらに目を遣ると、逃げていくるりあの後ろ姿を見えた。
「いったいだれが……?」
呟いて美咲はうつむいた。
事故では決してありえない。静枝は殺されたのだ。
美花にとって、『何者に殺されたのか?』という疑問は、以前であれば愚問であった。この屋敷は得体が知れず、なにが起きても、理由はわからずとも、それが当たり前だったからだ。過去にも人間の躰の一部が、まるで食べ残したように、廊下に落ちていたことがあった。
しかし、静枝の死は違う。
ずっと黙っていた菊乃が口を凜と開く。
「この屋敷の当主は美咲様でございます。この首の処分も、これからのことも、美咲様がお決めになってください」
無情であった。
美咲は迷うことなく、すぐに返事をする。
「首は菊乃に任せるわから適当に処分して頂戴。それから全員当主の間に集まって頂戴。私は用を済ませてから行くわ」
この場からまず離れたのは美咲だった。皆を残して足早に歩き去る。
用とは屋根裏にある。廊下の隠し扉を開け、美咲は屋根裏部屋の階段を静かに上がった。
克哉は眩しそうな目で小窓の外を眺め、煙草をふかして煙で遊んでいた。
「お母様が殺されたわ」
冷たく強ばった声音で囁くように言った。小さな声だったが、その声はとても響いた。
灰から白い煙を深く吐き出した克哉が振り返る。
「殺された……だれに?」
「あなたでしょう?」
決めつけた口調だ。けれど、本当に決めつけているわけではない。相手の反応を見たいのだ。
「どうしてそう思う?」
「魔法陣の上にお母様の首が置かれていたわ。あなたの使っていた短剣を私はしっかりと覚えていたわ。西洋のものでしょう? それと魔法陣の雰囲気が似ていたわ」
「俺じゃない。証明するのは難しいかもしれないが」
「そうね、私はお前のことを信用していないもの」
信じなければ、どんな証拠も意味を成さない。
克哉は煙草の火を机に押しつけて消した。
「現場を見せてくれないか?」
「もう菊乃に片付けさせたわ」
「どこで亡くなっていた?」
「玄関先よ」
「なるほど……見せつけるためか、それとも別の意味が、とにかく意図があるはずだ」
ただの殺人ならば屍体を隠す。なぜならば、屍体とは犯人に繋がる証拠だからだ。
「意図?」
「それはわからない。ただ目的はどうであれ、犯人は自分の存在を誇示する結果になった。つまり、いるんだよ、存在してるんだ。何者かが実際に存在してるんだ」
「なにを言っているの?」
「もうこの屋敷に封印されていた鬼はいない。奴らがいたら、俺は真っ先にそいつらを疑っただろう。屋敷の関係者、俺も含めてな――の犯行か、それとも外から新たな存在が来たか。この屋敷に侵入するのは容易だが、生き残るのは簡単じゃない。ましてや、あの静枝さんを殺すなんて」
まだ克哉の耳には残っている。鬼人の断末魔。骨と肉を喰らうおぞましき音。
しばらく黙した克哉は、気持ちを切り替えるように顔を上げて、美咲を真剣な眼差しで見つめた。
「この屋敷に必要ないのはだれだと思う?」
「全員よ」
「美咲お嬢さんにとってはそうかもしれない。俺は君が新たな当主となった今、静枝さんはもう用済みだったと思ってる。必要なら、中身を殺して、外見だけを美花お嬢さんのように使うことだってできた。まあ、同じ手を使ってくるとも考えづらいが」
「しいていうなら、この屋敷に必要なのは、私と菊乃と瑶子よ。あとは部外者だもの」
「その部外者がじつは重要なのかもしれない」
克哉と美咲では立ち位置が違う。見えているものが違えば、もっている情報も違う。
「そろそろ行くわ。全員、当主の間に集まるように言ってあるの。あなたも来る?」
と、美咲は尋ねたが、克哉は手を振った。
「いや、俺はここから覗いてるよ」
そして、美咲は元来た隠し階段を下りていった。
残された克哉が静かに呟く。
「俺からしてみれば、本当の部外者はあの女先生だけだ」
当主の間に美咲が入ると、三人が正座をしていた。
「るりあは?」
美咲が尋ねると、すぐに返事をしたのは瑶子だった。
「探したんですけど、どこにもいなくて。やっぱりもう一度探してきたほうがいいでしょうか?」
「必要ないわ、居ても邪魔なだけだもの」
美咲は座った。その場所は静枝がいつもいた場所。静枝の時代にはなかった座布団が敷かれていた。
視線が美咲に集中する。
そして、新たな当主は話しはじめた。
「菊乃には伝えてあったけれど、妹の美花は一族の掟に従って、昨晩、私が殺したわ。そして、母も亡くなり、この屋敷の当主は私となった。まずはじめに、あなた方の処遇について話しましょう。とくに慶子先生は元々部外者、この屋敷に留まる理由はまだあるかしら。とは言っても、この屋敷からは出られないけれど」
「あたくしは静枝さんに呼ばれてこの屋敷に来たわ。目的は家庭教師として、真の目的は一族の呪いを調べるため。どちらの目的も静枝さんが亡くなったあとも継続するものだと思っているわ。だからあたくしはこれまで通りね」
慶子の続いて菊乃が口を開く。
「わたくしはこの屋敷に仕えるのが役目でございます」
慌てて瑶子は身を乗り出す。
「はい、あたしもがんばってお仕事させていただきます!」
美咲は三人を順番に見てから、小さく頷いた。
「次にお母様の死について。みんなは誰が殺したと思う?」
挑発するように不気味に美咲は微笑んだ。
周りは凍り付いたように口を閉ざし固まっている。
美咲は声を出して笑う。
「うふふふ、本当は興味なんてないの。むしろ狂った老害がいなくなってよかったと思っているわ。でも……私にも危害を加えるつもりなら容赦しないから」
鋭い眼をして美咲は三人を睨み、周りを見回し、天井を見上げ、この屋敷全体を睨みつけた。見えない敵への警告。
このとき慶子は誰にも悟られないように、微かな艶笑を口元に浮かべていた。
息をついて美咲は菊乃に顔を向けた。
「当主になってなにかすることがある?」
「特にはございません。当主になった者は――」
障子が開かれ、男が部屋に入ってきた。
「ちょっとその話待ってくれませんかねえ」
入ってきた克哉に瑶子は驚いた。
「だれですか!?」
「ルポライターが本業ですが、まあ今は個人的な用事で参上しました」
面識のある美咲は知らない振りをしている。瑶子はあたふたとし、慶子は口元に艶笑を浮かべている。口を開いたのは菊乃だった。
「どこのどなたが存じ上げませんが、早々に立ち去ってください。ただし、この屋敷の敷地内からは出ることができませんが」
茶番だった。
「知ってますよ」
克哉は隠し持っていた護符を刹那うちに瑶子の額に貼り付けた。
意思を失い倒れた瑶子。息はある。
「驚かせてすみませんねえ。本人の前では話しづらいもんで」
人なつっこい笑みで克哉は笑い、畳にあぐらを掻いて座った。
慶子が克哉に尋ねる。
「あなた何者ですの?」
「先ほども言いましたがルポライターです。もう見られてしまったので隠していても仕方ありませんが、裏の顔は退魔師でして。この屋敷のこともいろいろと調べさせてもらいました。この屋敷に足を踏み入れると、出られなくなる原因もすでにわかってます」
「教えて」
と、すぐに食い付いたのは美咲。
克哉は頷いた。
「美咲お嬢さんには秘密にしてあったみたいですがね。原因はそこで眠ってる瑶子です。彼女は蜘蛛の化身であり、この屋敷の狩人。夜更けに大きな気配を感じたことないですかね。大蜘蛛が屋敷を徘徊して、迷い人を食い殺してるんですよ。で、代々の当主は瑶子を使役してきた。そうですよね、菊乃さん?」
「外の方に教えることはなにひとつございません」
「なら続きも俺の口から話させてもらいますよ。たしかに普段は敷地内から外に出ることできない。けど不思議なことに、双子の一人が三歳になったとき、外に出ることができるんですよね。疑問に思っていたでしょう美咲お嬢さんも?」
「ええ、外に出られないとされながらも、本当は出る方法があると疑っていたもの。ああ、突然思い出したわ。あの日、たしか瑶子の姿を見かけなかったような気がする……なにか関係あるのかしら?」
克哉は話を少し変えることにした。
「美咲お嬢さん、もしも外に世界に出ることができたら、出たいと思いますか? この屋敷を捨て、一族の名も捨て、自由に生きてみたいと思いますか?」
「ええ、だってこの屋敷の生活なんて大嫌いですもの。いつも屋敷に火でも放ってやろうと思っているわ。なにもかも灰になってしまえばいいわ」
「そうですか、なら方法を教えたらすぐにでもやりそうですね。でも外に世界に逃げ出しても一族の呪いは解けませんよ。あなたがあと六年もしないうちに死ぬのは変えられない」
「私があと六年で死ぬですって!」
恐い顔をして美咲が腰を浮かせた。
「あなたのお祖母さんに会ったことはありますか?」
黙る美咲に克哉はさらに続ける。
「生きていれば肉体年齢的には三十くらいですかね。人間の平均寿命を考えれば、曾お祖母さんだって、曾々お祖母さんだって、さらに曾々々、何代先まで生きてることになるんですかね。なのに誰も生きちゃいません。双子を喰らって老化が通常の早さになってから、およそ六年で死ぬんですよ」
「お母様はもっと長生きしていたわ!」
「そのとおり、あなたのお母さんの場合は、魔のモノと合体することで寿命を先延ばしにすることに成功したんですよ。この方法は歴代の当主を参考して編み出した方法です。歴代の当主は美花さんのように、鬼に乗っ取られてたんですよ。静枝さんの代では、鬼に乗っ取られることはなかった。その代わりに美花さんが乗っ取られてしまったわけですがね」
「美花が死んだのはお母様のせいなのね!」
「そうとも言えますがね、それは静枝さんの意図したことでも望んだことでもない。それはわかってあげて欲しい。本当に悪いのは取り憑いた鬼、そして……」
言葉の続きが美咲の脳裏に浮かんだ。克哉が示唆していた黒幕の存在だ。
突然、屋敷全体が大きく揺れた。下から突き上げるような激震。屋敷が軋み畳が浮いた。座っていることすらできなかった。
このままでは屋敷が倒壊してしまうかもしれない。
それほどまでに恐ろしい揺れであった。
「克哉様、美咲様、早く外へ!」
菊乃が叫んだ。
しかし、激しい揺れで這いつくばって移動するのも困難だった。
そんな揺れが突然止まったのだ。
――新たな少女が現れたのと同時に。