其之伍 「異界の少女(2)」
「お入りなさい」
静枝の声に導かれ、るりあは瑶子と共に部屋に足を踏み入れた。
床の間の中心に静枝はいた――車椅子に拘束され。
車椅子に座る静枝はベルトで肯定され、首から下の一切の自由を奪われていた。不自由な躰は安定感に掛け、車椅子から落ちないように躰を固定することはあるが、これは違う。ベルトの数は何本にも及び、肉に食い込むほどきつく固定されているのだ。
静枝の傍らには菊乃が立っていた。このような状況だ、誰か傍についていなければ、静枝はなにをすることもできないだろう。
静枝はるりあを見るなり話を切り出した。
「慶子さんからすでに聞いているわ」
その瞳はるりあよりも鋭い。
負けじとるりあは静枝を睨み返すが、小さな躰は瑶子の後ろに隠れてしまっている。
意にも介さず静枝は話を続ける。
「自由になさい」
「はい?」
と、瑶子は首を傾げてしまった。
静枝は言葉を紡ぐ。
「その子はこの屋敷で自由にすればいいわ。ただし、面倒は瑶子が見てあげなさい」
「は、はい。ですが、それでは家事や静枝さまのお世話が至らなくなりそうで……」
「手が回らなくなった分は菊乃が負担すればいいわ。常にその子の面倒を見ろと言っているのではないのよ。必用最低限の世話をすればいいわ。貴女もあまり構われたくないでしょう?」
目を向けられたるりあは、さらに瑶子の後ろへと隠れた。
話はこれ以上なかった。静枝もるりあを深く追求することなかった。
菊乃に虫ピンの件を伝え終えた瑶子と共に、るりあは静枝を睨み続けながら部屋をあとにした。
廊下に出ると瑶子が声を掛けてきた。
「これからまた美咲さまのところに行きますけど、るりあちゃんはどうします?」
尋ねられたるりあは首を横に振った。
しかし、るりあは瑶子の手を握ったままだ。
「困りました」
瑶子がつぶやくと、背後から気配がした。
「あたくしが見ていてあげましょうか?」
るりあは素早く瑶子の背に隠れた。
現れたのは慶子だった。
「嫌われているのかしら?」
慶子は微笑んだ。
るりあが瑶子の顔を見上げた。
「よーこといっしょにいく」
「これから美咲さまのところに行きますよ?」
「いっしょにいく」
「だそうです」
と瑶子は慶子に顔を向けた。
「その子がそう言うなら仕方ありませんわね。あたくしに出来ることがあったら、いつでも声をかけてくれて宜しいのですのよ」
「ありがとうございます。では失礼します」
頭を下げて瑶子が歩き出すよりも早く、るりあが手を引いて歩き出した。
手を引かれ、少しつまずきそうになりながら瑶子は歩き出す。
二人は廊下を進み、再び美咲の部屋の近くまでやって来た。そこで瑶子は足を止めた。
「美咲さまのお部屋のお隣の部屋が美花さまのお部屋です。今はもう使われていないんですけど、ずっとそのままにしてあるんですよ」
瑶子の話にるりあからの相づちもなにもなかった。
再び少し歩き出し、隣の美咲の部屋までやって来た。
「美咲さま、失礼いたします」
瑶子が部屋の中に声をかけると、急に襖が開いた。
「遅いじゃない!」
いきなり美咲が凄い剣幕で出てきた。
静枝のところにいくと伝えてあったし、美咲自身があとでもいいと言ったにもかかわらず、理不尽な怒りである。けれど、瑶子は反論せずにすぐさま頭を下げた。
「申しわけございません」
「虫ピンはちゃんと持ってきたのでしょうね?」
「それが、菊乃さんにも聞いたんですけど、もうないとのことなので、来月分の定期便で注文しておくそうです」
「それでは遅いのよ、今すぐ買い出しに行くように菊乃に言いなさい!」
瑶子の鼻先で襖が音を立てて閉められた。言いたいことだけ言って、美咲は自室に閉じこもってしまった。
溜息をついた瑶子をるりあを見つめた。
自分を見つめる視線に気づいた瑶子は笑顔をつくった。
「今から菊乃さんに会いに、静枝さまのところに行かなくてはいけなくなりました」
るりあは瑶子から手を離した。行きたくないという意思表示か?
瑶子は膝を曲げてるりあと同じ視線に立った。
「ひとりで遊ぶなら良い子していてくださいね。無闇に物を壊さない、いたずらはしない、それから赤い札の貼ってある部屋は……あっ!」
瑶子が話し終わる前にるりあは駆け出した。
特に追ってくる気配はなかったが、瑶子はるりあの背が見えなくなるまで見つめていた。
廊下を走っていたるりあの足が止まった。そこは赤い札の貼られている部屋の前。
るりあの視線は部屋の奥を見透しているようだった。
物音が聞こえた。部屋の奥からだ。風の悪戯だろうか――窓が開いていればの話だが。
「どんな悪さした?」
るりあは言った。
誰に尋ねているのか?
るりあの顔は閉ざされた襖に向けられたまま。
強い衝撃を受けたように激しく揺れる襖。まるでそれは〝何か〟が怒り狂っているようだ。
るりあはその場から駆け出した。
屋敷中が揺れる。
廊下をるりあが駆け抜け赤い札の部屋を通り過ぎようとすると、屋敷が激しく揺れるのだ。
立ち止まったるりあが叫ぶ。
「うるさい!」
静まり返る屋敷。
るりあは再び駆け出した。屋敷に響くのはるりあの足音のみ。
屋敷はところどころ色が違った。
色というのは視覚的な意味でもそうだが、建築の雰囲気も違うようだった。
廊下の床板の色が変わる。それは増築の跡だった。
るりあがここまで来る間にも、いくつか色が変わっていた。
少しまた進むと、また床の色が変わった。
先に続いている長い廊下。
突き当たりまで走ったるりあの目の前には、木製の扉が現れた。ノブのある西洋様式だ。
るりあは急に振り返った。
「あたくしの部屋にようこそ」
現れた慶子を押し飛ばしてるりあは逃げた。
背後から突き刺さる視線。慶子の視線。るりあは振り返らず走った。
また床の色が変わった。
長い廊下。
まっすぐと続く廊下の途中に部屋はない。
その先にあったの頑丈そうな扉。木製だが、縁などは金属板や鋲がつかわれている。錠も金属製だ。
るりあは扉に耳を押し当てた。
常人では聞き逃してしまいそうな小さな物音。
枯れ葉が擦れ合うような音がした。
がさがさ。
扉の奥には何があるのか?
るりあは鍵を持っていない。
錠を握ったるりあ。
そこに慶子がやって来た。
「中が見たいのなら鍵を壊さなくとも、あたくしが案内して差し上げますのに」
今度は慶子を押し飛ばして逃げるようなことはなかった。るりあは慶子を睨みながら、扉の前の道を空けた。
慶子はどこからか太く長い鍵を取り出し、それを錠の鍵穴に差し込んだ。
錠が外れるとるりあは重い扉を押した。
薄暗い室内。
天井近くの小さな格子窓から光が漏れている。
入ってきた扉が慶子によって閉められた。
「ここにいるのは、みんなあの子ですのよ」
蠢くモノたち。
部屋中に張り巡らされた白い糸。
いくつもの巨大な繭の中で何かが蠢いている。
繭に触れようとしたるりあの腕を慶子が掴んで止めた。
「駄目ですのよ。この状態のあの子は、とてもデリケート……いえ、虚弱ですの」
慶子は途中で言葉を言い直した。
静かにるりあ繭を見つめ続けている。
ときおり、繭の中で何かが動く。まるで母胎で眠っているようだ。
慶子はこの部屋の鍵をるりあに握らせた。
「差し上げますわ。これでこの部屋はあなたの自由。何をしても構わないけれど、この子たちに万が一のことがあったら、あの子がこの屋敷に帰ってこられなくなりますわ。それはそれで愉しげかもしれませんけれど」
「…………」
るりあは慶子を見つめたまま黙っている。
妖しく微笑んだ慶子はるりあに背を向けた。そして、そのまま無言で部屋を出て行ってしまった。
残されたるりあは部屋を見回し、この部屋をあとにするこにした。
部屋を出て重い扉を閉めると、錠で鍵をかける。
鍵を強く握り締めながら、再びるりあは屋敷の中を駆け出した。
廊下の向こうにいる瑶子と目が合った。
「探しちゃいました」
安心するような顔をする瑶子にるりあは飛び込んだ。
手を握る。
るりあの空いた手に鍵が握られていることに瑶子は気づいた。
「その鍵はどうしたんですか?」
尋ねられたるりあは奪われると思ったのか、恐い顔をして鍵を持った手を遠くに伸ばした。
瑶子は笑った。
「取ったりしませんよ。その大切なものなんですね。るりあちゃんの物なんですか?」
るりあは頷いた。
「そうですか、なら無くさないようにしましょうね。ほら、鍵にひもを通す穴が開いてますから、ひもを通して首からぶらさげることにしましょう。それなら無くしませんよ?」
またるりあは頷いた。
さっそく瑶子はるりあの手を引いて、自らの部屋に案内した。
部屋についてさっそく鍵にひもを通し、るりあの首から提げられた。このときに、裁縫道具を見た瑶子はあることに気づいた。
「まち針で代用できないでしょうか?」
独り言をつぶやいた。きっと虫ピンのことを言っているのだろう。
針刺しを手に持って瑶子はるりあに顔を向けた。
「美咲さまのところに行きますけど、いいですか?」
るりあは頷いた。
二人は再び美咲の部屋に向かった。
しばらく歩き、美咲の部屋まで来た瑶子は声を掛ける。
「美咲さま、失礼いたします」
少し無言で立ったままの瑶子。返事は返ってこなかった。そこで再び声を掛ける。
「美咲さま、いらっしゃいますか?」
しかし、やはり返事はない。
「美咲さま?」
念のためもう一度。だが返事はなかった。
そこで瑶子は静かに部屋の襖を開けることにした。
「美咲さま、いらっしゃいますかぁ?」
部屋の中に顔を伸ばした瑶子。そのまま辺りを見回すが人影はない。どうやら美咲は部屋にいないらしい。
「いないみたいですね」
つぶやいた瑶子の服をるりあが引っ張った。
「知ってる」
短く言ったるりあ。
「知ってる?」
瑶子は聞き返した。
るりあは小さく二度頷いた。
「美咲さまの居場所ですか?」
返事を返さずにるりあは瑶子の手を引いて駆け出した。
廊下を駆け、途中の部屋を素通りして、るりあは瑶子を屋敷の外に連れ出した。
もう空は夕暮れだ。
るりあは本当に美咲の居場所を知っているのだろうか?
どこかを探しているそぶりはない。るりあは迷わず進んでいる。
やがて前方に鳥居が見えてきた。
そして、夕日を浴びる鳥居をくぐる少女の影。
瑶子たちを目をした美咲は不機嫌そうな顔をした。
「あなたたち、こんなところでなにをしているのかしら?」
軽く尋ねたように聞こえない。問い詰めるような声音だ。
すぐさま瑶子が答える。
「美咲さまを探していたんです。これ、虫ピンの代わりになりませんか?」
差し出された針刺しを見た美咲。
「一応もらっていくわ」
「よかった」
安堵して瑶子は笑顔になった。
しかし、美咲はまだ不機嫌そうな顔だ。
「ねえ、瑶子はあの中に入ったことがあるのかしら?」
美咲が祠を見ながら尋ねてきた。
「祠ですか? なんだか恐くて近づくのもちょっと……。中はどうなってるんですか?」
「〝入れない〟のならそれでいいわ。ただの穴よ、奥はただの行き止まり」
「そうなんですかぁ」
瑶子はそれで納得したようだ。
さらに美咲はるりあに視線を向けた。
「お前は入れるのかしら?」
「…………」
無言のままるりあは美咲は見つめているだけ。
瑶子が口を挟む。
「それがどうかしたんですか?」
美咲は冷ややかに視線を外した。
「あなたたちには関係のないことよ。それよりもこんなところで油を売っている暇はないでしょう、瑶子?」
夕暮れに向かって美咲は顎をしゃくった。
はっとする瑶子。
「す、すみません。夕食の支度をしなきゃ!」
急に慌て出す瑶子は握っていたるりあの手を離した。
「るりあちゃん、これからあたしは夕食の準備をしなきゃいけないんです。だからまたあとでね!」
忙しくなく早口で言って瑶子は屋敷に向かって駆け出した。
美咲も鼻を鳴らしてそっぽを向き、るりあを置いて行ってしまった。
残されたるりあは鳥居の先にある祠を見つめた。